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襤褸は着ててもロックンロール

以下はnemanocさんのhttp://d.hatena.ne.jp/Monomane/20151024/1445703356を見て思い浮かんだこと。

西江雅之氏の遺作である新刊『写真集 花のある遠景』の帯裏に、ある方が解説に寄せた「本来、驚きというものは見出す側の内にある」という言葉が引かれていて印象的だった。
人は驚こうと思って驚くことはできず、必ず何かに出会うことで驚かされる。
とはここ数年、心に留めてきたことだけども、
「本来、驚きというものは見出す側の内にある」
が印象的だったのは、逆に言えば、驚かせるほうの内に驚きはない、と捉えられるからだ。これはしばしば、人は無生物に出くわして驚かされることを考えれば当然ともいえる。
エッセイ集『花のある遠景』や講義録『〈ことば〉の課外授業』を読んだ際も、私はミステリに引きつけて連想した。時代や地域によって常識や行動様式というのは変わる。こうした文化人類学的な視差の考え方を用いた作品は、個々の例(たとえば『叫びと祈り』など)はあっても、まだその可能性は汲み尽くされていないのではないかと思えてくる。

視差という言葉は、辞書によれば
「目と対象物との相対的位置の移動または差違による、網膜上の結像の位置の変化」(デジタル大辞泉
ということらしい。
よく自己啓発の文脈なんぞで、
「コップに半分の水が入っている時、多いと思うか、少ないと思うか」
というような古い例え話が出てくる。この設問自体が間違っていると誰もが思わずにいられないのは、「コップに半分の水が入っている」という事実判断と、「多いか少ないか」という価値判断とが混同されているからだ。
同じコップ半分の水でも、砂漠の真ん中では貴重な価値を持つだろう。あるいは火事現場においては、半杯も一杯も変わらないだろう、云々。
すなわち、シチュエーションや文脈の違い、そこにおける認識の違いによって、同じ物質は、行為は、記号は、違った意味を持ちうる。

「謎」というのは、ある現象をある視点から眺めた時に映った姿のことだ。だから誰がどこからどう見ても「謎」である現象は存在しない。奇術をマジシャンの側から眺めれば不思議なものではないし、フーダニットで犯人自身が頭を悩ませることはない。つまり「謎」とは、そうした視差から生じるものだ。そして「驚き」とは、その視野が重なりゆく時に生じるものだ。

ひとくちにワイダニットだとかハウダニットなどと言っても、一編の推理小説は一つの疑問から成り立っているのではない。たとえば『獄門島』は、なぜ和尚は「きちがいじゃが仕方がない」と呟いたのか、という謎だけがあるのではない。そうした様々なWHYやHOWやWHOの集積から構成されている。
WHYがほかの謎と比べ毛色が異なるのは、それが人間の心理に関わるものだからだろう。ある現象がWHYという謎として現われてくることは、そのまま他者という謎が現われてくることだ。

既に話題となっている伊吹亜門「監獄舎の殺人」は、先行作を踏まえた小説として、ほとんど完璧な模範解答性を持っている。その完璧ぶりは、作品の短さ=無駄のなさが端的に証明している。
このまま出来の良い短篇を五、六も並べれば、さぞかし立派な一冊に……というような拙速な期待をする向きもあるかもしれないが、しかし、それは今後良い意味で裏切られてゆくに違いない。

短篇「監獄舎の殺人」の無駄の無い完璧ぶりという強味は、次作においてそのまま弱味にも転じうる。「作者がなぜどうやってこのような発想に至ったのかがすっきりとわかる」という理路すなわち太刀筋が一度読めてしまうということは、作者対読者のゲームにおいて泣き所にもなりかねないからだ。
いつだったか、Twitterでフォローしているある方が連城三紀彦の小説を評して「あゝ連城三紀彦、人か魔か。」というようなことを書いていた。この「人か魔か」という評言が印象的だったので、試みにそれを今、「人」と「魔」という二つの語に分解してみよう。
非合理に見えた現象(謎)が合理的に説明される(謎解き)。この時、隠されていた理路(ロジック)=太刀筋は、共感を寄せ視野を重ねることのできる(=人のロジック)ものか、そうではない新たな謎(=魔のロジック)として現われる。これは内容的にどちらが優れているかというような話ではない。人(内容)において魔(方法)が現われ、魔(内容)において人(方法)が現われるということがある。「人か魔か」という幻惑はおそらく、そうした太刀筋の読めなさから来るものなのだ。つまり、すべてが明らかになってなお残る、作者が「なぜ」「どうやって」このテクストの完成に至ったのか、という魔=謎。
「監獄舎の殺人」には、同じ現象をめぐって二つの道筋がある。すなわち「人のロジック」と、「魔のロジック」と。「人」のほうはナルホド、すんなり我々の腑に落ちる。「魔」のほうはどうか。「魔」が唯一顔を覗かせるのは最後に至ってだ。これは作品全体を根底から揺るがしかねない一撃なのだが、作者はそれを見せた瞬間、さっとカーテンを落として余韻だけを辺りに行き渡らせる。本当の「魔」が始まるのはここからだ、そしてカーテン裏で作者が「魔」に成り変わりゆく苦闘も、おそらくここから始まるのだろう。
「あれはまだ序章に過ぎなかった――」
数年後、そう呟く私の姿があることを願ってやまない。

ミステリーズ! vol.73

ミステリーズ! vol.73