立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

サンプリング・アルバムは走馬灯の夢を見るか?――法月綸太郎『挑戦者たち』

法月綸太郎の『挑戦者たち』を読んで、僕はずいぶん懐かしい気持ちになった。十代の頃、むさぼるように読みふけった本格ミステリで接した「読者への挑戦」という文章から受けた、あの不思議な感じを思い出したからだ。
この本の形式をどう呼ぶかは難しい問題だが、レーモン・クノーの『文体練習』をモチーフにした99の言語遊戯あるいは掌編集と、ひとまずはいうべきだろうか。本格ミステリというジャンルに固有の「読者への挑戦」という文章を、『文体練習』よろしく99通りの文体で書き分けた……とまでいえないのは、実際には、「読者への挑戦」をテーマとするエッセイやショートショートの類いも含まれているからだ。
法月綸太郎という作家のキャリアの中では余技(とはいえ恐ろしく手間のかかった)に入るのだろうし、「賢明すぎる読者諸君に告ぐ――これは伝説のミステリ奇書である」「さて、この本の面白さが諸君にわかるかな――」というアオリ文はなんだかいかにも「博覧強記」ぶりをイヤミにアピールする売り方に感じられて、(そう急いで読む必要はあるのかなあ……)などと思っていたら、おそらく三時間もあれば一読できるだろうこの本の途中で、僕はうっかり泣き出しそうになってしまった。

本編の内容に触れる前に、一つの音楽アルバムを紹介しよう。それは、The Avalanchesのこの七月に出たセカンド・アルバム『Wildflower』だ。以前にもこのブログで言及したことがあるが、2000年にリリースされた『Since I left you』はボーカルも含め全てのサウンドがサンプリングだけで出来ている驚異のアルバムとして話題になった。それから実に十六年ぶりの新作である。デビュー作の印象が強すぎ、リリース以来なかなか聞き出せなかったのだが、つい先日再生してみた。なかなか良かった。前作とほとんど変わらないサウンドの感触に安堵し、そして僕はやっぱり懐かしい気持ちとともに、ふいに泣き出しそうになった。
これは僕だけではなく、たとえばロッキング・オンのサイトでは小池宏和という人が、こう書いている。

『ワイルドフラワー』にあるのは、まさにいつの世も路傍の花のように咲く、音楽バカの思いである。リスナーの世代が交代しようが、新しいスタイルが生まれようが、これを求めている人はいるはずだ、という確信だけが鳴っている。で、「ああ、俺は本当にこれを聴きたかったんだ」と阿呆のように気づかされて、泣きそうになる。(……)テクノロジーやアイデアの新しさだけでは零れ落ちてしまいそうな、言葉通りの意味でのタイムレスな価値が、ここには詰まっている。http://ro69.jp/blog/ro69plus/145798

なぜ、「タイムレス」な不変性が「泣きそう」な気持ちを誘うのだろうか。『Wildflower』を聞いて僕が感じたのは、「これはまるで夢というよりか、走馬灯のようだな」ということだった。たとえばある曲では映画『サウンド・オブ・ミュージック』から「私のお気に入り」があからさまに引用される。またある曲ではThe Beatlesの「come together」のボーカルがピッチを上げられ、子供のコーラスのように改変されて現在のラッパーがフロウするバックトラックに配置される。そのように時代も場所もジャンルも異なる様々なサウンドが、一堂に会して曲を作り上げる。「私のお気に入り」や「come together」は超有名曲だが、60年代ソウルや80年代ヒップホップの聞いたことのないマイナー曲などであっても、(この時代のこういうジャンルってこういうサウンドだよな)くらいのイメージは誰でも持っているだろう。つまり、あらゆる時代・場所・ジャンルの音源が絶え間なく入れ替わり組み合わされることによって、聞き手がこれまで生きてきた全時間を貫く聴覚の記憶が、意識的/無意識的な濃淡に拘わらず、再生しているあいだ常に刺激され続けるのだ。それは夢の作用に似ている。いや、聞き手の全時間が素早く現れては過ぎ去っていく様は、死に際に活発化した脳が見せるという回想のようだ。
「泣きそう」な感覚とはおそらく、そこからくるものなのだ。録音された情景は、現実の時間から切り離され、死者のように何も変わらないまま聞き手の鼓膜に届く。彼らが住み、作り上げる世界は、まるであの世のようにハッピーだ。

『挑戦者たち』の狙いも、おそらくはそこにある。法月綸太郎によるサンプリング・アルバムともいうべき本書は、単なる『文体練習』のパクリないし変奏ではない。「読者への挑戦」というものの存在意義を「探究」し続けてきたからこそ、書くことができたものである。「読者への挑戦」とは何か。それはそれなりに広い幅をもつ「本格ミステリ」というジャンルを貫く、巨大な共通項である。ある時から広がり始めたこの流儀に対し、ある作家は真面目に自作へ採り入れた。ある作家は単なる飾りとして挿入した。ある作家は古典復興を目論んで挑戦した。ある作家は古臭い遺風として笑いのめした。
そうした作例の集積として、「読者への挑戦」という歴史的装置はある。それが様々な文体と掛け合わされた時、読者(とりわけ、本格ミステリをよく読んできた)はこれまでの全時間における様々な記憶を刺激されるだろう。初めて本格ミステリを手にした時。つまらない授業中に机の下にコッソリ隠しながら読んだ時。自分でも何かトリックを考案しようと頭を悩ませた時。寡作家の復活作に歓喜した時。高騰した古書をやっと入手したら復刊されることを知った時。もうこんなものを読む子供でもないだろうと思った時。……それだけではない。『古畑任三郎』のドラマを毎週追いかけた時。震災後の不安な時間につい覗いたTwitterでおバカな改変ネタに吹き出してしまった時。つまらないジョークを聞かされて内心ムッとした時。ある問題の解決法を検索して「Yahoo知恵袋には自分が辿り着く前に既にあらゆる悩みが相談されているんだな」と感じた時。あまりにも疲れ果てて、もう何も文字が目に入らなくなった時。……
一編一編だけなら、インターネット上で誰でも発表できそうな「あるあるネタ」から本書が脱しているのは、集積によってこうした時空間のスケールを獲得しているからである。この点に関し、スタニスワフ・レム『完全なる真空』の書評形式を下敷きにした「不完全な真空」で、作者はこう自註している。

クノーの対戦スタイルから多くを学びながら、その拳をピンポイントに連打して伝統的な本格ミステリ形式をノックアウトしようと目論んでいる。「読者への挑戦」という針穴を通して、謎解き小説の全体像をあべこべに映し出す「カメラ・オブスクラ」的なメタフィクションと呼んでもいい。

つまり、クノーの『文体練習』は素材をありふれた日常のスケッチに採ったが、本書ではそこにレムの「架空の書物」というスタイルをもまた接ぎ木することで、「架空の本格ミステリの読者への挑戦」という針穴=断片から逆照射しジャンルの記憶まるごとを読者の脳裏に召喚しようとしているのだ。
ユーモアに紛らわせて、随所に鋭い考察がある。瀬戸川猛資ふうの「挑戦状アレルギーの弁」などはエッセイとしてもすぐれた批評で、

あえて極論をいえば「読者への挑戦」というのは、物語の作者が読者に対して、
「俺の考えた謎を、俺が引いた図面通りに推理して、俺と同じ答えを導いてみろ」
と頭ごなしに命じるようなものだ。しかし、読者にしてみれば、そこまで律儀に作者のわがままに付き合う義理などありませぬ。挑戦状がなかったら「なるほど」で済んだかもしれないのに、なまじ作者が俺様仕様のルールをごり押ししたせいで、「そりゃそうだろうけど」という醒めた感想を引きだしてしまうわけである。

という指摘には示唆を受けたし、そこからクリスピン『お楽しみの埋葬』へと広がって「選挙というのは、複数の候補者から代表一名を選びだすイベントだから、本格ミステリの犯人当てとイメージが重なるのはいうまでもない」と読むのは面目躍如というところ。文学理論ふうの「分類マニア」に書かれた、

「作者説」=「挑戦状」はもともと二つに分裂しており、その片割れどうしが「問題編」と「解決編」双方に属しているという立場。(……)要するに「読者への挑戦」と称されるものは、「問題編」の「あとがき」(以上ですべての手がかりが示された)と、「解決編」の「まえがき」(これから論理的な手続きによって新しい物語の幕が開く)が、あたかもひと続きの文章のように混ぜ合わされているにすぎない、というのがこのユニークな新説の骨子である。

という見方など、思いつきもしなかった。

「読者への挑戦」とは何か。それは作者から読者への呼びかけである。それは生身の書き手が死んだ後も、不死身の「作者」による声の痕跡を残し、誰とも知らない未知なる「あなた」へと語りかける。既に事件は起こった後だ。探偵は相も変わらず頭を悩ませ、ようやく一つの真相に辿り着いた。……そう告げる声の背後では、幾度も繰り返された無数のドラマが影絵として踊っている。そうした記憶の集積のみでできた『挑戦者たち』という本には、だから、まるであの世のように物哀しいハッピーな気分が漂っている。これを時代遅れのレトロな感傷だと切って捨てる人もいるだろう。確かにここには目新しいものはない。しかし一見マニア向けで排他的に見えかねないこの本いやジャンル自体が、常に読者を必要とし、外部へ向けて門を開いていることが、最後まで読むとわかる。たとえ「あなた」が「本格ミステリ」を見捨てようとも、いつだって作者は、作品は、readerに、playerに、challengerに、読み解かれるのを待っている――そんな具合にね。

すぐれた料理人がたったひとつの食材からさまざまな味の料理をつぎつぎと作りだしてみせるように、限られた材料を使って九九通りの異なった「書き方」を実践してみせたのがこの書物というわけである。(……)しかしそのとき読者が感じるものは、おそらく快い楽しさだけではなく、何やら不気味な居心地の悪さでもあるだろう。なぜなら、ことばの可能性を極限まで追求しようとするクノーの試みは、同時にわれわれが日頃使っていることばがどれほど空虚なものであり得るかということを暴き出す試みでもあるからだ。表現やコミュニケーションの機能から解放されたことばは、文学が夢見るユートピアの彼方から、われわれが口にすることばに向かって皮肉であたたかい眼差しを投げかけている。 ――朝比奈弘治「訳者あとがき」/レーモン・クノー『文体練習』 

「珍味」…考えてみると不思議な言葉である。「珍しい味」…けして美味しいとは言っていない。
珍味と呼ばれる食べ物の多くは、万人にとってのご馳走とは言いがたく、実際、くさや、鮒寿司など、嫌う人も多い。
また、雲丹、このわた、からすみの日本三大珍味にしても、あるいはキャビア、フォアグラ、トリュフの世界三大珍味にしても、いずれもレアで高価なものではあるが、モリモリ食べて喜びを感じるようなものではない。 ――ラズウェル細木酒のほそ道』39巻

「くそっ、くそっ、くそっ!」
すると、応答が帰ってきた。「こんどはキノコ料理ですか、悪くない考えです。ちょっぴり炒めてから、生クリームをからませればね。これもいつだかカンブロンヌが言っていたことではありますが……」こう言うと、サックドレスではらりと身を包んで、相方は不機嫌を足であらわした。
小生としては返す言葉がなかった!べろをどっかに置き忘れてきたみたいだった!あの野郎のせいで、小生は口も利けなくなるはめに。自分の言葉が自分のものではない。自分の言葉を横取りされた!――ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス・アトランティック』西成彦

同じ言語をもつことは、同じ生活形態をもつことをも意味する。だが、もしそうだとすれば、つまるところ、われわれはいっさい本音の感情をもつことはできないのか ―― そんなふうに思い込むのは、言ってみれば、もう何百万もの人々が「アイ・ラヴ・ユー」を口にしているからには、私はもう決して心底からこの言葉を発することなどできないと考えるのと、同じことだ。―― テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』川本皓嗣

最初の場面はきわめて迅速に展開される。それはすでに何度も繰り返されたものであることが感じられる。誰もが自分の役割をそらんじているからである。言葉や動作がいまではしなやかに、連続的に継起し、油の十分利いた機械仕掛の必要不可欠な部品みたいに、なんのひっかかりもなく相互に連繋する。――アラン・ロブ=グリエ『ニューヨーク革命計画』平岡篤頼

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロスも、獣人も」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくちゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」――ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」伊藤典夫

絶対の二つの面の間、二つの死の間、内部の死あるいは過去と、外部の死あるいは未来との間で、記憶のもろもろの内的な広がりと現実のもろもろの層は、攪拌され、延長され、短絡され、一つの流動的な生の全体を形成するが、それは同時に、宇宙の生であり、頭脳の生であって、一つの極からもう一つの極に稲妻を走らせる。こうしてゾンビたちが歌を歌うのだが、それは生の歌なのである。 ――ジル・ドゥルーズ『シネマ2』宇野邦一ほか訳

 

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