読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

固着からの解放

 読書猿『アイデア大全』(フォレスト出版、2017)という本を読んでいたら、次のような記述にぶつかった。この本は「発想法」についてのものなのだが、終盤の「ポアンカレのインキュベーション」という章にこうある。

 

 天啓は無意識からではなく、固着からの解放で生まれる。

 

「固着からの解放」とは何か。かいつまんで言えば、「Aでしかない」と思われていたことに、「Bでもありうる」という別の(あるいは複数の)回路が開かれることであろう。そして創造的な「発想」とは、一つの文脈に縛り付けられたモノをそこから解き放ち、別のモノと結びつけることで異なる文脈を新たに形成することだ。この本はこうした文脈組み替え手法を古今東西から42もの例を挙げるカタログになっているが、逆にいえばそれだけ人は一つの意識に縛られやすいために、発想的な問題解決の手法が古くから必要とされてきたのだろう。

 興味深いのは、ポアンカレに続く「夢見」という最終章で、人が睡眠中に夢を見る際、脳内で無意識的に行なっているランダムな文脈組み替え作業は、こうした「発想法」に似ている、という指摘である。「眠りと夢見は(ポアンカレの)インキュベーションの1つの方法と見なせる。問題と従来の解法についての固着を剥がし、ランダムな刺激を含む意味ネットワークの拡散活性化を使うことなどがインキュベーションの構成要素だが、夢見はそのすべてを含んでいる」。目が覚めている時、人はわざわざノートに書き出すなどして意識を拡散活性化させる必要があるが、寝ている時にはそうした状態が自然と起こりやすいということだ。しかし夢見の欠点として、時にあまりにも脈絡なく感じられ、しかも忘れやすい。どちらというと無意識の領域に近い方法である。だから、意識的な作業と無意識的なランダム刺激とは、どちらか一方ではなく、どちらもが重要なのだ。天啓(良いアイデア、インスピレーション)の本質とは、無意識的な偶然性ではなく、「固着からの解放」にあるという考えには勇気づけられる。
 たとえば、大江健三郎の『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮社、1985)という本では小説の手法として「異化効果」がかなりフィーチャーされている。「異化効果」というとついシュルレアリスムを思い浮かべがちだった私は、この本を読んだ時、かなり啓発された。つまり、異化効果=シュルレアリスムという一つの回路が無意識的に固く形成されていたところに、大江の解説によって別の回路が開かれ、インパクトを受けた記憶がある。それはいわば、「異化効果」自体についての「異化効果」であったからであろう。
「固着からの解放」という語へのぶつかり方には同じくらいの実感を受ける。「Aでしかない」と思われていたことに「Bでもありうる」という別の回路が開かれるとき、人は何か、パーッと視界が開けるような解放感を覚えるらしい。たとえばミステリにおいて探偵役が行なっている推理はこうした思考法ではないだろうか。読者としての私は、解決編にいたり不可能犯罪と思われていた事象が可能であったと示されるときのあの感じをおもいだす。
 ここで注意が必要なのは、「解放のされ方」もまた一様であってはしだいに固着化されてくるので、「解放のされ方」自体が常に解放されてゆく必要があるということであろう。
 駄洒落のことを考えればわかりやすい。駄洒落というのはもっともミニマムな固着からの解放(音=意味という一元化からの意味の解放)であるが、同じ駄洒落を言い続けているとだんだんと固着化してきて、面白くもなんともなくなってゆく。そうした停滞を再び流動させるのが解放なのだ。
 しかし、解放というのは契機にすぎない。その後の別の回路における新たな固着がなければ、新たな解放もない。つまり解放とは固着に依存しており、いったんは固まってゆくものがなければ亀裂を走らせることもできないわけだ。固着=悪、解放=善と単純に分けられるものではなく、永続的な固着による貧血化こそが堕落をもたらす。ある一つの問題があったとして、その内部か外部のどちらか純然たる一方に立つのではなく、内部に分け入り行き詰まった地点において外部からの視線がうまく差し込まれてきた時、その交差する点において新たな回路、すなわち天啓は開かれるのではないか。