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襤褸は着ててもロックンロール

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(3)

承前

かつて『Before mercy snow 田波正原稿集』(名古屋大学SF研究会、2013)を読んだ際、私はフィリップ・K・ディックヴァリス』論の次の一節に目が留まった。

たったひとつの言葉が気にかかる。本は『暗闇のスキャナー』、「作者のノート」。
「なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい」。
これを読んで、ああ、ディック自身は遊ばないんだな、と、ふと思った。「かれらみんなとふたたび遊び」ではないのだ。「遊ぶ」のではなく、「遊ばせる」こと。おそらく傷つきやすい、エゴイスティックな、ナルシスティックな魂がここに見られる。ディックは「遊ばせる」者、つまり神を希求した。いや、神になろうとした。
しかし旧約の神だけが神ではたい。神とはむしろ「遊ぶ」者ではなかろうか。(「ヴァリス狩り」)

そこを引用し、いろいろ述べた上で私はこう書いた。

言葉=論理によってフィクションの論理を貫徹し、他者と遊ぶこと。そうして作品という場に一瞬の〈超越=救済〉を招き寄せること。そのような刹那性を肯定する一方、しかし、SF(に限らないが)にできるのはそれだけのことだという不完全さに対する苛立ちのような感情もまた、『BMS』には漂っている。

それでは、小説の実作者となるにあたって、〈超越〉という不可能な問題との再対決はいかに行なわれたのだろうか?

 とすれば、田波正から殊能将之が誕生するにあたっての「問題」との再対決の刻印が、この『未発表短篇集』には含まれているはずである。

「ディック自身は遊ばない」という指摘。「イーガンは一人称で書く。しかも、一人称の語り手にどっぷり感情移入して、センチメンタルに書いてしまう」という指摘。では、そのように指し示す者の姿はいったい、どこにあるのか。

その前に少し寄り道を。
一昨年の暮れ、『Before mercy snow』と稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』(国書刊行会、2013)を立て続けに読んだ。『BMS』と稲生の表題作はどちらも同人誌に発表されたもので、博識の書き手が趣味の親しい読み手に呼びかける文体に共通したトーンを感じた。
失われたサイト「mercy snow official homepage」に書かれた、小説以外の膨大な文章は、基本的に田波時代からのものと思われる。ここで「memo」2002年10月後半の記述を引用したい。

 なんとなくウォーレン・ジヴォンの2枚組ベスト《I'll Sleep When I'm Dead: An Anthology》をずっと聴いている。いや、追悼ってわけじゃないです。まだ死んでないし、ジヴォンは追悼なんて大っ嫌いだろうから。

 リーフレット収録の自作解説を読んでいたら、「内緒だけど、イギリスの安っぽいテクノのレコードが好き」("my secret fondness for sleazy English techno records")という一節を発見し、ますますジヴォンが好きになった。最近読んだ本のなかに「コンピューターがでっち上げた重低音のリズムが響き、何 を言っているのか聞き取れない呪文のようなラップがそれに被さって、ひっきりなしに音響が渦巻いている」というくだりがあって、この著者とは音楽の話できねえなあ、と思ったから、なおさらである。
 べつに最新のテクノ・ミュージックを理解するジヴォンの感性の新しさを称賛しているわけじゃないよ。テクノから影響を受けたと称する〈Real or Not〉という曲はたんなる駄作で、なんか勘違いしているとしか思えないし。自分が好きで聴いている音楽や読んでいる本や見ている映画が新しいか古いか、 最先端か否か、いまキテるかどうかなんて、どうでもいいじゃん。とにかく「テクノが好き」と語るジヴォンが好き。それだけ。 

 サトシ・トミイエ(富家哲)がどこかのインタヴューで興味深いことを語っていた。

 Masters at Work(という有名なDJチームがニューヨークにいるのだが)の曲を聴きにクラブに行く人はいない。そうじゃなくて、クラブに遊びに行くと、いつもかっこよくて気持ちいい曲がかかっている。それがMasters at Workの曲なのだ。
 この話を「作家性の否定」で、だから「新しい」というふうに受けとってはならない。そういうのは80年代ポストモダニズムの感覚。要するに、かっこよくて気持ちいいことが大切、ということ。いまクラブで流れているのがMasters at Workの楽曲であることを知っているか否かは、どうでもいいのだ。その曲を「気持ちいい」と感じることが大事。もちろん、Masters at Workの曲じゃなくてもいい。ウォーレン・ジヴォンでも、ジョン・ケージでも、コール・ポーターの曲でもいい。「いまどきコール・ポーターを聴くなんてダサイ」と思うやつがいちばんダサイっす。

 「mercy snow official homepage」を訪れていた読者にとって、そこはMasters at Workのいるクラブのようなものだったのではないだろうか。むろんクラブと個人サイトでは「作家性」云々において持つ意味合いは違う。しかし作者の意図としては、どこかにそういうつもりもあったのではないか。そこに行けば、「いつもかっこよくて気持ちいい」言葉があって(しかも日に何度も更新される膨大な量)、たとえ知らない話題であっても、なんとなく楽しめる。少なくとも私はそうだった。十年近く、朝晩の一日二回は見てたものね。〈知人に90年代以降でデイヴィッド・I・マッスンの小説を読んだただひとりの男と呼ばれてしまった〉と始まる「reading」に登場した作品の大部分は、発表数十年を経たオールドタイムなものだったが、それからゼロ年代のSF・ミステリの翻訳状況はクラシック・ブームとも呼ぶべき状況を呈した。何が流行るかは誰にもわからないのだから、ひたすら自分が好きなものを語り続けたら、いつの間にか最新流行になってしまった……というのが「reading」ではないか。つまり、『BMS』に通底していた「論理的であること」の実践といえる。

若島正は『殊能将之読書日記』(講談社、2015)の巻末解説で、次のように書いた。

引用した個所とそっくり同じ個所をしてしまった、という珍事は、不思議を通り越して怖いほどである。こういうときに、わたしは何か殊能氏の一部分と交感したような、幸せな錯覚を起こすのだ。殊能的なるものは、こうしてわたしたち読者を楽しませながら教育して、どんどん増殖していく。しばしば愛読者は、殊能氏のことを「シュノーセンセー」と呼んでいた。彼らは、自分たちの好みが殊能氏によって教育されたことを、心のどこかで自覚していたに違いない。

 奥野健男はかつて太宰治の小説について、直接語りかけるような文体で読者を引きずり込んで離さない「潜在二人称の文学」を唱えたが、「mercy snow」のおしゃべりめいた調子(ジヴォンについての上記引用箇所の「~聴いている」「ないです」「~である」「~じゃないよ」「~いいじゃん」とめまぐるしく移っていく語尾にご注目あれ)の奥にも何かそうしたクールな熱っぽさ、すなわち鍛えられた散文と、それが捕らえる我々の見慣れた(はずの)日常との距離=ズレからたちのぼる詩と批評があった。もちろん向こうは私のことなど何も知らないわけだが、しかしどこか「秘密」を共有したような感覚に読む者は陥ってしまう。

スタジアムライブのような一回性ではなく、クラブの日常性によって感化させてしまう――これは〈遊ぶ〉ことの奥義の一つ。とはいえ、小説外においてだ。ならば小説内では?(続く)

 

殊能将之 未発表短篇集

殊能将之 未発表短篇集