立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

書き手と読み手のマジック・ミラー的関係についての走り書き

 昨年、室井光広の批評集『わらしべ集』を読んだら、そこに通底するマジック・ミラー的世界像にガツーンと衝撃を受けた。
「マジック・ミラー的世界像」とは、私が仮に名付けたものだが、たとえば柳田國男を論じた次のような文章におけるモデルだ。

 

「この世の中には現世と幽冥、すなわちうつし世とかくり世というものが成立している。かくり世からはうつし世を見たり聞いたりしているけれども、うつし世からかくり世を見ることはできない」(「ワラシベ長者考」)

 

 つまり、あの世からこの世は見えているが、この世からあの世は見えない、という、非対称的な関係である。
 この関係は、たとえば創作における「古典」と「現代」との関係において、次のようにも言い換えられる。

 

先祖が限りなく反復作業した同じ土地が男の前にある。しかし、この男がこの作業をこの土地でするのはこれがはじめてなのだ。(……)
 歴史という反復の土地に祖霊の声がこだまする。一回性のこの私がそれを背景に不器用なアリアをうたう。才能のあるなしをこえ、全古典に対峙する個人の位置関係をオペラ的に表現すればそういうことになろう。私が何かみすぼらしい内容の自作の歌をうたう。すると、背後の古典があのギリシャ悲劇の場面のようなコロスとなってある種のメッセージをエコーさせる。(……)
古典重層山脈への信仰の無いところでは、声は決してエコー化しない。(「泥縄式古典論」)

 

 現代に生きる我々の発する表現が、「祖霊=古典」との関係において何らかの「エコー」を生じる。それは、聞こえない人には聞こえないたぐいのものである。しかし、それは、聞こえる人には確かに、聞こえる。というか、聞こえる人にとって、あらゆる現代の表現は、どのように「みすぼらしい」ものであっても、過去との関係を持たずにはいない。過去は、具体的なモノとして触れられはしないが、われわれを監視している。現代に生きる者にとって、過去とは、そうしたマジック・ミラーの向こう側にある存在なのだ。そんなもの、ありはしない、幻想に過ぎない、と、一笑に付すこともできよう。しかし、もしその実在を信じるならば、ある種の事象、ないし、力をすっきりと説明できることも、確かである。
   ※
 このマジック・ミラー的感覚を受けて、私は、小説の作者と読者との関係のことを考えた。この場合、作者が「うつし世」、読者が「かくり世」である。作者(うつし世)は作品を商業的に発表することで読者(かくり世)から視線を集める。この場合、ほぼ全ての作者(うつし世)は、まだいるかいないか分からない読者(かくり世)の実在を信じて、作品を書くのである。その関係は圧倒的に非対称であり、読者のほうが数が多い。しかしインターネット登場以前なら、この両者の関係は、まだ遠かった。ないし、間接的な壁が強かった。

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 しかし、インターネット登場以降、この壁の「マジック」が、薄くなった。読者(かくり世)は作者(うつし世)に、以前より直接に視線をぶつけることもできるし、また、作者のほうも、読者の具体性に注目することのできるケースが増えた(エゴサーチとその後のウォッチングが、その例である)。

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 SNSの登場以降、以前なら「かくり世」にとどまっていた一般人でも、「炎上」することが多くなった。炎上とは、先のたとえでいえば、「かくり世」にいるつもりでの発言が、予想以上の注目を集め、いつの間にか「うつし世」にステージが移ってしまっていた、ということである。
 そう。ひとたび誰でもアクセスできる場で発言=テクストを生成するならば、うつし世=かくり世のステージは、かつてより容易に流動しうるのが、現在である。
 アマゾンレビューなり、読書メーターなり、ブログなり、ツイッターなりで、読者が、作品に対して感想を述べる。するとその感想という発言=テクスト=作品を通して、「マジック」の壁は薄くなり、誰でも「うつし世」=作者のステージに、立つことができる。すなわち、次のような関係である。

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 読者とはいわば覗き魔であり、作者は露出者である。先日来、話題になっている市川哲也氏の言葉は、ミステリ小説を長年読みつけたヒトにとっては、なじみ深いものだろう。小説の読者には、ゆくゆくは露出者になりたいと志望する覗き魔が常におり、露出者のステージをよく品評する。その品評という行為は、自身を小さなステージに立たせることに直結するのだが、それに気づかないまま、未だ覗き場の闇にいるつもりでぶかっこうなたたずまいでいる者も、多いようだ。たぶん、ステージで受けるスポットライトに、慣れないのだろう。
   ※
 インターネット上においては、このように、うつし世とかくし世の立場は流動しうるのだが、かくし世の住人の中には、この流動性が、理解できない者もいるのである。最悪の場合(本当に本当に最悪の場合)、この覗き魔の発言は、ほとんどテロ行為にも等しくなりうる。
「作者に向かって、オマエの書くものはツマラナイから、筆を折れ、と、あるいは、○すぞ、と、なぜ言ってはいけないのか?」
 こうした疑問文を発さないなどという程度の最低限以下の良識は、読者の側へ暗黙のうちに常識的なものとして委ねられている。しかし先に挙げた匿名という「マジック」は、時に良識を狂わす。もしこの疑問文が、発する者にとって根本的に理解できないものとして発されるならば、それは誰にも防ぎようがない。一方で、作者が忍耐しうるものでもない。その場合、その発言は作者ー読者というレベルでの関係を壊し、まったく別種のレベルにおける記号となるだろう。
   ※
 自分の言葉を公に出す、という行為は、自身を露出者のステージに立たせるということである。にもかかわらず、未だ覗き魔の暗がりにいるつもりで明るみに出てきてしまうヒトがいる。
 私がこのブログを開設したのは2008年だからもう九年前だが、その一端には、そうした、頭隠して知り隠さずな言動を当時、見聞きすることがあって、それに不満を覚えたからである。以来、何かを批判する際には、その対象の作者ないし編集者、賛同者への手紙のつもりで、駄文を書きつづってきた。どのような感想でも、それは私なりに応援したいという気持ちで、讃歌のつもりで、書いた(そこに確かに技術がともなっているかどうかは定かではないが……)。
 スタージョンの法則(「あらゆるものの九割はクズである」)が巷間、しばしば言われる。ではその「クズ」の存在価値がないかといえば、そうではない。「働かない蟻」のようなもので、むしろ、一割の傑作はわそうした九割のクズに、その存在を依存しているのである。もし九割のクズを排除したならば、一割の傑作の総量も、十分の一になっていることだろう。このレベルではいわば、九割のクズは「かくり世」であり、一割の傑作は「うつし世」である。
 安価な「古典」(かくり世)は、一個人(うつし世)の前に、接しきれないほど大量に存在する。一方で、雑誌なり単行本なりで比較的高価に生産される現代の「新作」は、「古典」のレベル、基準に厳密に比べるなら、そのほとんど(99%)は読むに耐えないものだろう。しかし、そうした「古典」のレベルに耐えないからといって、ならば「新作」は存在すべきではないのかというと、そうではない。「古典」(うつし世)のさらなる背後には、その同時代に、より膨大なクズ(かくり世)があったからだ。つまり、両者は互いに存在を依存しているのだ。
 私の考えでは、こうした流動的なマジック・ミラー的構造への認識こそ、すなわち「古典重層山脈への信仰」であり、それなしに、「声は決してエコー化しない」。この信仰を、これをここまで読んでくださっている、あなたへと向けて、書きつづった。