立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

再説・走馬灯

ある方から教わり、ギャビン・ブライアーズの「Jesus Blood Never Failed Me Yet」(イエスの血は決して私を見捨てたことがない)という曲を聽く(有名な曲らしいので、検索してみてください)。

この曲は成り立ちが複雑であるので、ここでちょっと説明する。ブライアーズは現代音楽家。1971年、友人がロンドンの街をドキュメンタリー映像にした。その記録に、ホームレスが賛美歌らしい曲を歌うところが混じっていた。ブライアーズは、鼻歌のようなその25秒程度のサンプルフレーズをオーケストレーションに乗せ、ループさせることを思いつく。時はレコードの時代。片面ギリギリの約20分までループさせた。(本人の説明は以下)

http://www.gavinbryars.com/work/composition/jesus-blood-never-failed-me-yet

ループに採用されている歌詞は以下の通り。

 

Jesus' blood never failed me yet
never failed me yet
Jesus' blood never failed me yet
This one thing I know,
for he loves me so

 

この曲が評判を呼ぶ。CDの時代になり、1993年、ブライアーズは新たに70分を超えるバージョンを新録する(トム・ウェイツの歌も乗せた)。

聴いてみると確かに、不思議な力がある。なぜだろうと考えると、以下のようなことが思い浮かんだ。

春頃に、鑑賞者の記憶を急激に刺戟するようなテクニックを、仮に「走馬灯効果」と呼んだ。この「Jesus Blood Never Failed Me Yet」も、近いものを含んでいるのではないかと思う。

まずバックのコーラスとオーケストレーション。日常的というよりはどちらかというと物悲しく宗教的な崇高さで、この曲を聴いているあいだ、俗(生)から切り離されそれを俯瞰する聖(死)という感じに包まれる。ASA-CHANG & 巡礼の代表曲「」も、聴いているとなんだか精神のダークサイドに引き込まれるようなオソロシイ曲だが、バックのストリングスの元ネタはSADEの「PEARLS」で、これのミニマルな繰り返しの効果が大きいように思う。というのは、よりフィジカルなライブバージョンを聴くと、あんまりオソロシくはないからだ。

次いで歌詞。「Jesus' blood never failed me yet」というフレーズは、キリスト教に幼少時より親しんできた人ならばとりわけ、記憶領域を刺戟されるに違いない。かつてこのブログではエリアーデの、〈この経験には元気づけられます。自分の時間をなくしていない、人生を散逸させなかったと感じるのです。すべてがそこにある、たとえば軍務のような、無意味だと思って忘れていた時期さえも、すべてがあり、そうして自分はある目標に導かれていたということが分かります――ある指向性に。〉という言葉、またレミオロメンの〈三叉路 十字路 五叉路も振り向きゃ一本道だ〉というフレーズなんかを紹介してきたが、そういう感じ、つまり、人が過去を振り返ると、そこは一本道になっていて、断片的に思われたあれやこれやの雑多な経験も、すべてつながっている、無駄なものは何一つなく、すべてが意味のあるものとして蘇る、そして普段は気づかないかもしれないが、そこには常に一つの意志が働いていたのだ。という感懐が浮かぶと、人は、涙腺を直撃されやすいらしいだ。これが先に「走馬灯効果」と呼んだものの正体である。

「Jesus Blood Never Failed Me Yet」は、短いフレーズを繰り返すミニマル・ミュージックの一種である。25秒のフレーズを70分以上繰り返すのだから、単純計算でも同じ歌詞を160回以上、唱えることになる。しかも変化が少ない。むしろそこでは、繰り返しの上で、聴き手の記憶、感情が変化する。

このテクニックを使用するものとしてもっとも身近なのはおそらく、最近よくある、結婚式での花嫁による手紙朗読ではないか。この前も、東京ガスのCMで、似たようなことをやっていた。このCMの場合、「やめてよ」の反復がベースとなるミニマル・フレーズであり、個々のエピソードがその上で移りゆく差異である。つまり、結婚式というものが、ある種の最終回、シーズン・ワンの終了、に見立てられており、そこで人は、手もなく泣かされてしまうらしい。しかし他人の結婚式でそういう場面に遭遇するとわかるのだが、エピソードを共有している当人たちに比べると、その蚊帳の外に置かれた状態の人間は、同じコトバに接しても、いまいち涙腺を刺戟されない。

もし、「Jesus Blood Never Failed Me Yet」を、キリスト教にあまり親しくない聴き手が、歌詞の意味もよくわからない状態で聴くと、どういうふうな印象を持つのだろう?