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襤褸は着ててもロックンロール

ローレンス・スーチン編『フィリップ・K・ディックのすべて』

フィリップ・K・ディック著/ローレンス・スーチン編『フィリップ・K・ディックのすべて ノンフィクション集成』(飯田隆昭訳、ジャストシステム、1996)を読んだ。微妙なタイトルだが原題はThe Shifting Realities of Philip K. Dick: Selected Literary and Philosophical Writingsで、主に自作に関するエッセイや講演録を集めたもの(ディックが晩年個人的に書き続けた「釈義」と呼ばれる8000ページにおよぶという思索ノートの抜粋は翻訳からは除かれている)。

この本を通読すると、目立ったモチーフをいくつか見いだせる(特に第五部の講演録は、いずれもそれなりのボリュームがあり、なかなか読み応えがある)。

カネにならないながらも書き続けているSFというジャンルへの愛。

われわれを魅了する何がSFにあるのか?SFとは何か?SFはファンを、編集者を、書き手をしっかりとつかんで離さない。しかし、誰もこれで金銭をつかむことはできない。(……)私にとって重要なのは、書くこと、すなわち小説を作り出す行為だ。なぜなら、小説を書いているそのときは、書いている世界の真只中に私はいるのだから。この行為、この世界こそ、リアルに感じられる。書き終えてこの世界から永遠に離れると、私は滅びる。作中の男女は語るのをやめる。もう彼らは動かない。(……)生活のために書いてはならない。それなら靴紐でも売ったほうがいい。諸君は生活のために書いたりしないように。私は自分に約束する。もう小説は書かない。ついには自分と切り離される人びとをけっしてふたたび脳裏に描くまいと。こう固く自分に言い聞かせるが、密かに、慎重にまた小説を書き始めるのだ。(「疲れたSF作家が深夜に書いたノート」1968、72)

ソクラテス以前から続く哲学的伝統を受け継いでいるという強い自負。

かなり早い時期に大学をドロップアウトしてものを書きはじめたから、哲学の勉強は独学です。主に読んだのは哲学ではなく、詩でしたね。イエーツとワーズワース、十七世紀の形而上派の詩人たち、ゲーテ、それからスピノザライプニッツプロティノスのような代表的な哲学者。プロティノスには大いに影響されましてね。早くから私はアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドベルグソンを読み、純粋哲学とはいえない学問にも精通していました。カリフォルニア大学バークレー校で哲学の基礎コースをとったんですが、プラトン哲学のプラグマティックな価値について質問したところ、このコースはとるなと勧告されましてね。ソクラテス以前の哲学者、なかんずくピタゴラスパルメニデスヘラクレイトス、エンペドクレスにはつねに惹かれていました。私は、クセノファネスが神を見ていたように神を見ていたのです。哲学への関心は、徐々に神学への関心に移行していきました。古典時代のギリシア人のように私は超神霊術を信じるようになったのです。哲学における形而上学体系すべての中で、私はスピノザの「神イコール実在、イコール自然」というテーゼに最も共感を寄せています。(「哲学を語るフィリップ・K・ディック、フランク・C・ベルトランとの短いインタビュー」1980、88」)

独自の宇宙=神感覚。

あるアイデアなり思想が、文字どおり生きているとはどういう意味なのでしょうか?人間の歴史の流れの中で思想が現実化するために、思想はそこかしこで人間をとらえて利用しますが、これにはいかなる意味があるのでしょうか?ソクラテス以前の哲学者たちが、宇宙は思考する巨大な存在だと考えたことは正しかったかもしれません。宇宙は思考する以外何もしないかもしれないのですが、その場合、私たちが宇宙と呼ぶものは単なる仮装の一形態であるか、汎神論に基づくある種の変形物のどちらかなのです。私としては、宇宙は私たちが日常経験している世界を狡猾に模倣していると考えたいと思います。私たちはこうしたことが少しもわかっていません。(「この世界が悪いとわかれば、他の世界を見るべきだ」1977)

新人作家へのアドバイスも面白い。

(「リアルな」登場人物が展開する言動、効果的な会話を書くことに関して、新人作家にどんなアドバイスができますか?)

「質の高い」文学作品、とくにネルソン・オールドグレン、ウィリアム・スタイロン、ハーバート・ゴールド、いわゆる「ニュー・スクール派」の作家の短篇を読むこと。そしてドス・パソスリチャード・ライトのような三〇年代のすぐれた左翼作家、さらにさかのぼってドライサー、ホーソーンも。とにかくアメリカの作家(むろんヘミングウェイガートルード・スタインを含む)に固執しなさい。リアリスティックな対話を生んだのは彼らだ。フロベールのようなフランスのリアリストのものを読んで、プロットと性格描写を学びなさい。プルーストなどの主観的すぎるタイプの作家は避けること。ジェイムズ・ジョイスの初期の短篇から『フィネガンズ・ウェイク』にいたる全作品を、必ずじっくりと研究すること。(「ザ・ダブル・ビル・シンポジウム」1969)

そして、現代社会への批判と、若者への信頼。

ジョージ・オーウェルが想像した全体主義社会はすでに到来しているのでしょう。政府はオーウェルが予測したことをまさに実行しようとしています。かくて権力が存在し、動機が存在し、電子工学のハードウェアが存在していますが、それだけでは意味をなしません。なぜなら、誰も耳を傾けようとはしないからです。現代の若者は本は読まないし、落ち着きもなく、ぼけっとしていて、もの覚えも悪い。権力者の号令も彼には空しく響くだけです。彼は反抗しますが、理論やイデオロギーからではなく、利己主義から反抗するのです。(……)空恐ろしいテクノロジー社会の出現、これが夢に見た未来です。この身の毛もよだつ悪夢の世界の到来を阻止できる者が現れるとは、とても考えられませんでした。非行少年たちがその小さな魂にひそむ歪んだ悪意をもって、こんな社会を流産させることもありうるとは思いもおよばなかったのです。神よ、彼らに祝福を。(「アンドロイドと人間」1972) 

こうした若者への信頼は、文化大革命クメール・ルージュ北朝鮮の出現を経た現在の目にとっては、ストレートすぎるように思われる。しかし、それを信頼するディックのパッションには、疑いえないものを感じる。

ディックが死んだのは1982年。ソビエト崩壊前だ。だからしばしばよくあるように、文中の未来年表では21世紀にいたっても米ソの対立は続いている。収録作中、第2次大戦で枢軸国が勝利したパラレルワールドを舞台にした歴史改変ものとして評価を受けた『高い城の男』の続篇として予定されていた断章を読むと、その頃のリアルを感じた。当時、「私」という個人がいわゆる西側と東側のどちらかに生まれるかはまったくランダムネスである。「この私」が「今、ここ」にいることの必然性など、どこにもなく、それは交換可能だ。だから、ナチスワールドの内部において、連合国が勝利した歴史がパラレルワールドとして語られる時、「あちら」と「こちら」は「交換可能」だということのリアリティはぐんぐんと鮮明さを帯びる。ほとんど、『ドン・キホーテ』第二部において虚実の裏返るのに匹敵するほどの鮮明かつ異様な感覚、すなわちリアルだ。

実現しなかったアクションドラマ用の梗概(冒険活劇のストーリーに例のディック的どんでん返しが組み込まれた)を読むと、私は今年の二月に観た映画『沈黙 the silence』を思い出した。二人の神父が敵地へと乗り込んでいくあの映画では、捕まってからはほとんどが長い対話シーンが締める。この対話=言葉において、主人公の行動の意味はまるきり変わりうる。たとえば、信教の自由というまごころ(と主人公が信じているもの)から発した行動を貫徹しようというふるまいは、「キリスト教信仰の布教など、ポルトガルの日本侵略を優位にするための手先ではないか」という陰謀説に立てば、その意味を百八十度変えてしまう。最終的には、棄教という転轍によって行動を変えながら自身の精神が現す意味自体は保つという内面の論理のアクロバットが主人公によって示される。そしてそうした登場人物たちの葛藤を眺めているのは、もはやキリスト教信仰が危険でないものとなった社会における劇場の中の「私」なのだ。私は今、安全な立場から眺めているが、安全でない立場から映画を眺めている人間もいるだろう。そして未来において何が多数派を占めるかは、誰にも決定できない。つまり、未来には底がない。
別の例でいえば、たとえば今や常識となった北朝鮮による日本人拉致被害は、90年代にはまだ陰謀論的な響きを帯びていた。すなわち、あまりにも荒唐無稽なために、マトモな政治言説として社会的な言論空間において問題にすることは危険だった。しかし、それは現実だった。2002年のあの狂乱を、この数日、思い出す。

こうした、絶対的にすがるもののない空間においてどのように足場を作っていくべきかということのリアルについて、ディックの言葉に触れると、目を覚まさせられる(いやそれは本当に覚まさせられたのか、ということも含めて)。

この翻訳はあまり評判がよくないらしいが、特に何の断りもなく何度も出てくる「テッド・スタージョン」とか、ラヴクラフトが書いたという「チャールズ・デクスター区の怪奇な事件」などというような表記は、私にも目についた(デクスター区ってどこだよ!)。

 

フィリップ・K・ディックのすべて―ノンフィクション集成

フィリップ・K・ディックのすべて―ノンフィクション集成