立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

ネタバレについて2017

【はじめに】
 このブログでは二、三年に一度ほど、いわゆる「ネタバレ」という問題について、自分の思うところを述べてきました。というのは、「ネタバレ」への批判、およびその過剰な批判への反批判について、巷間、コンフリクト(摩擦)が起こっているのをたびたび目にするからです。
「ネタバレ」批判は主に、ミステリ作品(ざっくりいえば)を語るに際して起こっているように、見受けます。対して、「ネタバレ」批判批判は、主にミステリでない作品について語られることが多い。
 私自身は、ミステリの分野にホームグラウンドがあると感じています。だから、基本的に、ミステリについてのネタバレは、避けます。でも、敬愛する多くの作家ないし論者の方(主に純文学系の方ですが)が、「ネタバレ」批判の過剰さへの批判をされているの目にし、理解できる気持ちも、あります。「ネタバレ」回避には確かに、深いコミュニケーションを阻害する弊というべきものがある。だから、両者のあいだで摩擦が起きているのを見るたび、もどかしい思いを抱いてきました。
 なぜ「ネタバレ」を語ってヒトはすれ違うのでしょうか。それは、ひとくちに「ネタバレ」といっても、実はさまざまなバリエーションがあり、その内実は論者の文脈によって異なるからだ、というのが、二〇一七年時点での私の考えです。

 

【ネタバレとは何か】
 ここで私のいう「ネタバレ」の基本的な意味を、まず始めに書いておくことにします。
 それは、

「演劇・小説・映画・漫画などの物語芸術作品(フィクション)について、既読者が、作品の重要な転換点ないし結末を、未読者に対し明かす(特に、事前の注意喚起ぬきに)こと」

だと、仮にしておきます。

 

【「ネタ」が重要となる作品とそうでない作品】
 あまりにも当たり前のことですが、フィクションにおいては、「ネタ」=物語の展開が読者に対し重要な役割を果たす作品とそうでない作品があります。
 そしてミステリ(これもその内実は複雑なのですが、詳しく説明するのは煩雑なので、なんとなく「推理もの」「探偵もの」と呼ばれる作品群だとしておきましょう)、中でも「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルにおいては、その「ネタ」が、作品の生命とも呼ぶべきほど重要です。
 なぜなら、ミステリにおける読者の読書行為とは、作者対読者の「ゲーム」だからです。この「ゲーム」においては、作者が作品に仕掛けた「ネタ」を、作中において解き明かされる前に、読者が推理する、というのが、対決の形式です。読者が解決よりも先に「ネタ」にたどり着くことができれば、読者の勝ち・作者の負け。逆に、読者の想像を超える「ネタ」を仕込むことができれば、作者の勝ち・読者の負け。
 それは将棋やチェスや囲碁のような一対一の一回勝負のゲームに似ています。相手の手の内が先にわかってしまっては、ゲームになりません。相手の出方がわからないという緊張感があるからこそ、このゲームは成り立ちます。ものすごく大ざっぱにいえば、ミステリというジャンルにおけるあの手この手の技法は、この作者対読者の緊張感を掛け金に開発されてきました。そして往々にしてそこでは(とりわけ、アイデアに重きをおくみじかい短篇などでは)、作品の構造において、ある一点(ネタ)をひねることによって読者の風景をまるきり違うものに変えてしまうというテコの一点性、スマート性が、エレガントなものとして評価されてきました。すなわち、些細な一点の錯誤によって、全体を大きく塗り替えてしまう、という、エコノミクスです。こうした評価軸をもつ作品において、錯誤という仕掛け=「ネタ」の事前暴露は、致命的です。
 もちろんこの「ゲーム」という関係は、フィクションをめぐる環境の一領域にすぎません。狭義のミステリにおいては、「ネタバレ」が問題となる可能性が比較的「高い」、ということは、いえるでしょう。しかし、「ネタ」に重きが置かれていない作品の場合は、どうなるでしょうか。たとえばプルースト。たとえばジョイス。たとえばベケット。彼らの作品は、あるたった一点の暴露によって作品全体の意味が変わる、ゆえに作者もそれを隠す、というふうにはなっていない。むしろ何度も読まないとわからない。とはいえ、だからたった一点の「ネタバレ」によって読者へ与える感動を減じてしまう作品など文学的価値の低いものであり、むしろ何度も読んでようやく理解できる作品こそ価値が高いのだ、とも一慨にはいえない。そうではなく、「ネタ」が鑑賞において重要な役割を果たす作品とそうでない作品があり、その両極は幅を持つ、という話です。このグラデーションがないかのようにして「ネタバレ」を語ってしまうと、摩擦の問題をうまく言い当てることはできません。
 たとえば先の「緊張感」がなければ、ミステリというジャンルがこれほどまでに発展することはなかったでしょう。逆に、たとえミステリを鑑賞するのであっても、「ネタバレ」など全然気にならない、という鑑賞者も、いくらでもいるでしょう。作品にも鑑賞者にも、たくさんのグラデーションがあるので、「ネタバレ」が重要だとかそうでないとかいうことは、場合によって異なります。

 

【四つのファクター】
 ではその「場合」とは、どのように異なるのか。そこで「ネタバレ」に注意するに際して、どのようなファクターに着目していけばよいのか。私がいま思いつくのは、次の四つです。
1作品
2読者
3鑑賞
4論評
 このそれぞれが、「ネタ」の重要度において高から低への二つの極を尺度として持っているのではないか。
1作品。ここでの「高」は、先に挙げたようなミステリ、中でも「ネタ」こそが作品の命、というような見せ物小屋的なものが挙げられます。逆に「低」は、一度読んでもわからないような、難解なもの。
2読者。ミステリでないフィクションであっても、どんな些細な「ネタバレ」でも気になるというヒトが「高」。どんな作品であっても気にしない、というヒトが「低」にあたります。
3鑑賞。「ネタ」の重要度が「高」いのは、なんといっても初読時です。再読時は、忘れている場合をのぞき、「ネタ」というものはすでに知っているわけですから、「低」です。
4論評。たとえば紙誌での短い書評はふつう、未読者を多くの対象にしていますから、「高」といえそうです。反対に、作品全体をガッツリ論じた長い論文などでは、「ネタバレ」など気にしていては論じ切れません。

「ネタバレ」が問題になるのは、1〜3を受けた4の論評においてです。そこで「ネタバレ」に気をつけるにあたっては、このあたりの尺度への留意が必要になるかと思います。これを一緒くたに論じていても、摩擦はおきるばかりでしょう。

 

【私史上最大のネタバレ】
 私が知る限り、フィクションにおける「悲劇」としての史上最大のネタバレは、島田荘司占星術殺人事件』に関するものです。冗談ではなく、このケースは数万人単位で人生を狂わされた「犠牲者」を生み出しています。
【以下、有名なケースですが一応、ご存じでない方のために、ある漫画作品について言及することをお断りしておきます】
 一九九〇年代、講談社の大ヒット漫画『金田一少年の事件簿』のある作品において、『占星術殺人事件』のトリック=「ネタ」が二つまでも流用されました。その『金田一少年』を読んだ多くの青少年は、独自の物語として面白く思い、やがて小説を読むようになり、ある日、ミステリというジャンルにおける有名作『占星術殺人事件』を手にして、(あれっ、このトリックは見たことあるぞ……)という疑問を抱いたのです。
 この「ネタ」が真に独創的なものであったために、その経路を辿った若者は、というか私は、「自分は何かを奪われた」という感覚に強く捕らわれました。同じトリックが流用された(これはオマージュといえるのかどうか、問題にもなりました)別のフィクションにたまたま先に出会っていたために、自分は、この小説に正当に出会い驚くことのできる権利を失ってしまったのではないか。もし、別の出会い方をしていたら、たぶん、違う人生になっていたのかもしれない、云々。
 これは、「たった一つのネタによって読者へ与えるエモーションを減じるような作品は、フィクションとして価値が低い」というような話ではありません。読者と作品との出会い方の問題です。
「驚異」の念は、何か未知なるものと出会った時、個人の内側に生じます。それは時に、その個人の内側をかたちづくり、その後に左右します。そしてそのような大きな出会いは、若い時のほうが多い。
「ネタバレ」など些細な問題にすぎない、と述べることのできるほどの余裕を持つヒトは、けっこう、「読み巧者」と呼ばれる方に見受けられます。たいていの作品には動じないくらい、経験を重ね、スキルを積み、むしろ個々の作品よりもシーン全体を眺めわたしたいという野心に駆られるほど、読者としての自分がすでにほぼほぼできあがっているからだと思います。でも、まだまだできあがっていないヒトにとっては、作品との「出会い方」は、なかなか重要です。場合によっては、「ネタバレなど気にするな」というアドバイスは、年長者からの「押しつけ」として、反発をも招きかねません。
 もちろん、フィクションを愛好する誰もが、そうした紆余曲折を経て、やがて読者としての身体を、それぞれに作り上げてゆくわけですけれども。

 

【事前/事後の視野】
 前節で述べたのは、「読者」というファクターにおける「ネタバレ」の重要性の高低です。
 続いて「鑑賞」について述べてみましょう。
 前述のように、「ネタバレ」が問題になるのは初読においてで、再読では問題になりません。再読というのは確かに重要です。理解度においては、再読と初読では比べものにならない。しかしここでいう「理解」とは何でしょうか。それは作者が執筆における難点をどのようにクリアしたかという、「答え合わせ」の、リバース・エンジニアリング的観点に限られることなのでしょうか。
 物語を扱ったフィクションは、ふつう、始点と終点を持つ一本の線、一次元的存在です。鑑賞者は多くの場合、それを順序通りに潜ってゆく。もちろんそれは一つの正当な読み方に過ぎません。実際はためつすがめつ、どのように自由に扱ってもよい。
 ミステリなど「狭義」の「ネタ」を離れて、もっと広い意味で「ネタバレ」という時の「ネタ」とは、たいてい、物語の展開をさしています。たとえば、登場人物の運命だとか。
歴史小説は最初からネタバレ」などといいます。特に死に方の有名人物……織田信長なんかを扱う際は、その最期を鑑賞者の誰もが知っている、その前提で作品は作られる。その時、鑑賞者は、物語時間の外部から登場人物を眺めます。作中人物の最期が悲劇的であることを知っていればいるほど、自身の最期を知らない登場人物の泣き笑い、一挙手一投足と、それを眺める鑑賞者の視線のあいだに、いいようのないアイロニーが生じる。
 同時に他方で、鑑賞者の内側にはサスペンス=宙吊り感覚も生じます。自分は結末を知っている。それと作中の物語展開は、どうにもかけ離れている。作者はどうやってあの結末まで持って行くのだろうか。……そういう謎、宙吊りの感覚です。
 この宙吊り感覚は、演出の一種です。歴史物で有名な人物・事象を扱うなら必然的に生じますが、そうでない場合、作者は、ナシにしたり、逆にこしらえたりすることもできる。
 たとえばナボコフの『ロリータ』。たとえば太宰の『人間失格』。この二つはそれぞれ、著名な書き出しをもっています。しかし実はそれは、真の冒頭ではない。この二つは手記を囲む枠、すなわち主な語り手とは異なる人物による序文を持っていて、そこでは作品の核をなす手記の書き手の運命がほのめかされます。つまり読者は作中人物の運命をチラ見させられた上で、宙吊り状態に置かれます。このチラ見→宙吊りは、一種の演出です。この時、「ネタバレ」と原理を同じくする効果が生じています。この効果をもたらすのが、手記の書き手とは異なる人物による「序文」であることには、注意が必要です。それは例えてみれば、作中人物の運命をあらかじめチラ見せする、セルフネタバレを作品に組み入れての利用=演出です。作者は、作品にその効果が必要だから書いたのです。必要でなければ、最初から書かないでしょう。
 作中人物と鑑賞者のあいだに生じるアイロニー。鑑賞者は彼らの未来を知っているからこそ、そこに至る「過去」の彼らの行動に馬鹿だなあと思ったり、かえって勇気を受けたりする。この原理はフィクションに限らず、作品の外の現実においてもいえます。
 つまりふつう、ヒトにとって、未来とは確実なものではない。確実でない未来を前にして、何かしら行動している。ゆえにそこには、賭けとしての倫理性が宿ります。もし、未来を熟知した「事後」の視野から「事前」を眺めるならば、ヒトの行動はずいぶん安全で安心な、「緊張感」のないものになっているでしょう。自分が何をすればいいのか、すでに「理解」しているからです。しかしヒトは未来を熟知などできない。
 古くからの有名作に対しては、作者が「チラ見」をこしらえなくとも、先の歴史物と似たような効果が生じます。『吾輩は猫である』の猫はビールを飲んで酔っぱらって溺死する。『失われた時を求めて』の語り手は小説を書き始める。これは作者が執筆時には意図していなかったであろう、作品をめぐる環境です。
 現在において発表される新作は、もっと違う環境にあります。

 

【古典と新作】
 物語の展開を知った上で作品を鑑賞することは、安全で、安心です。作中人物のメタレベ
ルに立った上で、不確定性にふりまわされるということがない。
 同じように、クオリティの保証された有名な古典だけを鑑賞するのも、安全で、安心です。何より、クズを掴まされるという無駄が縮減されます。
 しかし、「現在」生み出され続ける新作については、安全で安心な立場はまだ確定していません。その立場は、鑑賞者個人々々の鑑賞体験の賭けを基礎にして作られてゆくものです。
 たとえば「現在」の実作者は、安全安心とは違うレベルに立たされています。ナボコフ、太宰、といえば、今や、揺るぎない人気を誇る小説家に見えます。しかし、作品を生成しているその時点においては、なんの保証もありません。作者は不安にさらされていたでしょう。いま書いている作品は果たして傑作となるのかどうか。自身のキャリアにおいてどういう位置付けを持つのか。読者に受け入れられるかどうか。売れるかどうか。後世に残り文学史に記録されるのかどうか。自分の運命について「ネタバレ」されてメタレベルに立つことなどできません。
 それらすべてをのりこえてきたようにいま見える過去の古典も、五十年後、百年後、どうなるかわかりません。それを左右するのは、鑑賞者たちです。その時々において、「現在」の「私」たちの読み一つ一つまでもが、実は、未来から問われているのです。
「ネタバレ」という問題が常に私に投げかけるのは、こうした、時間の内すなわち不確定性にさらされた丸腰の存在者としての倫理性です。

 

【論評における語り口の選択】

 話が大きくズレてしまいました。
 しかしここまでの話で、「ネタバレ」とは、その時々において、論評の語り口のバリエーションを要求するという、しごく当然のことが、はっきりしてくるのではないしょうか。作品は有名なのか無名なのか。一度読めばわかるのか、何度読んでも難解なのか。読者は何を気にしているのか。鑑賞について何を重視しているのか。論評は単なるオススメなのか、論者の全身を投じたテクストなのか。これらは「ネタバレ」を全否定すべきか全肯定すべきかというような、単純な話ではありません。
 しかしどうもこの話になると、感情的になってしまっていけません。
 ちなみに、私が大学二年生で、ミステリ研究会のサークル勧誘をオリエンテーションでしていた時、ある新入の男子学生が、「面白いミステリとはネタバレされても面白い作品を指す」理論を唱える論者で(当時は)、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』という有名作の真相について、勧誘ブースで大声で論評するという行為に及んだことがありました。さすがにその時は、複数人で注意して、別所に移っていただきました(彼はその後、入会し、サークルの会長になりました)。

「ネタバレ」を肯定する際、もし効率性をのみ重視するならば、それは極論にまで敷衍すれば、現在作られる新作、そして鑑賞者としての「私」という個人そのものの否定にも、通じていきかねません(作品に対する最大にして最悪の「ネタバレ」とは何かと想定すると、「……とまあ、以上のような次第で、あれは誰が見ても古典になりえない、いま世間で重視されているどのような評価軸にもひっかかりえないクズだから、君が読んでも意味ないよ」というような、丁寧な解説ではないでしょうか)。逆に、一切の「ネタバレ」を禁ずるならば、それはそれで、鑑賞者に膨大なコストを要求し、個人の獲得できるスキルはずいぶん貧しいものになってしまうでしょう。
 先の四つのファクターの組み合わせによるバリエーションは、この両極のあいだにあります。その時々において必要とされる論評の語り口の選択をどうするかが、鑑賞する「私」の個人性と、作品の評価、そしてフィクションをめぐる環境そのものを、やがてかたちづくってゆくことになるのではないでしょうか。