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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「叙述トリック」についてのメモ(4)

文脈とキャプション
数年前、こういうコピペを見た。

俺、子供んときに近所の子にプロポーズしたことあるけど 
そのネタで小学校で「あいつが私にwぷぷぷ」って6年馬鹿にされ、
中学校で3年馬鹿にされ、高校でも3年馬鹿にされ
今だに夕食の時に馬鹿にされる

これだけだと、たいていの場合ノロケ話に見える。しかし嘘か本当か、元ネタはこういうものだったという説もある。

俺、子供んときに近所の子にプロポーズしたことあるけど
そのネタで小学校で「あいつが私にwぷぷぷ」って6年馬鹿にされ、
中学校で3年馬鹿にされ、高校でも3年馬鹿にされ
もうその子は結婚してて、未だに同窓会で馬鹿にされる

二つの例は最後の一行で、前の三行を含む全体の意味がガラッと変わってしまう。なぜ、このようなことが可能なのか。
一つには回想形式の場合、語り手の居る位置、どこから視ているかが語りの内容の性格に関わってくる、ということもある。しかし、たった一行付け加えることで、文章の全体の意味が変わるという例は、回想に限らない。

読者反応批評の画期とされるスタンリー・フィッシュ『このクラスにテクストはありますか』(小林昌夫訳、みすず書房1992、原著1980)という本に、こういう例がある。大学教授である著者の同僚のもとに新学期一日目、一人の女子学生がやってくる。

彼女は「このクラスにテクストはありますか」(“Is there a text in this class?”)と彼に尋ねた。これがどうということもない質問であることに同意していただけることと思う。いささかの疑念も持たず(この話をするときには、彼はこの瞬間のことを「罠にかかった」と言ってはいたけれども)、同僚はこう答えた。「ああ、『ノートン版詩選』ですよ。」この瞬間、罠がパタンと閉じたのである(罠を仕掛けたのはその学生ではない。いつでも利用することのできる無限の容量を持つ言語自身が犯人なのだ)。「いえ、そういうことではありません。」彼女は言った。「このクラスでは詩とかそういうものを信じるのか、それとも私たちだけを信じるのか、とお聞きしたのです。」

ここには勘違い=誤認がある。つまり「テクスト」という言葉の意味を教科書ととるか、文学理論用語の意味でとるか。
あるいはこういう例。

念頭にあるのは、ジョンズ・ホプキンズ大学のクラブのドアに掲げられた句読点なしの一枚の掲示である。
  PRIVATE MEMBERS ONLY
私はいくつかのクラスでこの掲示が何を意味するのかと尋ねてみた。答えはいろいろであったが、面白くも何ともないのは、「このクラブのひそやかな会員であって、会員であることが明らかにされていない者のみ入室を許可する」というものだった。他の答えは予測可能な狭い領域に収まってしまう。「身体器官のうち生殖器官のみ入室可」(この表現は冗長だ)。「生殖器のみ持ち込み可」。あるいは(そして、これはもっとも普通の読みだった。多分ディズニーのような擬人化のせいだろう)、「生殖器のみ入室可」。ところでどのクラスでも、ジョンソン博士のような実証主義者が立ち上がってこう言う。「でも、それは言葉遊びにすぎません。誰だって、その掲示の意味が『このクラブの会員にかぎり入室可』だということは知っています。」そのとおり。誰だって知っている(もっとも後で見るように、誰でも知っていることが必ずしも同じものではないのだけれども)。しかし、その知識の源を調べてみることはできる。明らかに不安定と見えるテクストなのに、多くの者がすぐにその意味を知る程度にまで安定するのはなぜなのだろう。その答えは私の生徒たちが行なった演習の中にある。言葉が直義的で明白な意味を持つ文脈(大学のクラブのドア)から、同様に明白で直義的であっても異なる意味を持つ別の文脈(私の教室)へと、彼らは言葉を移し変えた。

ここだけ読むとわかりにくいかもしれないので、言い換える。
なぜ「PRIVATE MEMBERS ONLY」という文が様々な意味に読めるかといえば、それは本来の文脈からわざわざ切り離して考えたからだ。それを逆に一般化すると、こういうことになるだろう――どのような文も複数の意味を持ちうるが、日常的にはそれが置かれる文脈というのは決まっており、ゆえに誤解する人はいない(もしくは少ない)。
つまり、言葉が担う意味合いは、文脈によって決まる。
ここで「九マイルは遠すぎる」を思い出す人もいるかもしれない。あの短篇はまさに、切りだされた一つの文章から、それが置かれるに適切と思われる外側の文脈を推理する、という趣向だった。
メッセージの発信者と受信者が文脈を暗黙に共有している場合、それをわざわざ説明する必要はない、というのは日常的な感覚だ。フィッシュはテクストの読み方を決める文脈が共有されていることを、「解釈共同体」という概念で説明する(詳しくは本エントリーの末尾引用を参照)。文脈を共有する共同体の中にいるからこそ、われわれはふだん用いる言葉について、いちいち無限の深読みに惑わされる、というようなことがないわけだ。
冒頭のまとめの例を再度見てほしい。文脈を説明する最後の一文があるかないかで、同じ文章でもその持つ意味合いはまったく変わってくる。叙述トリックはこうした基本的な設定の言い落しや、言葉自体のもつ情報量の貧しさを利用する。

しかし記号のもつこうした、オセロがひっくり返るような特性の利用は何もフィクションに限ったものではない。ひるがえってみれば、ある人物の言葉を切り取って悪意ある文脈を与えたり、無関係な写真にデタラメなキャプションをつけて貶めたり、というような炎上は、常に起こっている。煽情的な情報に乗せられてついデマを拡散してしまい、後で実は正反対の意味だったとわかり愕然とした、というような経験は、誰しもあるのでは。発信者と受信者、記号と文脈がバラバラになった情報の海で、テクストの読解をめぐるリテラシーのテストに日々さらされていない現代人はいない、ともいえる。小説の外では、「騙り」のフェア・プレイは必ずしも保証されていないからだ。

話がだいぶ逸れてしまった。発信者と受信者で文脈を共有している、あるいはしていないということは、当たり前のことなので、普段あまり意識されることはない。共有していないなら発信者は噛み砕いて説明する必要があるし、共有しているなら内輪向けの話にすぐ入ることができる。
また受信者が、発信者の当時の意図とはあえて別の文脈で読み込む、ということも当然ある。私が上で行なった引用もそういうかたちだろう。『このクラスにテクストはありますか』は叙述トリックについて書かれた本ではないけれど、私は別の文脈でその文章を利用した。
それをもし、作品単位の解釈の話に広げるとすれば。
昔は、版元がトリックに引っかかったまま間違った粗筋紹介をしてしまうとか、ネタバレをカバーに書いてしまうというようなことがあった。あるいは、「主人公は男だと思っていたら女だったらしい。なんて人物の書き分けのヘタな作者なんだろう」と、読者が自身の小説観に照らして誤解するようなこともあった。なぜこのようなことが起こりうるのかというと、これも同じテクストを読みながら、「叙述トリックとはこういうものである」という文脈が共有されていないため異なる解釈を行なっていたからだろう。逆に現在、なぜ叙述トリックを用いた作品がそうとわかるだけでネタが割れる危険性を持つかといえば、言葉の多義性を利用する仕掛けである以上、文脈が特定されれば解釈の幅を狭めてしまうことになるからなんじゃないか。
ソフォクレスオイディプス王』をミステリとして読むとか、某シリーズがBL読みを誘発するとか、デビュー作をふりかえってみれば作家の全てがすでに詰まっていた、とか……これらの場合においても、テクストの外部にある別の文脈を通して読み込んでいるため、同じ文章からそれぞれ違う解釈を引き出している。そのように複数の読解が成立するのは別に不純でもなんでもなく、ごく普通のことだ。もし既存には無い新たな読解を提示するとすれば、それこそ鑑賞の説得力が試される、腕の見せどころというもの。
あるいは、ある作品に感動した後でそれが盗作だと分かり評価が下がったとか、ある作品は◯◯トリックの先駆だが後続の別の作品が変奏した方が出来が良いため歴史的意義しか認められない、というような話にも通じるかもしれない。

ミステリはフェア・プレイであるべし。というルールは、読解の前に存在する共有項だ。しかし作者が裏をかくことは読者も分かっているので、あれこれと言外の意味を推測する。うまい叙述トリックは、その盲点をつくような説明を後に持ってくることで、意味をガラッと塗り替えてしまう。極端な場合は、一行のキャプション(説明)があるかないかで、全体の印象をガラリと変えてしまう。
先述したように、受信者と文脈を共有していないと判断した場合、発信者は言葉を調整するのが普通だろう。でなければ、なぜそんな基本的なことを先に言わないでわざわざ誤解を招くようなことをするんだ!ということになる。作中作といった額縁や信頼出来ない語り手などのギミックは、そうした言い落しと語りの必然性から要請される。
たとえば綾辻行人の短篇「D」(一応伏せておく)は、作中作のみを見れば、そのクオリティは学生が書いたとしてもおかしくない。そこに額縁を設けることで、「犯人当て」の歴史につながる文脈を可視化している、等など。(つづく)

『このクラスにテクストはありますか』の邦訳は三分冊の予定がなんと最後の一冊しか訳されていないため、肝心の「解釈共同体」とは何かについて充分に説明されていないんですが(どこかで完訳されないものか)、訳者あとがきに未刊部分から著者自身の説明を引いた箇所があるので、ご興味ある方のためにそこを引用しておきます。

解釈共同体は解釈戦略を共有する人々から成っている。(……)こういう戦略は読む行為に先立って存在し、したがって読まれるものの形を決定する。一般に考えられているのと違って、その逆ではない。テクストは多様性をもつというのが、ある共同体の信念の条項であるとき、その成員は多様性を生み出すことのできる戦略群を誇ることになろう。もしも、ある共同体がただ一つのテクストの存在をよしとするなら、その成員が援用する唯一の戦略が、唯一のテクストを書き続けるだろう。第一の共同体は第二の共同体の成員を還元的であると非難し、第二の共同体の成員は、逆にそのような非難をする者たちを浅薄と呼ぶだろう。どちらの共同体も、相手が「真実のテクスト」を正確に知覚していないと推定するのだが、実のところ、それぞれの解釈戦略が要求し存在せしめる、ひとつまたは複数のテクストを知覚しているにすぎない。こう考えると、異なる読者たちのあいだに解釈の安定性のあることが説明されるし(彼らは同一共同体に属するのだ)、ひとりの読者が異なる解釈戦略を用いて異なるテクストを生むときに規則性が存在することが説明される(彼は異なる共同体に属するのである)。それはまた、なぜ見解の相違が存在し、なぜ秩序だったしかたで論争することができるのかをも説明する。テクストに安定性があるからではなく、解釈共同体の組成に安定性があり、共同体内部にできる立場の対立にも安定性があるからである。

換言すると、主観だ客観だと論じることはもはやできない。権威を付与する者、すなわち解釈権威の中心は、同時にそのどちらでもあり、またどちらでもないからである。解釈共同体は客観的ではない。一群の利益、特定の目的、目標をもつものとして、その視点は中立的というより、党派的だからである。しかし、またその同じ理由によって、解釈共同体により生み出される意味やテクストは主観的ではない。なぜなら、そのような意味やテクストは孤立した個人から生まれるのではなく、公的で慣習的な見解から生まれるからである。