TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

走馬灯的効果についてのメモ

アニメ『昭和元禄落語心中』とドラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』の最終回を立て続けに見た。それぞれに面白かったが、最終回特有のあの「走馬灯的効果」に関しての扱いがまったく対照的だったのも興味ふかかった(走馬灯的効果というのは私が勝手に呼んでいるだけなので、もっと適切な名称が既にある場合はぜひご教示ください)。


『落語心中』の最終回は、たった一日の出来事を追うものだが、前回からいきなり17年もの時間が経っている。人物は皆、子供は大人に、青年は中年にとそれぞれに年輪が刻まれており、視聴者はいちいち驚きとともに感慨ふかい情動に突き動かされる。この場合、そうした効果が可能なのはもちろん、それまでの回をずーっと追って見てきたからだ。それを抜かして、この回だけを見ても、何がなんだかよくわからないだろう。

この時、視聴者の頭のなかで何が起こっているのだろうか。同じ画面を眺めていても、これまでの流れを知っている者と知っていない者とは、立ち上がるイメージが異なる。知っている者は、この一日の時間のイメージに別の時間(作中で17年前の前回、あるいは2シーズン24回計12時間の視聴体験、作中で流れる80年近い時間、落語というジャンルそのものの時間)のイメージを重ね合わせて眺める。勝手知ったる慣れ親しんだ過去と現在とのギャップを想像力によって埋める時、しかもそのギャップが古いアルバムを眺めるように次々とやってくる時、人は何か強烈な情動に突き動かされてしまうらしい。
対照的なのは『カンヌ映画祭』で、ここでは山田孝之が故郷を訪れ、母校とかつての実家を歩き回る。母校でかつての思い出を語る山田は既にノスタルジーに浸っているのだが、やがてかつての実家が更地として売却されていることを知ると、涙腺崩壊してしまう。しかし視聴者にとっては、そこは単なる更地でしかない。上述の「いきなり最終回を見た視聴者」と同じ立場にあるので、山田が更地に見出しているであろうおびただしい懐古的イメージを共有することができない。

去年見た映像で、「これは単位時間あたりの走馬灯効果が最も高いな」と思ったのは、SUUMOのCM「最後の上映会」である。

youtu.be

引っ越し前日の夜、ひとり暮らしの部屋が急にこれまでの数年間の映像を映しはじめる。ここではこの効果を、音楽がより高からしめている。音楽の効果を具体的に述べると、
1「なごり雪」という曲。ある程度以上の年齢の日本に長年暮した視聴者ならば、「なごり雪」を聴いたことのない人は少ない。その、かつて聴いた過去の時間と現在のCMを眺めている時間とのギャップ。
2 曲の歌詞における「春」という季節、語感。春は出会いと別れが周期的にめぐってくる季節であるから、それだけで過去と現在とのギャップを想起させやすい。
3 湯川潮音によるカバー。「なごり雪」を知っているほとんどの人が想い出すであろう、かぐや姫のバージョンないしイルカのバージョンとも違う、過去と現在とのギャップ。
4 曲の転調。CMの終盤、サビの調子が一挙に物悲しいものに変わる。おなじみのフレーズが別の印象を与えることのギャップ。
 曲自体にこれだけのギャップが仕込まれ、しかもそれに併せられる映像はまさに走馬灯的イメージそのものなのだから、「泣ける」というよりも「死」を連想させるほど、強烈な情動のテクニックが駆使されている印象を受ける。

同じイメージに別のイメージを重ねるということ。もちろんこれ自体は最終回にかぎらず、さまざまに利用可能である。

いきなり最終回」について別のたとえをすれば、麻耶雄嵩に『さよなら神様』という連作短篇集がある。これは各話の冒頭で「犯人は○○だよ」といきなり犯人の名前が告げられるのだが、これがネタバレにならない、つまり読者のサプライズを引き起こさないのは、読者が犯人について何も知らない、「いきなり最終回」状態にあるからだ。犯人の名前を知った後、事件が回想的に語られ、そこで○○が犯人でありえないだろうことがわかる。にもかかわらず、やはり○○が犯人であったと理解するとき、結末部において○○という固有名は読者にとり、既に別の意味を持っている。だからこそ、驚くことができる。

懐古的イメージを怒濤のごとく急激にほとばしらせる技法は、物語においてそう何度も使えるものではない。最終回とか、ひねったかたちでは「エピソード・ゼロ」のような番外編などで利用される。

しかしこれは、パロディ、パスティーシュ、二次創作などにおいても利用可能である。最近読んだ中では、mikioという人の書いた「最初の事件」という短篇がまさにそうした技法を利用したものだったけれど、ここで感じ取ることのできるものは、おそらく、読み手がシャーロック・ホームズシリーズについて多少なりとも知らなければ、ピンとこないに違いない。「本編」を借景としているからこそ、つまり作品外で時間を滞留させているからこそ、パスティーシュとしての短い作品内でその時間的エッセンスを爆発させることができる。