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襤褸は着ててもロックンロール

梶龍雄『浅間山麓殺人推理』

梶龍雄『浅間山麓殺人推理』(徳間文庫、1988/『殺人への勧誘』光風社ノベルス〉、1984の改題)読み終わり。
これはいつもとは趣向が変わっていて、枠物語ふうになっている。冒頭、浅間の山荘に集められた男女五人がいきなり銃で狙撃される。彼らはみな、殺し屋で邪魔者を消したという過去をもっていた。山荘の外に飛び出すと銃で狙われるので、殺し屋の正体は誰か、なぜ今回「客」が集められたのか。というナゾを解き明かすため、彼らはひとりひとり順繰りにエピソードを語っていく。作品はこのエピソードが大部分をしめ、語り終わると各話間のつきあわせ作業が始まり、一悶着を経て、ある真相が浮び上がる。
カジタツ印だけあってそれなりに面白いものの、語られるエピソード(内部)とそれを取り囲む枠(外部)とのつながりがアッサリした感じで、濃い味付けに慣れた身にはどこか物足りなくもある。それは、語りとファクトの関係の問題だと思う。何人かが一箇所に集まってエピソードを順々に披露する。これは古来からある由緒正しい文学形式である(プラトン『饗宴』、ボッカチオ『デカメロン』、チョーサー『カンタベリー物語』、カルヴィーノ『宿命の交わる城』……)。本作ではもちろん、中に信頼できない語り手がいて、登場人物たちは語りの表面に露頭したその矛盾点をついていって、真相を追究するのである。ふだんのカジタツなら、探偵役はいろいろと調査を重ね、固いファクトを積み上げた上で「怒涛の伏線」を回収していく面白さがあるのだが、しかしエピソードを基に推理するとなると、どこか心もとなくなってしまう。それよりもこうした趣向なら、エピソードの内部と外部の関係を過激化(つまり叙述トリックふうにということですが)したほうがインパクトがあるし、実際にそういう作例をこれまでいくつか読んできたような気がする(たとえば岸田るり子『出口のない部屋』)。これはどちらが良い悪いではなく、単に本作の場合、いま読むとアッサリして感じられるな、ということです。なにせ過去のエピソードをたった一日に凝縮して、各人の話が終わったとたんすぐ解決編に移ってしまうのだから(冒頭から結末までの作中の時間経過はわずか半日しかない)。しかし、もし「枠物語」を安楽椅子形式の団子化とでも捉えるならば、それと「本格推理」との関係については、もしかするとまだまだオモシロイ問題を秘めているのではないかと直観的に思った。

 

浅間山麓殺人推理 (徳間文庫)

浅間山麓殺人推理 (徳間文庫)