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襤褸は着ててもロックンロール

占いの思い出

anatataki.hatenablog.com

そういえば今年の一月ころ、生まれて初めて「占い」というものを紹介されて体験しました。

それはタロット占いでした。わたしはタロット(都筑道夫ふうにいえばタロー)が実際にはどういうものかもよくわからない状態だったのですが、占い手の方もフツーの感じで、別に超自然的なものを人格として捉えて、つまり「霊感」を「占い」の根拠としているわけではない。どちらかというと、カードで出た結果をダシにして、カウンセリング(カウンセリングを受けたこともないのですが)というか、対話によるセッションを行なう、という感じがしました。

まずどういうナヤミについて話すかを決める。わたしがカードをいくつか引く。なんらかの図柄が出る。この図柄は○○という意味なので、思い当たるかどうか、尋ねられる。正直、ピンとこないことも多い。占い手の人ももちろん私の個人的な事情は何も知らない。わたしはウンウンうなりながら、(こういう意味なのか?)などと考え、思いつきを話していく。するとしだいに図柄の組み合わせと思いつきによってあるストーリーラインができてきて、落としどころに落ちつく。

このときわたしは、当初予想もしなかったことを思い出しました。それは高校生の時に父親の本棚から勝手に借りて読んだ、トンデモ本でした。その存在を、十年くらい、すっかり忘れていました。結果、わたしは深層心理として、「本当はうさんくさいものが好きなくせに、それを恥ずかしがって、認めようとしない。もっと自分のうさんくさいもの好きを認めてはどうか」という話に落ち着きました。

ナルホド、これは物語制作だと思いました。

引いたカードの図柄は偶然にすぎない。これはどういう意味だ?と落とし所を考えるうち(そうしないとセッションが終わらないので)、事前に予想しなかった結論が導き出される。このとき、偶然にすぎなかった図柄は、結論と必然的に結びついています。わたしはアレコレと考えるうち、日常の中で固着していた見方(主観的・具体的)が客観的・抽象的に撹拌され、少々恥ずかしい記憶が見出されました(でもあの本は『水晶のピラミッド』とか、『星を継ぐもの』みたいな感じの壮大なアイデアで、インパクトがあったな)。ここには神秘的なものは、何もない。単に、考えを整頓したという、「作業」の体感が残るだけです。「結論」を頼りにしてもいいいし、しなくてもいい。まあ半信半疑ではありますが、せっかくいくばくかの金銭的・時間的なコストを費やしたのだから、せめて元はとりたい、と思うのは、人情でしょう。

そうか、「占い」の一端とは、こういうものなのか。

以来、わたしの今年のテーマとして、「うさんくさいものに身を任せる」というのが立ち上がったのですが、半年が経ち、その記憶もうすれかけてしまいました。こういうのは、外部から強制されるのではなく、自分をレセプターとして待ちの状態を設け、アンテナを張り巡らせる、つまり、ある意味では「共犯」志望のスタンスでなければなりません。でも、「うさんくさいもの」とは、まだまだ、出会っていないような気がする。

残り五ヶ月、どうなるのかな。