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立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

一、二、三、そして〈遊ぶ〉ことの奥義――『殊能将之未発表短篇集』(4)

承前
夢と現実のはざまに生きる者だけが、真摯に夢を、現実を生きようとするのだ。(「空耳通信1 押井守あるいは半分は予感でしかない通信」/『Before mercy snow』所収)
単なる三人称でも一人称でもない、その二つの「はざまに生きる」言葉について考えてみよう。
「ディック自身は遊ばないんだな」という躓きは、なまなかのものではない。なぜならディックの『暗闇のスキャナー』という小説は、その意味においては凄まじい作品だから。
刊行は1977年だが、作品の舞台は1994年。カリフォルニアでは物質Dというドラッグが流行しており、主人公の捜査官フレッドはアークターという売人の監視を命じられる。アークターは複数のジャンキー仲間と住んでおり、その家に監視装置(スキャナー)が設置される。しかしアークターとは実はフレッドの囮捜査官としての別名である。かくしてフレッドは自分自身を監視しながら、敵にも味方にも仕掛けられた罠を探るうち、中毒症状が悪化の一途を辿る。この小説はディック自身のドラッグ体験を反映しているとされ、友人をモデルにした登場人物たちの哀切さと悲惨さを伝えて衝撃的である。
田波青年が引用した〈なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい〉という言葉は、「作者のノート」のラスト一文であり、その前には次のような言葉が連なっている(以下、飯田隆昭訳、サンリオSF文庫版、1980年より)。
もし、なんらかの〈罪〉があるとすれば、それはこうした人びとがいつまでも楽しく時を過ごそうと願ったことであり、それがために罰せられたのです。だが、たとえそうであったにしても、その罰たるやあまりにもひどかったと思います。で、わたしはそれをギリシア的に、あるいは道徳的には中立の単なる科学として決定的な因果関係としてむしろ考えたいと感じるのです。わたしはかれらすべてを愛していました。わが愛を捧げる人びとのリストをここに掲げます。
ゲイリーン 死亡
レイ 死亡
フランシー 不治の精神病
キャシー 不治の脳障害
ジム 死亡
ヴァル 不治の重度脳障害
ナンシー 不治の精神病
ジョアン 不治の脳障害
マレン 死亡
ニック 死亡
テリー 死亡
デニス 死亡
フィル 不治の膵臓障害
スー 不治の血管障害
ジェリー 不治の精神病および血管障害
 ……等々。
 ここに哀悼の意を表します。かれらはわたしの同志でした。これほどすばらしい同志はいません。かれらはわたしの心に残っています。そしてわたしは敵をけっして許しはしません。〈敵〉とは遊び方を誤ったことです。なにかべつの遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい。
このサンリオ文庫版の解説で、山田弘美(のちの川上弘美)は、ディックのインタビューを引用している。
——僕は、この作品を書いているあいだじゅう悲しくてたまらなかった。ゲラ校正を二週間前にやった時も、悲しくてたまらなかった。ゲラ校正が終わってから、二日間泣き続けた。この物語を読み返すたびに、僕は流してしまうのだ。
作品を取り巻くこうした言葉の数々は重い。にも関わらず、「ディック自身は遊ばないんだな」と微妙な間隙を田波氏は指摘する。この小説は確かに、「memo」の作者が好みそうな一編だ。追う者と追われる者の同化/分裂。ストーリーを停滞させる馬鹿話にまみれた日常の対話。そうした対話をテレビモニターで監視しながらのツッコミ。その裏に張り付いた、精神がしだいに変容してゆくことへの恐れ。こうした手法のいくつかは、『ハサミ男』の執筆の際に参考にしたのではないかとすら思わせる。いやもう一つ、さらに重要なのは、友人を作中に登場させる、という点だろう。これは『美濃牛』を思い出させる。
ハサミ男の秘密の日記」を読むと『美濃牛』の執筆は、1999年4月には開始されていた。つまり、デビュー前からすでに着手していた『ハサミ男』『美濃牛』では、どちらも主要人物のモデルに「田波正」の友人が当てられているのだ。古い友人を作中に出演させたり、実体験をエピソードに流用したり、それによって「見聞きしたことしか書けない」と評されたり。実はそれらのすべては、「夢と現実のはざまに生きる」=「遊ぶ」の実践だったのではなかろうか。そして、「田波正」から「殊能将之」が誕生するにあたっては、「なにかべつの遊び方」で「かれらみんなとふたたび遊び」きるという唱和の力、他者からの力を借りることを必要としたのではないか?
完全に偶然でしかないのだが、『未発表短篇集』には三つの短篇とともに、「ハサミ男の秘密の日記」という元は私信だったものが収められている。しかし短篇とレイアウト上の区別がまったくない以上、「秘密の日記」は小説として読むこともできる。このことについてちょっと深読みをしてみよう。
先にジョルジュ・ペレックの未完の遺作『53 Jours』についての評を引用したが、同じ項のその前にはこういう言葉もあった。(「reading」2006年7月24日)
『「五十三日間」』は未完の作品なのだ。完成させる前、1982年にペレックは癌で亡くなった。
 読んでいくうちに、だんだん本作が未完であることが必然であるように思えてくる。「タイプ原稿はここで終わっている」というただし書きさえ、作者が意図的に挿入したかのように感じられる。事実でも真相でもないことはまちがいないのに、メタ作者の存在がほのかに見えてくる。
 このあり得ないメタ作者を神様とか、運命とか、ペレックの才能と呼ぶこともできるだろう。わたしにはなにかよくわからない。ただ、手元に『「五十三日間」』という書物があり、その書物が他の多くの書物につながっていることだけは事実だ、とぼんやり思うだけだ。
All morning, an inexplicable intuition has been nagging at my mind: that the truth I am after is not in the book, but between the books. That may sound senseless, but I know what I mean: that you have to read the differences, you have to read between the books, in the way you read "between the lines".
 午前中ずっと、説明しがたい直感が頭につきまとった。探し求める真実は書物の中ではなく、書物の間にあるのだ。たわごとに聞こえるかもしれないが、わたしにはわかる。違いを読まなければならない、書物の間を読まなければならない、「行間」を読むように。
「精霊もどし」の最終ページをめくると、〈死後の世界なんて、あるわけがないでしょう。あたしが言うんですから、信用してください。〉というラスト二行の戦慄的な台詞が目に入る。この言葉はどういう意味なのか。
ここから、私の推測はいささか妄想的な領域に入り込む。
「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という台詞は、死者・真知子のものである以上、作中において「死後の世界」は「この世界」と別にあるのではなく、「この世界」そのものであるのだとも読める。考えてみれば、――『黒い仏』においても、『キマイラの新しい城』においても、フィクションの世界は「現実」と別にあるのではなく、連続するものとしてあった。そこにあるのは、見える者/見えない者という「ズレ」の非対称性であって、両者とも同じ世界にいることには違いがない。『鏡の中は日曜日』においてもまた、石動がフィクションとして考えていた「名探偵・水城優臣」の世界は、石動の「現実」と連続するものだった。殊能ワールドとは、そうした混淆が起こってゆく場所なのだ。
『鏡の中』では一箇所、作者らしき人物が登場する場面がある。石動がかつての事件関係者の一人で文芸評論家の柴沼を訪ねて文学賞のパーティにホテルークラへ赴く場面。
「受賞者のやつ、へらへら笑いながら、ぼくのそばにすりよってきたな。先生のファンなんです、先生のご高著は全部拝読してます、と言ってね。ぼくに取り入りたいらしい。フェミニスト・サイコスリラーで人間の心の闇を鋭く描ききった俊英が、あんな俗物でいいのかね」
「その方、確か、謎の覆面作家と言われてる人ですね。いっさい顔写真を出さないことで有名な……」
 石動は少し興味を覚えて、そう訊ねた。
「確かに写真は断ってたな。でも、顔を出さないのは、話題づくりのための計算だよ。編集者の入れ知恵じゃないか。新人のくせして、世慣れたもんだ。あるいは、よほどルックスに自信がないのかもしれない」
もちろん実際には、2001年7月7日に殊能将之がなんらかの賞を受けた訳ではない。メフィスト賞の授賞式というのは行なわれない(しかも年代は2001年だからデビューの1999年とはズレる)し、『美濃牛』は第一回本格ミステリ大賞の候補になったが式は6月だし会場もホテルオークラではない。なぜ作者はこのようなことを書いたのだろう。もう一編、小説外に重要なテクストがある。文庫化の際『IN★POCKET』2005年6月号に掲載した「殊能将之に抗議する 鮎井郁介(殊能将之)」である。ここにおいて、作中人物・鮎井郁介は『梵貝荘事件』の扱いに関し、殊能将之に抗議した……とある。しかし『鏡の中』で鮎井郁介なる人物は2001年に死んだはずなのだから、文庫化に抗議できるわけがない。当然ながらこのコラムも鮎井のフリをした殊能筆によるものと、常識的には考えられている。しかしもしそれを真面目に受け取り、「死後の世界なんて、あるわけがないでしょう」という言葉と突き合わせるならば、作者と作中人物の会話は作品の持つ論理において不可能ではなくなる。
そして、〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉。この一編を読む大方の読者は、すでに『ハサミ男』を読み終えているだろうから、1999年当時の手紙の唯一の読み手=磯君の驚愕を、まるでオイディプス王の姿を見るように想像することができる。「ハサミ男の秘密の日記」というタイトルは、作者が自分自身を「ハサミ男」に重ね合わせるかのようだ。
しかし、「罠」はそれだけでは終わらなかった。
〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という言葉で、作者は古い友人たちを作中へ招き入れた。それによって、「殊能将之」は誕生した。以降、小説の外においては公式サイトをクラブのようにして、無数の読み手を日夜「秘密」の共有関係に巻き込む。内においては、複数のフィクション世界を混淆させ、リアルな現代日本の風俗という「現実」を相対化する。そうした二重戦略を実践した。
そして「ハサミ男の秘密の日記」が短篇と変わりないレイアウトで並列され一冊の本として公刊されるということは、その作中世界にはもちろん、わたしも、あなたも、彼女も含まれている。〈なにしろ、磯君は『ハサミ男』の主人公だからね〉という結末にたどり着いた瞬間、虚実は裏返る。ノコノコとこの本に吸い寄せられてやってきた無数の読み手たちは皆、アリスが穴を通り抜けるようにその他の小説群とも連続して、殊能ワールドの住人となってしまう。これこそが、最後の罠だった――作者の手を離れても作動するよう、「あり得ないメタ作者」あるいは「運命」、「才能」が仕掛けた。
 まったく無害に思えたのですね。これまでのページには、どんな確かな原理も含まれず、どんな教義も広めず、どんな信念も侵害しない、と……。
 しかし、槌は振り下ろされ、もはやすべては遅すぎるのです。
 皆様にお伝えしましょう。罪はいずこにあったのか?
 皆様の罪です。
 皆様はわたくしたちに耳を傾け、この場にとどまり、「印」をごらんになりました。
 いまや皆様はわたくしたちのもの、あるいは、呪文は逆向きにもつづられ、わたくしたちは皆様のもの……永遠に。(James Blish“More Light”より『黄衣の王』第二幕、殊能将之訳/『黒い仏』)
(つづく)という言葉が、アルファにしてオメガだ。一、二、三。三、二、一。
……どうやら私は、妄想を逞しくしすぎたようだ。しかしタワゴトと思われてもいい、こうした読みも可能ではないかということを単に、あなたに伝えたかっただけなのだ。
最後に、1999年当時の状況を整理して、この長すぎた駄文を締めくくることにしよう。(つづく)