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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「遠いファンタシーランド」を偽物化する――『殊能将之読書日記』

殊能将之

殊能将之読書日記』が発売されて5カ月近く、版元のアナウンスでは少なくとも一度は重版されたそうだから、第二弾の可能性はありうるでしょう。
以前にも書いたように、この本は旧公式サイトの「reading」という原書を読んだ感想ページだけをまとめたものなので、邦訳書に関するリアルタイムの記述(そちらは「memo」に書かれていた)は、まるまる省かれている。ところが、それらはもちろんこの「reading」の内容とも大きく通底するのだから、この本だけでは全容が見えない。
そのことに関連して、いくつかの記述を紹介してみたいと思います。

「reading」の記述が当時未訳だったポール・アルテの日本への紹介に大きく影響したであろうことは疑いないが、その評価にはややわかりにくいところがある。私も数冊読んで「ああ、ポール・アルテね」くらいの感じだったのだけど、『読書日記』を読み返してみると、そのわかりづらさについて本人が解説している箇所があるので、長くなるがまずそこを引用しよう。2003年6月2日の記述から。

『第四の扉』が 邦訳されたとき、「ディクスン・カーに似ている」「いや、カーの域には達していない」「よく読めば、実はちゃんとフランスミステリだ」といった評言がいくつか見られた。これらの指摘の正否はとりあえず問わない。というのは、わたし自身はこういったとらえ方にまったく興味がわかないから。ここでは「なぜ興味がわかないのか」について、少し考えてみたい。
 わたしがアルテにハマった最大の理由は、異様だからである。今月刊行予定の『死が招く』をお読みになった方は、ぜひ、この話がフランス語で書いてあるさまを想像してみてほしい。舞台はロンドン、登場人物は全員イギリス人、話はディクスン・カーばりの本格ミステリ。これをフランス語で読むのは、きわめて奇妙な体験である。一例をあげれば、「ツイスト博士」は「Le Docteur Twist」なのだ。この字面を見るだけで、違和感を感じる。
 翻訳でアルテ作品を読むとき、読者はそれをカー作品や他のフランスミステリ作品と同一平面上でとらえることができる。なぜなら、翻訳ではアルテ作品もカー作品も他のフランスミステリ作品もすべて日本語だからだ。しかし、フランス語で読むと、内容はカー作品なのに表現はフランス語というズレが生じる。
 このズレがわたしのアルテ評価のすべてといってよい。その結果、初読時の違和感から出発して、「カー作品、黄金期本格ミステリ、フランスミステリのどれともよく似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それこそがアルテの独創性なのである」という読み方にいたったわけ。
 以上は「フランス語で読まないとアルテはわからない」などといったイヤミな話ではないので、念のため。アルテ作品のズレを感じとったのは、わたしがフランス語ができるからではなく、フランス語ができないからです。
 フランス人、あるいはフランス人並にフランス語に堪能な人がアルテ作品を読む場合、やはりこのズレには気づきにくい。なぜなら、この場合、アルテ作品は「カーや黄金期本格ミステリのフランス語訳」のように読めるはずだからである。したがって、やはり「カーに似ているか似ていないか」「黄金期本格ミステリに似ているか似ていないか」が評価軸となるであろう。
 アルテ作品のズレを最も敏感に感じとれるのは、わたしのようにフランス語がろくにできない外国人がフランス語でむりやり読んだ場合である。
 したがって、わたしのアルテ評価がきわめて偏っていることは自覚している。アルテ作品の邦訳を心待ちにしているのは、この偏見が正当なものかどうかを確認したいからだ。フランス語で読むときの違和感を消去したうえで、同じ読み方ができるかどうか、これからじっくり確かめていきたいと思っている(のでちゃんと邦訳してください)。
 余談ですが、「オレは外国語ができる」なんて思い込んでる人はあんまり信用できないねえ。わたしは「外国語なんかわかるわけがない。わからないからこそ一所懸命読むんだ」と思ってます。わたしが語学堪能だってのは美しき誤解なので、そこんとこヨロシク。

「わたしがアルテにハマった最大の理由は、異様だからである」「このズレがわたしのアルテ評価のすべてといってよい」という断言を覚えておいてください。
フランス語と日本語の組み合わせでいえば、アルテの読み方としては基本的に次の四種類が考えられる。 
 1 フランス人(ないしフランス語の得意な人)がフランス語で読む
 2 フランス人(ないしフランス語の得意な人)が日本語で読む
 3 日本人(ないし日本語の得意な人)がフランス語で読む
 4 日本人(ないし日本語の得意な人)が日本語で読む
『読書日記』での読み方は3だ。しかし大部分の日本人読者は4だろう。読者数の順位としては、1→4→3と2が同じくらいということになるか。そして引用箇所からは、これらの間では見えてくる風景が違う、つまりなんらかの「視差」があるという主張が読み取れる。
これはどういうことなのだろうか。

『第四の扉』をフランス語で書くことは、非常に異端的な営為である。しかし、『第四の扉』はフランス語でしか書くことはできない。なぜなら、新本格ミステリとは非英語圏の産物だからだ。
 現代の英米ミステリ作家にも、ディクスン・カーが好きで、カーのようなミステリを書きたいと思っている人はいるだろう。だが、その場合は「現代ミステリの文脈でカーのテイストを出すにはどうしたらいいか」を考えるはずだ。1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説を書こうとは、まず考えないに違いない。
 仮に書いたとしても、出版の見込みはゼロに近い。出版社に持ち込んでも、
「きみ、いまどきなんでこんな小説書くの? この手のミステリは50年前に死ぬほど書かれたじゃない」
 と言われるのが落ちである。
 仮に英米ミステリ作家が「1930・40年代のロンドンを舞台にして、ツイスト博士なる名探偵が怪奇趣味あふれる密室殺人の謎を解く小説」を書くとしたら、それはパロディあるいはパスティーシュという別のサブジャンルの作品となる。
 くだんの某氏の誤解の遠因もここにある。アルテは外国人作家だから、「怪奇趣味あふれる密室殺人」をマジで書くわけがない(そんな愚かなことをするのは野暮な日本人作家だけだ)。だから、これはなんらかの意図があってわざと使っているに違いない――おそらくはそう考えたのではないだろうか。
 英米ミステリ作家なら、確かにそうかもしれない。だが、アルテはフランス人である。この点を見落としては、アルテという作家の特異性が理解できないのだ。
 要するに、アルテもディクスン・カー翻訳で読んでいるということだ。翻訳は時代性をある程度消去する。まず、翻訳はすべて現代語訳である(100年前に書かれた小説だからといって100年前の言葉づかいで訳す翻訳家はまずいない)。さらに、翻訳は新刊書として流通する(現代日本ではバークリーもアリンガムもすべて新刊である)。すなわち、翻訳でカーを読む人間は、カーを半世紀以上前の作家としてではなく、より身近に感じることができる。
 その結果、「ディクスン・カーみたいな小説が書きたい」という欲望が生まれる。言いかえれば、「怪奇趣味あふれる密室殺人」をマジで書くことが可能になるのである。
 したがって、「新本格ミステリ15周年」の日本では、アルテは広汎な読者を獲得できるに違いない(<あくまで希望)。むしろ日本の読者こそアルテを正当に評価できるはずだ。逆に言えば、英米人読者にはアルテの価値がわからない。だから、おそらくアルテ作品が英訳されることはないだろう。
 アルテ作品は新本格ミステリの国、伝統のしがらみがない国、英米黄金期本格ミステリがあくまで輸入文化であった国の幸福な読者のためだけに書かれた特別料理なのである。(2002年5月18日)

ここでは、アルテが「他の作家に比べ際立ってすごい」とか「ここにミステリの未来がある」などと、誰が見ても傑出した存在として賞賛されているわけではない。眼目は、「怪奇趣味あふれる密室殺人」を「マジで書く」という「異様」さにある。それがやがて前述の、「カー作品、黄金期本格ミステリ、フランスミステリのどれともよく似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それこそがアルテの独創性なのである」という認識へと至る。
そうした種類の「異様」さは、アルテのテクストそのものに備わっているのだろうか。「わたしは頑固なまでの作者の話は聞かない主義者であるわけだが、その理由は作品の最も本質的な部分は作者もわかっていないと考えるからだ」(memo2008年10月前半)と主張する以上、『読書日記』の著者は、「最も本質的な部分」は、読者が感受するものと考えていたように思われる。
「フランス人がフランス語で読む」のとも、「日本人が日本語で読む」のとも違う、「異様」さ。とはいえ、そんなのはニッチ過ぎるのではないか。なるほど、今時懐かしい本格らしい本格が、しかもフランスから出てきたとなれば、珍しいし、日本の市場で一定の広がりも見込めるだろう。だが、日本語に訳されば先述のような差異など大多数の読者は意識しないであろうし、しょせん「よくできた作品」程度の評価に留まるのではないか。いったい、何をそんなに騒いでいるのか。
“フランス人がフランス語でイギリスを舞台に古い英米流の小説を書いている”という指摘を取り出してみよう。ここには「異国」の「過去」を舞台にした「本格ミステリ」である、という三つの要素がある。たとえば日本人作家が西洋を舞台にした小説を日本語で書けば、猿真似だとかイミテーションだとかコスプレだとか西洋崇拝主義だとか、そうした非難は今でも投げかけられうる。また歴史ものや時代ものの手法も絶え間なくアップデートされているし、古めかしいトリックだけを中心に据えた本格ミステリの新作というのは、もはや商品として成り立ちづらい。「今、ここ」とは別の時空を見るならば、あえてそうすることでこちら側へ切り返してくるような、そうした何かが必要ではないのか……と、誰もが感じるはずだ。すると上の認識はブーメランのようにわれわれにも跳ね返ってくる。そもそも本格ミステリとは英米で完成した小説ジャンルだった、その差異について極東の島国内でガラパゴス的にあーだこーだ議論している状況も「外」からすればじゅうぶんに、あるいはポール・アルテ並に「異様」ではないのか、云々。
つまり日本の新本格ミステリの「最も本質的な部分」にも、ある種の偽物性がある。もちろん、そんなことは新本格を通過した多くの読者もわかっている。しかし、その「異様」さまでは実感できない(おそらく、2002年時点においては)。自分はホンモノだと自覚する人間がニセモノを見ても、単に胡散臭いものにしか思えないだろう。しかし自分はニセモノだと自覚する人間が別のニセモノを見る、その時にだけ感受できる「何か」が、ここでは一貫して問題にされている。

ジャーロ〉9号のチェックリストをなんとなく読んだ。
 いやー、評判悪いっすねえ、『第四の扉』。ただ、わたしは、何をおもしろいと思うかが人によって違うのは当然だし、本をどう読もうがその人の自由だと考えているから、反発や反論をする気はまったくありません。
 クォータリーベスト3座談会で、佐神慧氏曰く、

これって結局、日本とかフランスとか、そういうところで特殊な遺伝子の操作でカーが好きな人が生まれてしまうと、こういうものが書かれちゃうのであって、イギリスでは絶対生まれない小説ですね。

 また、佐神氏はフレッド・ヴァルガス『死者を起こせ』(藤田真利子訳、創元推理文庫)の書評で、

アルテやオベールのような模造品とは一線を画す、フランス流本格の傑作。

 とも書いておられる。
 これらの意見はまったく正論で、卓見といってもよい。まさにおっしゃるとおりです。
『第四の扉』は「イギリスでは絶対生まれない小説」であり、「フランス流本格」「とは一線を画す」「模造品」である。ということは、本来、イギリスでもフランスでも書かれるはずのない小説なのだ。イギリスミステリから見れば「まがいもの」、フランスミステリから見れば「異端」。この点にこそアルテのオリジナリティが存在するのである。
 まあ、「そんなもん、そもそも書かれんでもえーわい」と言われたら、返す言葉もありません。ただ、いろんな小説があっていいんじゃないですかね。
 実を言うと、『第四の扉』は真面目な海外ミステリファンには悪評紛々だろうな、とは思っていた。
「古くさい」「まがいものである」「カーの域に達していない」
 ああ、ご説ごもっとも。まったくそのとおりです。でも、そこが(少なくともわたしにとっては)アルテの最大の魅力なのです。
 どうしてみんな本物ばかり尊ぶんだろう?
 本物の「古い」ミステリを読みたいのなら、英米黄金期ミステリを読めばいい。本物の「フランス」ミステリを読みたいのなら、いまはフレッド・ヴァルガスが最適だろう(けっこうおもしろい。ただ、ちょっと地味)。本物の「カー作品」を読みたいのなら、ディクスン・カーを読めばいい。
 この三つのどれとも似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それがポール・アルテだ。
 これはアルテが下手だからではない。通時的に読んでいくとわかるが、小説技術はどんどん向上している(それでも下手と言われるかもしれない、というのはまた別の話)。それでもなお、ずれてしまうのだ。繰り返すが、この点がアルテのオリジナリティなのである。偽物を書くことによって独自性を獲得しているのだ。
 追記。佐神慧氏はクォータリーベスト3座談会で、アルテとヴァルガスの違いをこう説明しておられる。

 フレンチの本格って、さっきのポール・アルテとか、最近話題のジャン=クリストフ・グランジェと か、彼らはイギリス、アメリカ文明に、フランス人的な変なツボの突き方をして、同じものを書いたつもりなのに、できあがったものはまったく違うものだった というところがあった。この作家〔ヴァルガス〕はそれとは、一味違います。彼女は一応ちゃんと自分のオリジナリティがある。

 この発言をわたし流に翻訳すると、「アルテは偽物だが、ヴァルガスは本物である」となる。ご指摘のとおりだと思いますよ。(2002年9月20日)


多くの日本人にとって、日本語とはふだん空気のように無意識に扱うものだろう。意識する機会といえば、就職して敬語に気をつけるとか、何かに入門して専門用語を学ぶとか、それくらいか。言語のそうした不透明性がもっとも露わになるのは、外国語を学ぶ際ではなかろうか。
地球上の全ての人間が同じ文化の中にいて、同じ言語を扱うなら、翻訳の問題などないに違いない。しかしそれは現に、不可避のものとしてそこにある。「本物」「偽物」という意識もその差異から生まれる。「本物」とはアイデンティティを脅かされずに一箇所に安住していられる存在のことだから、往々にしてその差異に鈍感である。しかし「偽物」の方は絶えず「本物」を意識せずにいられないから、不安定な状況にある。これはフランスやイギリスや日本のどちらかが「本物」もしくは「偽物」であるという話ではなく、誰であろうと母国(語)を離れ、領域の間に立てば、必然的に「ズレ」が生じる、その「ズレ」への感覚の問題だ。
この「reading」が書かれた時期も重要だろう。
私は1986年生まれで、『十角館の殺人』はその翌年の刊行だから、物心ついた時にはもう新本格ブームはあった。2000年代半ばに入った大学ミス研では新本格が最大の影響力を持ち、自分でそういう作品を書こうという人間も多かった。つまり、新本格母国語化していた。
他方、『読書日記』の作者は1964年生まれ。いわゆる「本格冬の時代」も経ているし、『十角館』には〈いまでは信じられないかもしれないけれど、「若者が本格ミステリを書いていいんだ!」という衝撃があった〉〈来るべき時代の胎動を感じた、と予言者を気取りたいところだが、それも感じず、この作者も一種の突然変異なのであろう、と思っていた〉(「初めて衝撃を受けた講談社ノベルス――『十角館の殺人綾辻行人著」「メフィスト」2012年4月)と述べている。新本格の中心となったのはほぼ同年代の1960年前後生まれの作家たちだったが、その十年後、『ハサミ男』でデビューする直前に「あと二、三年でミステリ・ブームも終わりか」(「ハサミ男の秘密の日記」「メフィスト」2013 Vol.3)と洩らしていることからは、「遅れて来た」書き手であるという自己認識が見える。
ポール・アルテあるいは新本格の「ズレ」は、こうした状況の中で取り上げられているのである。
すると、「reading」と「memo」とで批評文の書かれる場所が、小説ジャンルではなく言語で決然と区別されていた理由も見えてくる。これは『ハサミ男』もしくは「ユリイカ」(1999年12月号)インタビューでいう「火星人」というキーワードにもつながる。あるいは「作者の話は聞かない」こと、「田波正」と「殊能将之」を使い分けることなどとも。
地球にいながらにして「火星人」の目でこの地上を眺めるように、SF研出身の遅れてきたミステリ作家としてSFやミステリを読む。「reading」の記述に流れるのは、そうしたストレンジャー感覚から生まれたものではないか。

長くなるので、もう一回だけ続けます。