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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(2)

殊能将之
承前
この本を最後まで読むと、作者は生活のために、前の三編のような短篇を量産しなければならなかったのではないか、という思いが多少なりとも誰の胸にも湧くと思う(失礼な言い方をお許しあれ)。しかし、現実にはそうはしなかった。依頼を断っていたのか、「キラキラコウモリ」以外の作品がまだ他に眠っているのかは判らないけれど。
テッド•チャンだって年十八編発表すれば、駄作も書けるようになるって。(「編者に聞く」2005ウェブ掲載/アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』河出文庫、2014所収)
と言い放ったことがあるからには、「ではなぜ先生は駄作が書けるくらい年十八編書かなかったんですか」という疑問が生まれても不思議ではない。短篇の執筆にあまり意味を感じていなかったのだろうか。三編とも確かにうまい。旧作のあちらこちらを様ざまに連想させもする。その意味で、デビュー前夜のアイディアが胚胎されたデモテープ的一冊としても読める。
ここでは、「犬がこわい」「鬼ごっこ」「精霊もどし」のうち唯一、一人称が用いられている「精霊もどし」を詳しく見てみよう。
「精霊もどし」は問題作といってよく、作品に思い入れのふかい読者ほど、戦慄を感じてやまないこととおもう。先のディッシュと絡めて、グレッグ・イーガンの一人称について言及している箇所を引用しよう。
 わたしは不勉強なもので、グレッグ・イーガンの長編を読むのは『万物理論』が初めてである。
 短編を読みはじめたのも遅く、『20世紀SF(6)1990年代 遺伝子戦争』(山岸真中村融編、河出文庫)で「しあわせの理由」を読み、たいへん感心したのがきっかけだから、2001年9月のことだ。とりあえず、『祈りの海』(山岸真編訳、ハヤカワ文庫SF)を読むことにした。
『祈りの海』は非常に不思議な短編集で、収録作品がすべて一人称で書いてある。最初は編者の意図的な選択かと思ったが、読んでいくうちに、イーガンが一人称で書くのが好きなのだと悟った。
 たとえば、「キューティ」という小品がある。
「子供が欲しくて欲しくてしかたない男がいて、生んでくれる女がいないので、人造ベビーを買って自分で生んだ」
 というのは、わたしの目にはほとんどギャグ的発想に思える。トマス・M・ディッシュなら、このアイディアを三人称で書いて、爆笑ブラックユーモア短編に仕上げただろう。
 しかし、イーガンは一人称で書く。しかも、一人称の語り手にどっぷり感情移入して、センチメンタルに書いてしまうのだ。個人的にはどうも肌に合わず、気色悪い書き方である。(「memo」2004年11月後半)
仮に、ディッシュ=三人称的/イーガン=一人称的という構図をとるならば、自分はディッシュ=三人称的である、ということになる。実際、小説ではない「ハサミ男の秘密の日記」などを読んでも、三人称的に書くのが好みだったのだろうことがうかがえる。
ではなぜ「精霊もどし」では一人称が用いられているのか。それはこの短篇が、死者の蘇りを題材にしているからだ。死んだはずの女・真知子の姿は、主人公・宮崎の目にしか見えない。真知子の姿を客観描写できないことは、『ハサミ男』において〈医師〉の姿が「わたし」にしか見えないのと同様だ。どうして真知子は宮崎の目にしか見えないのだろう。その原因はまったくわからない。ただ、家事をこなしたり電話をかけるといった物理的な行為だけが、間接的にその客観性を証明するものとしてある。
この語り手の「宮崎」の視点は、極めて三人称に近い。

広永はそのまま病院に連れていかれ、心因性鬱病と診断されて、しばらく入院することになった。傷害事件を起こしたには違いないが、妻の死がストレスとして蓄積された結果、一時的に精神錯乱状態になった、と判断された。(……)被害者の側も事を荒だてる気はなかったので、刑事事件にもならず、いたって穏便に決着がついた。

 この「被害者の側」というのは自分(宮崎)自身のことなのだから、通常なら「わたしのほうも事を荒だてる気はなかったので~」などと書きそうなものだが、そうはしない。こうした自分を他人のように書くやり方は、続く「ハサミ男の秘密の日記」における、〈殊能将之が投稿した長編ミステリ『ハサミ男』がどうなったか、ずっと気になっていたのだ〉あるいは〈わたしは殊能将之とかいう新人作家のファンになったね〉だとか、また『ハサミ男』の有名な書き出し〈ハサミ男の三番目の犠牲者は、目黒区鷹番に住んでいた〉などにも通底している。たとえば先の書き出しを〈ハサミ男の三番目の犠牲者が出たと聞いて、わたしは驚いた。目黒区鷹番に住んでいた女の子だという〉などとすれば、より普通の一人称的ではあるけれど、しかし何かが決定的に違ってしまう。

あるいはラスト近く、友人に襲いかかられる修羅場の部分。
出血した部分を右手で押さえながら、最後の懇願をした。広永は無表情のまま立ちつくし、包丁を逆手に握りなおした。
そのとき、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。サイレン音はうるさいほど大きくなり、やがてキッチンの窓に赤い回転灯の光が投影された。
自動車が停まる音。人の走る足音。「通報があったのはここか?」「はい」という話し声。そして、玄関のドアが乱暴に開けられ、何人かの人間が駆け込んでくる音が響いた。
ここをたとえば、
出血した部分を右手で押さえながら、宮崎は最後の懇願をした。広永は無表情のまま立ちつくし、包丁を逆手に握りなおした。
そのとき、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。サイレン音はうるさいほど大きくなり、やがてキッチンの窓に赤い回転灯の光が投影された。
自動車が停まる音。人の走る足音。「通報があったのはここか?」「はい」という話し声。そして、玄関のドアが乱暴に開けられ、何人かの人間が駆け込んでくる音が響いた。
と三人称に書き換えても違和感はない。たいていの一人称小説は三人称に書き換えても実は違和感のないものが多いが、ここは自分の生死がかかっている箇所なのだから、本来もっと動揺が現われてもいいと思う。しかしそうなっていない。作者のミスなのか。というよりは、作品全体にわたってこの語り手の「宮崎」という人物は、存在が希薄に思える。「ぼく」という主語は地の文には実は一度も登場せず、会話文において三回使われているのみだ。そうした恐ろしいまでに冷えきった視線でありながら、にも関わらず滲み出てくる哀切な感覚はなんなのだろうか。『ハサミ男』の「わたし」の文体は、都市観察者としてのハードボイルド探偵ふうのそれだから、〈わたし〉という主語はそれなりに多用されるのだが、どこか似た空気を感じてしまう。とりわけ、修羅場から病室へ、というラストのシークエンスの連なりにおいて。(続く)

 

殊能将之 未発表短篇集

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