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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

昨日テレビで「刑事コロンボ 殺人処方箋」がやっていたので初めて観た。恥ずかしながらコロンボはほとんど観たことがなく、実に十年以上ぶりの視聴。以下は雑感。
◯犯人が一人に絞られるため、フーダニットに比べキャラクター描写が詳しい。また作者対読者(観客)の印象は消え、犯人対探偵の構図が自然と浮かび上がる。これはゲストを招いてのシリーズものとしてまことにピッタリな発明に感じられる。
◯犯人の立場から見れば、犯行前/犯行中/犯行後とどこにミス=命取りが潜んでいるかわからないから、緊張感がずーっと続く。ダレ場がほとんど無い。
◯犯人と探偵は時に協力し、ホームズとワトソンのような関係を持つ。犯人(ワトソン)の視点からすれば、探偵(ホームズ)の心理は読むことのできない謎として映る。これは視点人物の片思いからその成就へと移って終わる恋愛物語のような関係でもある。ただし通常の探偵・助手コンビに比べ、見る―見られるという互いを凝視する度合いが強い。この凝視は先の「緊張感」にも影響している。
◯対話が多く、「物語の時間」と「言説の時間」がほぼ重なる長いいくつかの場面によって全篇が構成されている。登場人物も少ないので、舞台劇のような感触もある(後で見たら実際に元は舞台劇で、本作はシリーズ化する前のパイロット版的な位置づけらしい)。ウンベルト・エーコは『エーコの文学講義 小説の森散策』でこう述べている。〈かつてわたしは、ある映画がポルノかどうかをいかに科学的に決定するかという問題を考えたことがあります。(……)わたしは(大量のハードコア・ムービーを見たあとで)確実な規則が存在することを発見しました。(性行為の描写も含んだ)映画のなかで、登場人物が車やエレベーターに乗り込むとき、言説の時間が物語の時間と一致するかどうかを確かめるのです〉(和田忠彦訳)。ポルノにおいて「言説の時間が物語の時間と一致する」のは語りによる複雑な時間編集を必要としないからだ。対照的に「殺人処方箋」で一つの場面が長いのは、過去や未来ではない対話による“現在”の緊張感に焦点が当てられているからだ。
◯以下は思いつき――これまで述べてきた点は「倒叙」という形式そのものに備わっているのか、あるいは「刑事コロンボ」が特段に優れているのか。これは両方であるように思われる。同じ「倒叙」でも、単発であればまったく違ったかたちを取りうるだろうし、また上記の要素は映像だからこそ感じ取れるものもある。しかし優れた作家が「倒叙」「映像」「シリーズもの」の三つを踏まえた上で作劇を行なえば、必然的にコロンボのようなかたちになるのではないか。逆に言えば、「倒叙」「映像」「シリーズもの」の三点でコロンボ以後、その影響から逃れ全く違ったものを作ろうとすれば、かなりの難関なのではないか。あるいは先述の「語りによる時間編集」がキモになるのだろうか。
◯「殺人処方箋」では共犯者がいるため、最後の責め手はちょっとイマイチに思った。