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襤褸は着ててもロックンロール

『時の娘』と歴史ミステリについて――ある余白への走り書き的覚え書

 少し以前から、ジョセフィン・テイ『時の娘』について、余白(マルジナリア)にメモしておこうと思いながらずるずると流してきたことがあり、そのことについて先日チラッとつぶやいたらnemanocさんに言及されたので、私の方も走り書き的覚え書きとして記しておこうと思います。
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 ついこの前、ずいぶん久しぶりに後期クイーン的問題という語を見かけた。
 後期クイーン的問題というと、直接の関係はないのだが、私はどうも、歴史ミステリ(中でも、実際の過去の謎を資料によって解くタイプの)のことが思い浮かぶ。例えばジョセフィン・テイ『時の娘』という代表的な作品(しかし実は案外、こういう作例は少ないのだが)がある。イギリスでは悪人王として有名なリチャード三世という人物のその「悪評」をデマとして検証しようという、今風に言えば歴史修正主義に対する問題だが、主人公・グラント警部がリチャード三世王にまつわる世間の歴史認識に疑問を抱くきっかけになるのは、リチャードの肖像画を見て(こういう人相から察すると、この人物は、巷間いわれるような悪人じゃないんじゃないか)という刑事の勘である。これも今風に言えば反知性主義ということになるだろう。
 もちろん、勘という身体感覚から始めたグラント警部は資料を集め、そしてある結論にたどり着く。しかしあまりに古い出来事には、「これさえあればすべてが断定できる」というような、唯一絶対の証拠というものはない。ある証拠と他の証拠との関係がかたちづくる星座を見、そこから類推を働かせなければならない。だから、ある証拠(記号と呼んでもいい)が持つ意味は、別の証拠によってオセロのように変わりうる。名作と現在される『時の娘』(ミステリ小説のオールタイムベストでアンケートを取れば必ず挙がる常連だ)で示される解も100%確実なものではなく、今後、小説としての評価はともかく、「解決編」の評価に関しては、まったく変わることもありうる。たとえば、リチャード三世の遺骨が発見されたのも、つい数年前のことだ。

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 こういう基本的かつ重大な新事実が将来的にまた発見されることはない、とは、誰も言い切れないのではないか。
 作品の終盤、「トニイパンディ」という語が出てくる箇所がある。ここは現代人の歴史認識に対するリテラシーについて述べた、本作の勘所の一つである。かつ、読み方によっては、まったく真逆の結論を引き出しかねない、危うくスリリングな部分でもある。
 探偵役とその助手が、主眼となる「リチャード三世悪人説」に関して、資料を読み解き、あるていど片を付ける。つまり、世間一般に流布するのとは異なる論を構築し、「誰が何の目的でデマを流したのか」にまで見当をつける。考えてみれば、歴史の中にこうした、実際と異なる説が流通した例は多い……と、探偵と助手は感慨を漏らす。
 ――と、本文を引用したいところだが、そこだけを引っ張ってもあまり説得力がないというか、誤解を招く恐れもあるので(実際にそういう例をいくつか見ています)、ぜひ本文にあたっていただきたいが、少しだけ。ここではTonypandyという地名は歴史上のデマについての換喩(「永田町」とか「霞ヶ関」とか「桜田門」みたいなもんですね)なのだが、

「(……)問題の要点は、現場に居合わせた一人一人がみんな、この話は作り話だと知っていながら、しかも、それを否定していない、ということだ。今となってはもうとり返しがつかん。この話は嘘だと知っている連中が黙って見ているあいだに、そのまったくの嘘っぱちが伝説になるまでふくれ上がってしまったんだ」「そうですね。じつに面白い、じつに。歴史はこうして作られるんですね」「そうだ。歴史はね」(小泉喜美子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977)

 当時を知っている人はいる。でも、黙っている。「歴史はこうして作られる」。当事者の沈黙、失語というのは、それはそれで大きなテーマである。ある説を語る論者がそれを語ることの権利はどこにあるのか、という問題にも絡む。しかしその問題については、ここではとりあえず置いておく。
 江戸川乱歩はかつて『時の娘』について、こう書いた。

最後になって、この史実顛覆の着想が、作者の全くの創意ではなく、古くホレース・ウォルポール(ゴシック怪奇文学の先駆者「オトラント城」の作者)ほか二人の同じ論文があることが分つて、やや失望するが、これは世に隠れた異説であつて、イギリス人でも知つている人は少ないだろうから、この小説はやはり充分面白いのである。(HPB版解説、1954)

 初読時、私は乱歩のいう「失望」的気分だった。しかしその後、H・R・F・キーティングが次のように述べているのを知り、見解を変えた。説に先行者がいたという展開は、つまり「正しいと思われる学説でも、注目されなければ忘れられてしまう、ということを示しているのだ」(『海外ミステリ名作100選』長野きよみ訳、早川書房、1992)。もしも「説の再発見」に価値を置くならば、「新説」に対するこだわりは、甘っちょろい。なぜなら、それは、「正しい説を語れば誰もが耳を傾けてくれる」ということが期待されているから。しかし、読者の置かれたこの現実というものは、そうではない。論者が正しいと思うことを述べる。しかしそれを流通させるには、かなりのコストがかかる。「それは本当か?」という検討に始まり、無視、誤解、悪意ある曲解、……などなど、ビビッドなテーマであればあるほど、さまざまな困難が待ち受けている。
 たとえばこんな状況を想像してみよう。ある閉鎖状況で起きた事件について探偵役が、自分の推理を述べる。彼は何の権限も持たない素人探偵だが、説得力はじゅうぶんにあった。しかし、聞き手がそれを理解しない。「お前(探偵役)は何様なんだ」と憤慨する。「オレは昔、お前に誤った説明を受けたことがある。だから今だって信用できない」と関係ない過去を持ち出す。「あの人(犯人)は良い人。残虐なことなんてするわけない! そんなことを言って善良な他人を傷つけるお前の方こそ悪人だ!」と感情を訴えられる。「ポジショントークw で、それでいくらもらってるんすかwww」と無根拠なデマをはかれる。「え? 自分はそんなこと言ってませんよ。そんな誰も興味ない些細なことを証拠にされても……大丈夫ですか? ちょっと休んだほうがあなたのためなんじゃないですか?」と前言を翻される。「その証拠のどこが重要なんですか? 私には何度言われてもわからないなあ」と論拠を否認される……云々。
  現実に起こりうるこうした状況がスポイルされ、たいていのミステリの中で探偵役に権威が与えられているのは、もちろん小説作品としてミステリ的興味を追究するため、煩雑なコストを節約する必要があるからだ。 探偵が語る「解決」は途中にすぎず、殺人事件なら警察、検察、そして法廷へといった流通過程があるが、こと本格ミステリにおいては語り手―聞き手におけるノイズはたいした問題とはされない。
 そう考えてくると、「正しいと思われる学説でも、注目されなければ忘れられてしまう」という観点は、なかなか深い。過去を見れば、現代では信じられない捜査や裁判というのは、いくらでもある。魔女狩り(拷問による自白ほか)にせよ大岡裁き(赤子の手を引っ張るというアレね)にせよ、今の社会では通用しない。もちろん、ヒドイ冤罪事件は今もある。法的な場でなくとも、議論の場でとんでもないことがまかり通る(たとえば企業における会議など)ことは、多々ある。しかし、「議論の場では、説得力のある意見には従う」というのは、ほとんどの議論において、参加者が共有する暗黙のルールとして、意識にすらのぼらないほど内面化されたものだろう。このルールが破られる。「説得力があろうがなんだろうが、目的実現のためならどうでもいい。その責任? 知ったことか」という態度を取られる。これでは話が通じない。「説得力などどうでもいいではないか」という聞き手に対し、説得力の価値(ルールの共有)を解く困難さは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対する答えの困難さにも似たものがある。ルールの共有は、そのルールを前提とした問い―答えという言語ゲームの中からは絶対的には根拠づけられない。ある言語Aしか知らない者と別の言語しか知らないBとで緻密な会話が成り立たないようなものだ。「対話」のためには、「対等な関係において同じルールの言葉で話す」として、ルールが対話の前に外部から共有されていなければならない。
ポスト・トゥルース」云々という昨今の情勢を考えれば、説の再発見と流通というテーマ(それはテイとキーティングから私が勝手に敷衍させた要素が大きいかもしれないが)は、現代的ではないだろうか。
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 実際の歴史的謎を扱う型歴史ミステリの難しさの一つは、作中において絶対解が出せないということにある。安定した解を示せる題材ならば、既に読者には周知の可能性が高いし、またあまりにニッチな謎については、興味を惹きにくい。資料確度の高さ、およびキャッチーさ。それを小説家が、論文ではなく、あえて小説(フィクション)にする。なかなかハードルが高い。フィクションであれば、織田信長が女であろうと宇宙人であろうと自由に書けるわけだが、そうした自由さを作り手が自ら封印するのだから。
 推理小説として成功した『時の娘』は、数々のフォロワーを生んだ。例えばフォロワーを標榜する高木彬光『成吉思汗の秘密』(1958)は、源義経ジンギスカン説を扱うものだが、終盤、急に探偵役・神津恭介の恋愛問題の話になってしまう。そして語り手は、神津と女性の間がうまくいけば「義経、成吉思汗の一人二役なんか、どうなってもかまわない」と興味を横滑りさせ、読者を(オイオイ)とガッカリした気分にさせる。ラストもどっちつかずというか、神秘性に頼って誤魔化すたぐいのものであり、およそ論理的とは言えず、『時の娘』との差が目立つ(しかしにもかかわらず高木は、義経ジンギスカン説に本気であり、批判に対する長い反論、さらには同じ手法で別の歴史的謎を扱う続編まで書いた)。思うに、「リチャード三世悪人説」というのは、原因はある人物の死、場所はロンドン塔に限定される範囲の話であり、義経ジンギスカン説は正面から扱うにはスケールが大きすぎた(それこそ、歴史小説的フィクションでしか書けないレベルにまで)のだろう。
『時の娘』フォロワーとしてもうひとつ評価が高いのが、コリン・デクスター『オックスフォード運河の殺人』(原著1989/大庭忠男訳、HPB、1996)。これもシリーズ探偵・モース警部が文献によって過去の事件を解く物語だが、上記の二作と異なるのは、扱われる事件が史実ではなく、創作であるということだ(実際の歴史書をかなり参考にしているらしいとはいえ)。しかし、この小説の結論部も、『時の娘』に比べると、ズルさに気づかされる。最終的な決め手は資料ではなく、現場証拠なのだ。終盤、モースは安楽椅子探偵の立場(病室)を振り捨て現場へ出かける(そして都合よく、130年前の証拠を発見する)。
『成吉思汗の秘密』と『オックスフォード運河の殺人』の結論部に共通するのは、文献だけによっては謎を解決できないために、メタレベルに頼る、ということではないだろうか。『成吉思汗』の結末は、ある神秘的な出来事が起こり、「こんな神秘的な出来事が起こったんだから義経ジンギスカン説は正しいだろう」という、情緒的な訴えかけである。やはり論理性としては、弱い。『オックスフォード』では証拠を発見するが、百年以上前の物証をそんなに簡単に発見できるのか、という都合の良さはある。そしてなにより、これは架空の事件なのだ。フィクションによってフィクションを解く、というのは、あっても良いが、やはり論理性ということを重視するならば、どうも地に足が着かない感じを拭いきれない。モースに証拠を発見させるのも発見させないのも、作者の都合次第ではないかと疑えてしまう。
「神秘」にしろ「架空」にしろ、それは作中現実(オブジェクトレベル)の推理の妥当性を、メタレベルから保証する、というものである。この点が、いわゆる「後期クイーン的問題」とされる問題構成と重なる点があるのではないかと私は思うのだが、あまり整理はできていない。
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 先に説の「流通」ということを書いた。歴史ミステリにおいては、殺人事件を扱う本格ミステリとは別の意味で、その「流通」は問題になりにくい。近代社会においては法に触れる事件の犯人の流通先は整備されているが、歴史ミステリ的な解釈の多くは趣味判断のレベルにとどまり、あまり膾炙しようがないからだ。『時の娘』において「解決」は、グラントの身近なところでひっそりと披露される。オーディエンスはほとんどいない。あえて言えば読者がオーディエンスで、たいていの人はグラントの意見に同意するのではないか。実際、エリザベス・ピーターズ(修道士カドフェルシリーズのエリス・ピーターズとは別人。為念)の『リチャード三世「殺人」事件』(原著1974/安野玲訳、扶桑社ミステリー、2003)は、リチャード三世のファン集会で殺人事件が起こるという、パロディー的な小説で、『時の娘』にオマージュが捧げられている。つまり、『時の娘』においては、小説の外部の読者へと流通先が開かれていた。
『時の娘』(1951)に先駆け、実際の歴史的謎を扱った作品にカー『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』(1936)、リリアン・デ・ラ・トーレ『消えたエリザベス』(1945)がある。この二つは舞台を当時においた、どちらかというとノンフィクション・ノベル的なタッチのものである。 テイは『時の娘』以前、『フランチャイズ事件』(1948)で、『消えたエリザベス』と同じエリザベス・カニング誘拐事件を扱っているが、『フランチャイズ』は『エリザベス』とは異なり、『オックスフォード運河の殺人』のように事件を創作的に翻案しつつ、舞台を当時においている。このデ・ラ・トーレとテイを比較するとなかなか面白い。 デ・ラ・トーレも歴史ミステリにおいては重要な作家であり、実在の人物サミュエル・ジョンソンを探偵役として実在の謎を解く『探偵サミュエル・ジョンソン博士』シリーズの短篇集の一冊目を1946年に刊行している(邦訳は日本オリジナル編集で論創社、2013刊にまとめられている)。そして同じ考証型でありながら、現在時の架空のキャラクターが謎を解くというタイプでは、『時の娘』の方が画期的である。『エドマンド・ゴドフリー』から『時の娘』にいたるまでに、こうしたバリエーションの開発がある。
  デ・ラ・トーレがサミュエル・ジョンソンを探偵役に据えたのはミステリ史的な理由がある。それは、彼と彼の伝記作者ボズウェルとの関係を、コナン・ドイルシャーロック・ホームズシリーズにおいて踏まえているからである(詳しくは同書解説および門井慶喜『マジカル・ヒストリー・ツアー』、丸谷才一湯川豊『文学のレッスン』の「伝記・自伝」の項参照)。さらに、探偵サミュエル・ジョンソンものにおいては、ホレス・ウォルポールを扱った一編がある(先の邦訳に収録)。ウォルポールはゴシック小説の元祖『オトラント城』の作者であり、ゴシック小説はミステリの源流の一つである。そして上記乱歩の解説にあるように、ウォルポールは『時の娘』にも直接的な影響を与えている。かつ、「セレンディピティ」というミステリ的に重要な概念の開発者でもある。たとえばウンベルト・エーコは『完全言語の探求』の補遺として『セレンディピティ』という論を書いているが、この「セレンディピティ」がどう重要なのかということは、パースのアブダクションがどうとか論理学がこうとかいう話になるので、今の私の手には余るため、よす。閑話休題。『探偵サミュエル・ジョンソン博士』においては伝記とゴシック小説というミステリの二つの源流が、歴史ミステリの文脈において流れ込んでいる。
 ミステリの源流といえばエドガー・アラン・ポーを外すわけにはいかない。上記の議論からすればオーギュスト・デュパンものの一編「マリー・ロジェの謎」のことは用意に目につく。これは題材こそ現代(当時の)だが、実際の事件を扱ったもので、しかもあの「モルグ街の殺人」の次作なのだ。

 上記のように考えてくれば、『時の娘』および歴史ミステリ(特に資料考証型の)が、ミステリ史において決して突然変異的なものでないことがわかる。ミステリ小説の外部と内部という問題も、古くから潜在してきたということが、整理すればより明確になると思う。

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 すでに長くなっていますが、書き残したことがあるので、まだ少しだけ続きます。一ヶ月後くらいになるかもしれませんが……。