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襤褸は着ててもロックンロール

市川哲也『蜜柑花子の栄光 名探偵の証明』(東京創元社、2016)を読みました。鮎川賞受賞作から続くシリーズ三作目にして完結編。前二作以上に凄まじく、圧倒された……というのは、あんまりポジティブな意味ではないんですけども。

私は基本的に、この著者を応援したいと思っています。というのは単に歳が近いからというだけではなく、「読んだから書いた」という初発の志へのシンパシーがあるからですが、シリーズが終わった以上、このままではたぶん同社から次作を出すハードルは高いだろうし、他社からも厳しいと考えられるので、作風を変化させない限り作家活動を続けるのは難しいはずだという危機感をも持っています。だから多少なりとも作者のゆくえが気になる方がいらっしゃれば、ぜひそのあたり、自分の思うところをネット上でもなんでもいいからバンバン書いて、話題にしてほしい。

さて作品自体について。版元の公式サイトにある「あとがき」http://www.webmysteries.jp/afterword/ichikawa1608.htmlでは、作者はこう書いている。

 私が当初、この三部作トータルでなにがしたかったのかというと『もしも名探偵が現実にいたら?』ということをなるべくリアルに考えてみることでした。
 名探偵って頭良すぎない? 現実に大掛かりなトリック殺人なんてやれる? なんで名探偵はやたらめったら事件に巻きこまれるの? 等々、世間からツッコまれそうな疑問に自分なりになるべくリアルな解答をしてきたつもりです。

しかしたいていの読者は、三部作を読んでも、いったいどこが「なるべくリアル」に書かれているのか、まったくわからないのではないだろうか。私はそう思い、なぜ作者の意図と作品とがすれ違っているのか考え、自分なりに有益な答えを引き出そうとしました。

まったく関係ない話題ですが、アザラシさんという方が先日、次のように書いていました。

「魔法は一つだけ」というのは、作品のリアリティのレベルがどのあたりにあるか、ということに関わります。作品世界が現実に近い場合、ある虚構の設定を一つ放り込む、するとAがA'になれば隣接するBもB'になり……というふうに、さざ波がどこまでも広がるように世界そのものもそれにふさわしいものに変わってゆく。それを支えるのがいわゆる「論理」であり、この改変がうまくいっている時、読者は「リアリティ」を感じる。逆にいえば、虚構だからといって作者はなんでも好き勝手に操っていいわけではなく、あくまでもこの「リアリティ」に沿わなければ、読者は混乱してしまうんじゃないでしょうか。
『蜜柑花子の栄光』の場合、たとえば第一の事件の「動機」について、納得する人はいるのだろうか。誰もが、「作者の都合で登場人物の心理が捻じ曲げられている」と感じるのではないか。つまりこの作中世界では、ワイダニットが成り立たなくなってしまう。

ふりかえってみれば……三部作を通じて、人物心理に関するリアリティは、かなりいいかげんというか、しっちゃかめっちゃかに書かれてきた(評価されることもある第一作の犯人の「動機」にしても、私は釈然としないものを感じています)。しかし「なるべくリアル」を目指すなら、心理のリアルさの追求は、かなり重要なものなのではないでしょうか。

 『蜜柑花子の栄光』を読んだ後、私はこの本がどういうストーリーであるかを、未読の人に伝えようと試みました。ところが「彼らはなぜそんなしち面倒くさいことを?」という人物心理の不自然さにいちいち引っかかり、うまく説明することができませんでした。つまり本作のあらすじというのは、かなり吞み込みがたいものを抱え込んでいる。そして……最後まで読んで明かされる真相は、そうした、万歩ゆずって不自然さを吞み込んだ読者の梯子を、「これは推理小説ではない」というあの伝家の宝刀で外してしまうていのものでしょう。いったい、なぜそんなことになってしまうのか?

考えるに、「これは推理小説ではない」と言わせてしまう書き手たちは、「現実」という刀を、自分が好きに抜くことのできるものだと捉えているのではないか(自分が「現実」に属する存在だから)。しかしフィクションにとって「現実」というものは、そうではないと思います。作品が始まった時点で、「魔法」は大なり小なりかけられている。後になって「現実」を持ち出すなら、それはフィクションの中でもう一つの「魔法」となるから、それなりの必然性(リアリティ)に支えられなければならない、必然性(リアリティ)にうまく支えられていない現実(リアル)というのは、最悪の場合、最も不自然(アンリアル)なものになりうる。現実(リアル)はフィクションの中で、無条件に必然性(リアリティ)を持つわけではない。そしてフィクションにとって重要なのは、現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)のほうではないか。

小説とはふつう、始まりと終わりとを明確に持つ一本の線、つまり一次元のものです。「魔法」のリアリティとはこの中で、さざ波のように静かに、しかし確実に広がってゆく。後になって急に持ち出される別の「魔法」とは、一本の線からとつぜんもう一本の別の線に移るようなものでしょう。この、後の「魔法」がリアリティに支えられないなら、それは前の「魔法」を打ち消すような効果を持ってしまう……これが「梯子を外す」ということであり、つまり読者に「これまで読んでいたのはいったい何だったのか……」という徒労感をもたらす。それはフィクションの快楽とは違うのではないでしょうか。

以前admiralgotoさんという方が『密室館殺人事件』について、「持たざる者の戦い方」ということを書いていましたhttp://www.twitlonger.com/show/n_1sm5ros。物理トリック(HOW)での戦い方は厳しく、険しくなってゆく。けれどそれがどれだけ陳腐なものであっても、心理(WHY)による料理しだいで、作品に対する印象は変わってきます。たとえば殊能将之『鏡の中の日曜日』。あの小説において、作中の館における物理トリックは陳腐だし、全体の展開も「名探偵に推理ミスがあったと思ったらやっぱりなかった」という打ち消し系のものです。でも徒労感はない。その差異はおそらく、心理のリアリティの充実によるものなのでしょう。

『蜜柑花子の栄光』を読むと、どうしても、行動における人物心理に不自然さを感じてしまう。HOWの解明が重視される一方、WHYがおざなりに駆け足で消化されイビツさが累積してゆくさまを感じてしまう(このへん、たとえば邦画におけるストーリーのツッコミ所を主に突いていく時評『皆殺し映画通信』を読むと勉強になるところ)。

フィクションにとって重要なのは現実(リアル)よりも必然性(リアリティ)であり、そして必然性(リアリティ)にとって重要なのは、HOWよりもWHYなのではないか。三部作が終わった今、作者においては、フィクションと「魔法」との関係、人物心理の「リアリティ」を、真剣に考察して、再デビューするような心持ちで次作を執筆していただきたいと(勝手ながら)思っています。もし今後、「市川哲也の栄光」ということがあるべきものなら、必ずやそこから始まるはずだから。

 

 

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光

名探偵の証明 蜜柑花子の栄光