立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

たとえばポップミュージックにおいて、日本語だとこなれない表現も英語だとストレートにいえる、という事態がある。仮に「ラブアンドピース」という語を思い浮かべてみる。なぜ「愛と平和」だと(なんか違う)ということになってしまうのか。なぜアルファベットなら意味の重さを感じずに、透明な気もちで発語できるのか。それはたぶん、「愛」とか「平和」とかいう語が、実は日本語としてまだまだこなれず、用法のバリエーションが開発されていないために少なすぎる(使われる場が限られている)、書き言葉的であって話し言葉的ではない、ゆえに個人の日常感情のリアリティを語が受け止めてくれない、ということではないかしら。

ある文芸同人誌の表紙が女子高校生のイラストを採用していた時、似たようなことを感じた。内容とあまり関係ないように思われたからだ。なぜ女子高校生の絵だと今風で「無難」なのか。それを「無難」と感じさせる環境は何か。

もちろん個々の事態にはそれを可能にするいくつかの条件が絡まり合っているはずだが、時折、基底が露わになって、環境の透明さが濁る。そのとき、自分は呼吸をして生きていたのだと初めて気づくように、自分を取り囲むモノへの違和へと意識は仕向けられる。