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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

「これは推理小説ではない」

ミステリ

これまで何度か触れたことのある話題ですが、今回はもう少し詳しくまとめておきます。

解決編で登場人物が「これは推理小説ではなく現実なのだから……」といって、平々凡々な真相を示す作品の系譜というものがあります。そのセリフによって、トリックがショボクレているとか、そもそも無いとか……そういうのを免罪しようとするものです。しかし、その大方はどうも、「開き直りでは?」と感じられるように思います。他の読者からもあまり良い評判を聞いたことがない。にも関わらず、いまだにそうした作品は書かれ続けている――。

思うに、その源流には、推理小説とリアリティの相剋をパロディ的に扱った作品があるのでは。私が読んだことのある中で、最も古い代表例というと、ノックスの『陸橋殺人事件』が浮かびます(もっと古い例をご存知の方は、ご教示いただければ幸いです)。
1925年発表のこの長編は、当時の推理小説を巧みに皮肉ったものとして大いに評判を得た。けれど今読むと、その意味での新鮮さはもはや薄れています。似たようなのを何度も読んできたからね。
そうした流れにおける最大のエポックは中井英夫の『虚無への供物』でしょう。周知の通り、この小説は前半部分までで江戸川乱歩賞に投稿され、最終選考段階で受賞を逃すも、後半部分の加筆を経て刊行された。
前半部分の結末は、前述のノックスに近い。乱歩自身から選評で「冗談小説」と評されたのもそのためでしょう(もしこの段階で受賞が決まったならば、後世はいったいどうなっていたのでしょうか)。
しかし主眼は後半にあります。前半が「事件を複雑に読み解く探偵が単純な現実に敗北する」という構図であったとすれば、後半で明らかになるのは、「現実」と「虚構」の相克関係としての「事件」となります。
竹本健治はかつてこう分析しています。やや長くなりますが、印象的な一文だったので、引用させていただきます。
中井さんが一貫してミステリに対する屈折したスタンスを保っていたことは改めて言いたてるまでもないが、そのスタンスが完成されるには様ざまな後天的要因が働いたにせよ、その出発点となったものがミステリをめぐる危機意識だったことはほぼ間違いないだろう。
その危機意識は『虚無への供物』のなかでもこういうふうに表明されている。すなわち、これだけ新形式の殺人方法が次々と案出され、現実の事件が小説に描かれる事件を軽がると超えてしまう現代という時代において、ミステリというジャンルはその存在意義を維持しうるのだろうかとーー。
この問いかけが多くの読者にインパクトを与えたのは、その種の自覚的な設問が当時のミステリをめぐる言説空間では目新しく、それを作品のなかで展開させるという手法もきわめて斬新で、もちろん問いかけの内容自体が相応の説得力を具えていたためでもあっただろう。けれども改めて振り返ってみて、この問いかけはこれまであまりにも額面通りに受け取られてきたのではないかと思う。(……)
そこにはひとつのねじれがあって、中井さんの問いかけ方自体に微妙な詐術がはいりこんでいるのではないかと思う。つまり、その問いかけのもともとのかたちは「このまま漫然と再生産を続けるだけではミステリに未来はない。では、どういう道筋に未来を見いだせばいいのだろうか」という、あくまで書き手としての発想だったはずで、この「現代に可能なミステリは何か」という問いを「現代においてミステリは可能か」というかたちに裏返し、その際、作品のテーマに引き寄せるために「これだけ新形式の殺人方法がーー」云々の条文を加えたというのが実情ではないだろうか。(……)
そもそも根っから江戸っ子の中井さんには、見えすいた口上をだらだらと述べる類いの解決編は、途轍もない野暮として映ったに違いないのだ。けれどもあくまでミステリを書くことを大前提としていた中井さんは、その問題と真っ向から格闘せざるを得なかった。その結果生み出されたものが、中盤の長大な推理較べであり、謎を完全に割り切らないスタイルであり、読み手をあちらこちらにひきずりまわし、問題の本質を思いもよらない方向にずらしていく様ざまな騙しうちの手法であり、何よりも言葉の呪力で作品全体を濃密な魔術空間に変ずる試みだったのだろう。(「問題の所在」/『とらんぷ譚 中井英夫全集3』創元ライブラリ、1996)
「これは推理小説ではない」という言葉には、何かドン・キホーテ的に虚実のねじれる響きがあります。もしそれをまともに受け取るならば、作品いやジャンル自体が爆発四散しかねないほどの可能性を秘めている。しかし多くの「これは推理小説ではない」タイプの推理小説は、この潜勢力を微温的に覆い隠してしまう。このとき、作品は鳥でも獣でもないコウモリの裏切りとして堕してゆくのではないか。とりわけ、「現実にこのような複雑な事件が起こるわけがない」と単純な敗北宣言をしてしまっては。……そんなことは、言われずとも誰もが元より承知しているからです。そうした告発には、裸の王様を指し示すつもりの当の自身が裸の王様になっているのを見るような、悲惨すら感じられないでしょうか。
しめくくりに言葉遊びをしてみましょう。
仮に、通常の推理小説をミステリ=反現実であるとします。すると、『陸橋殺人事件』は反ミステリ=現実としてみせた。『虚無への供物』は、さらに反ミステリ=反現実とひっくり返した。『陸橋』は「推理小説ファンが最後にゆきつく作品」と評されましたが、『虚無への供物』も東京創元社から出た塔晶夫版の紹介に「1841年、エドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」により幕を上げた近代ミステリーの歴史は、1964年、わが国の一冊の書物によって本質的にその終焉を告げた」とある。すると、次の時代の「終わり」はどこにあるのでしょう。
「これは推理小説ではない」とはおそらく、その地点において発せられる言葉ではないでしょうか。