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襤褸は着ててもロックンロール

ある方に勧められて清水義範ドン・キホーテの末裔』。著者自身を思わせる作家が、『ドン・キホーテ』をモチーフにした小説を書くというメタフィクションで、作中作の他にも講演、エッセイ、小説論などいろいろな文体で構成される。「現代においてパロディによる『ドン・キホーテ』的な突破はいかに可能か」という試みが中心にあり、とりわけ終盤、セルバンテス(?)との会話の中でセルバンテスに「あなたが後続に文句をつける権利はない」と突きつけるくだりは面白い。

読みながらまず連想したのは小島信夫の『美濃』で、小島も『ドン・キホーテ』に深い関心を寄せた作家だったからいろいろなところでセルバンテスについては触れている。1981年刊のこの小説は当初エッセイとして始まったが途中で小説になったもので、「古田信次」という作者をモデルにした人物についての私小説を書く小島、という体裁で進行していくのだが両者の区別はユルユルで、「別に古田という人物を出さなくても良かったんじゃないか」というようなツッコミを随所で誘うわかりにくいユーモアを全体的に発しつつ、「小島が危篤状態になったので弟子である私がこの小説を完成させる」と急に代作者まで出てき、「お前誰やねん」という感じで終わる。『美濃』を読んだ時は『ドン・キホーテ』については特に連想しなかったが、『ドン・キホーテの末裔』を読むとなぜか『美濃』を連想した。
『末裔』の語り手は作中のあちこちでパロディ論を述べる。私自身は後藤明生小島信夫などを読んできてパロディ論というのは嫌いではないどころか考え方の中心にあるのだが、世間的にはやはりパロディという方法論はなかなか蔑視されるところもあるのかもしれない。実際、パロディというものには大きな罠も潜んでおり、陥る人間も少なくない。(私は「パロディ」という言い方はあんまり好きくなくて、後藤的に「模倣」と言いたい)
偶然だが本作品連載中の2006年に小島信夫は亡くなった。『末裔』はそうした小島や後藤の後にやってきた作品として、彼らに比べるとだいぶ整理・洗練されていて非常に読みやすく、わかりにくいところは少ない。だからラストはちと物足りない気持ちもあった(とはいえその伏線回収は面白かった……叙述トリックと言えるかもしれない)。
最後に、もう一つ思いついたことを書いてこの記事を終わろう。晩年の小島や中井英夫は、どう見ても身辺雑記としか思えない作品を「小説」と銘打って(もちろん単なる書き散らしではなく語りの技巧は発揮されている)雑誌掲載したことがあった。あるいは逆に、随筆体であったり私小説ふうに始まってどう見てもフィクションとしか思えない出来事が混じってくるタイプの作品もより一般的に広く書かれている。私はどちらもたいへん好きなのだが、これはなぜなのだろう。思うに、「どう見ても非小説(あるいは小説)であるのに、小説(あるいは非小説)であると言い張っている」という、「言い張ることの力」があるのではないか。前にメモした「これはミステリではない」という呪文にも通じるところがあるかもしれない。どう見てもAであるものを、にも関わらず、Bとして眺める。この時、対象から立ち上がるイメージは二重化する。これはまさにドン・キホーテ自身がやっていたことだ。正気と狂気の、虚と実の境に立つことだ。そこにどうも秘密があるのではないか?