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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

梶龍雄ルネッサンスのために――『龍神池の小さな死体』

ミステリ

梶龍雄『龍神池の小さな死体』(講談社、1979)
乱歩賞受賞の『透明な季節』(1977)から数えると六冊目。いわゆるスリーピング・マーダーもの。時は大学紛争の季節。主人公の大学教授・仲城は、死に際の母から「戦時中に疎開先で溺死したお前の弟は実は殺された」と言い遺される。工学部での実験が一段落つくと主人公は真相を確かめるべく、23年前に溺死事件が起こった疎開先の村ほか、当時を知る人物をハードボイルド探偵よろしく訪ねる。やがて事件の詳細を誰もほとんど知らないといった不審な点に気づいてゆくが、ついに村の滞在先で何者かに襲われる。
ここまでで半分くらい。私が読んだ単行本は250ページほどだが二段組で、文庫本並に小さい活字だから長さは700〜800枚くらいあると思う。気になるのは、「あとがき(に代えた架空対談)」で著者がこう述べているところ。

梶 状況設定とか、人物設定とかがプロット作りの最初に出てきて、それからトリックを考えるアト型発想と、トリックが先に来て、状況や人物設定があとからできるサキ型発想との二つのタイプが、推理作家にはあるのではないかというのが、ぼくの考えです。
批 梶さんはアト型?
梶 完全にそうだというのではありませんが、その傾向が強いほうです。
批 しかしそれだと、トリックが弱くなるのでは?
梶 必ずしもそうではありません。初めに状況や人物設定がくるので、それがトリック成立上困難かどうかを考えません。だから問題提示がひどくトリッキーになったり、不可能興味が出てきたりすることがあります。
批 つまり先に生まれたトリックのために、問題提示に改変を加えたりする妥協がないというのですね?
梶 サスガ批評家! むずかしいいいまわしでもっともらしくいってくれました。アト型は状況や人物設定を優先させますから、やはりそのへんがしっかりしていて、しかもそこにうまくトリックが溶け込むと、推理小説にある好みを持っている人には、何か推理味が薄いように感じるのかも知れません。
批 梶さんの作品も、そういうトリック溶け込み型だと……?
梶 へへへ……。だったらいいと思いますけどね。

これは大雑把にいえば、書くにあたって物語が先かトリックが先か、あるいは古い例の推理「小説」か「推理」小説かというふうな議論にも重なるかもしれない。なるほど、これほどの錯綜した仕掛けを何もかも考えてから書き出す、というのは難しいというか不可能ではないかと感じられる。そして作者の言を素直に考えれば、推理よりも「小説」を優先(「アト型」)したのだろうかとも受け取れるだろう。ところが実際の作品を読んでみると、容疑者のアリバイの検めや情報提示の締め切り(終章直前までで推理に必要な材料は提示したという、実質的な「読者への挑戦」)他、しっかりと本格ミステリの手順を踏んでいるため、行き当たりばったりに書いたとも思われない(「サキ型」)。しかしさらに重要なのは、にも関わらず、最後に至って人物とトリックとが怒涛のごとく、不可分のものとして迫ってくることだ。これはなぜなのか。
よくいわれることだが、シリーズ探偵ものは、ビルドゥングス・ロマンと異なり、探偵が成長してゆくことは比較的少ない。探偵役が不動であることで、世界が変わってゆく。シリーズものでなく単発作品である『龍神池』では、主人公もだんだんに変化を被る。流動する世界の只中で自身も動いてゆく。他方、梶龍雄が伏線を張るその巧みさを誰もが指摘する。印象に残る小さなエピソードが、ラストに生々と甦る。なぜ読者は気づかなかったのだろう? それは、たいていの捜査シーンが物語の停滞(=不動)を招きがちなのに比べ、動いてゆく物語の中に伏線がそっと投げ込まれるからではないか。放流した稚魚がやがて回帰するように、人物を造形するエピソードが、策略の伏線として新たな意味を持って次々と帰ってくる。つまり設定づくりのいちいちをトリックに活かしているため、その一つをネタバレするだけでは全体像を説明しがたいほどに「小説」と「推理」とが緊密に結びついている。こうしたどちらが「サキ」とも見分けをつけさせない手腕の見事さは、カジタツ・マジックとでも呼びたくなるものだ。勿論『龍神池』にしても、二人で推理を重ねる部分が説明的でディベートじみているとか、探偵役の少女が情報を手に入れる都合の良さだとかはある。が、読み終えた大抵の者にとって、そうした瑕疵はこの作者のヴィジョンの前で影を薄くするのではないか。『透明な季節』の解説で氷川瓏は、先の『龍神池』あとがきの同じ箇所を引き、仕掛けの複雑さがリアリティを損なうという点で本書より『透明な季節』に軍配を上げているが、現在の推理小説読者なら、リアリティの感覚において違った受け止め方をすると思われる。
私も著者の小説はこれで初めて読んだが(その後いくつか読んだ)、推理小説としてのテクニックが古びているどころか今なお新鮮かつ先駆的なのは当然、若い時分から相当の研鑽を積まれたであろう風俗描写は、作中人物たちの生きた時代を語って魅力が尽きない。作家の全体像がこれまで掴み難かったのは、版元と形態がバラバラで、まとめて読むことができなかったためではないか。どこか文庫で傑作選ないしコレクションを編めば、それなりの読者から再評価を受けるのではないかと思う。作者のあとがきからは『龍神池』の時点で思うような評価が得られていないことを嘆く節が見られるが、要するに、早すぎたのだろう。今や時は満ちた。インターネット上でひっそりと語り継がれるに留まらない梶龍雄ルネッサンスは、おそらくこれからやってくる。

梶龍雄とは無関係ですが、伏線の考え方についてはこちらの記事もオモシロイです。
http://d.hatena.ne.jp/saito_naname/20150809/1439136155