立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

中村光夫『藝術の幻』

蔵書整理のために本棚をいじっていたら以前集めた中村光夫の本がいくつか出てきた。
中村光夫という人の著作は私は金井美恵子のエッセイから入ったのだが、これまでは読んでも意識が言葉の表面をつるつると滑ってゆく感じで、なかなかとっかかりを見つけることができなかった。もちろん鋭く戦闘的な人なんだろうなとは思っていた。他の作家たちによっていろいろと面白いエピソードを知ってもいた。しかしあの独特のですます調もあって、何かこう、痛切に身に沁みてくるというような感じが無かった。
最近たまたまシモンズ『象徴主義の文学運動』に続きこの本(講談社、1969)を手にして、私は初めて中村の言葉にガツーンとぶつかった気がした。元は『季刊藝術』の連載で(あとがきに古山高麗雄への謝辞がある)、一回30枚ほど。時評というか、その時々に見聞きしたものをマクラに自身の批評眼をさらりと開陳するという感じで、わりあい読みやすい。全編を貫く主題は明治維新以降の近代化と、そこにおいて作家たちが果たしていたある役割、そして現代まで引き続く日本近代文学の抱えた問題である。

たとえば冒頭の「戯作と私小説」でいえば。夏目漱石虞美人草』への正宗白鳥による批判(漱石の小説が「知識階級の通俗読者」に受けるのは、曲亭馬琴八犬伝のように古臭い「通常道徳が作品の基調になつてゐるのに基づくのではあるまいか」という批判)に対し、

ここで(正宗)氏が断罪の手段としてゐる馬琴との類似は、作家漱石にとつてそれほど致命的なものでせうか。馬琴に聯想させること、(江戸時代の)戯作者に似てゐることは、そのまま近代作家の資格喪失を意味するとおそらく正宗氏は信じてゐます。しかし、正宗氏自身が、その馬琴を少年時代に愛読し、彼によって文学に開眼してゐることは、氏自身がくりかへして書いてゐます。氏が青年期に、自然主義の影響をうけ、少年期に蒙つた文学的感化を否定するやうになつたのは事実であるにしても、この時代思想が、近代人の自覚といふやうな本質的なもので、一度その洗礼をうけたら、絶対にあともどりできないとは思はれないのです。(……)すべての文学者は、何らかの新しさをもつて世に出る以上、既成のものを何かの形で否定することから出発するわけですが、その際必ずその否定した相手から影響をうけます。その影響は、相手に似るまいとする努力からくるこはばりの形をとることもあります。明治文学と戯作の関係は、それにいたると思はれます。

明治日本に出発した作家の起点には戯作(江戸文学的なもの)の伝統があったにもかかわらず、作家たちはそれを切り捨てすぎた、という。この批判は自然主義批判へと通じてゆく。

文学の近代化に関する不可欠の要素であつたいはゆる口語体の文章が、ただ在来の文章の因習を破壊しただけで、それ自身が文章として自覚を把んでゐないといふ事実とも関連します。大体が口語文などといふのがをかしな言葉で、喋る言葉が書く言葉と厳密に同じだといふやうな国も、時代もあるわけがないのです。おそらく現代の青年によい文章とは何かときけば、事物や思想を「ありのままに」写した文章といふでっせう。まるで僕らの周囲の事物や事件、あるひは頭のなかで考へたり感じたりすることを、そのまま言葉にあらはすことが可能であるやうに。私小説の持つ、ある独特の真面目さ、作者と主人公が直結することからくる、彼らの自分自身へのアイロニーの欠如は、芸術を何か厳粛な人をたのしませてはならぬものと考へる風潮と相まつて、我国の近代小説に大きな害をあたへてきましたが、それは西洋の近代芸術の性格にたいする誤解にもとづく反面、戯作の名の下に批判された江戸小説に似るまいとする、いはゞマイナスの形の影響ではないか、それがはつきりでるのは、自然主義以後だが、すでにその兆候は、逍遙の否定の仕方にでてゐる、といふのがこの問題にかんする僕の結論です。

中村は日本の自然主義文学を強烈に批判したが、その要点は、作家が事実(小説の外部)を重視して小説の肝要である言葉自体の虚構性、物質性を疎かにしてきたからだという。

僕らが忙しいなかで、小説をよむのは、そこに日常の理を越えて、実生活ではみたす術を持たぬ或る感情を満足させるため、少なくもそれを期待してですが、困つたことに僕らはその「理」を越えるためには、日常生活を踏み台にしなければならないのです。主人公(英雄)の行為によつて、僕らの感情のカタルシスを行ふには、それが現実の世界の、少なくもそこで有り得る出来事と信じる必要があります。小説は、したがつて、散文の事実報道性を利用して、読者にそこに書かれたことを事実と信じさせながら、読者を彼ら自身の生活から誘ひだし、彼を架空の世界に遊ばせるといふ、二重の、矛盾した機能をはたします。(……)現実はこれを言葉で精細に表はさうとすればするほど、筆者の創作になつて行くといふ性格を帯びてくるので、現実の生き生きした再現とみられる文章は必ず仮構なのです。この意味から云へば、すべての小説は、仮構であり、私小説も例外ではないのです。私小説の名人がいづれも巧みな嘘つきであるのは、夙に宇野浩二が指摘してゐます。(「仮構と告白」)

「『よそ』と『うち』」でも重要なことを語っている。マイカーブームを眺めて。

車のなかで、家にゐると同様にのびのびと(不行儀に)ふるまつてゐる子供たちを見ると、「よそゆき」などといふ言葉は死語になつたと思はれます。家を一歩でれば、往来も電車の中もすべて「よそ」であつた我々にくらべて、どこにでも「うち」にゐるままで行ける彼らは、大人になつても、きつと違つた感覚を身につけるでせう。彼らには遊びに行く先は、海岸でも、旅館でもすべて「うち」の延長なのだとすると、「よそ」あるひは「公」はどこから始るのでせうか。

この日常にまつわるちょっとした観察は次のように大きく広げられる。

自由、民主主義、男女同権、平和主義など、戦後の社会の基礎とされてきた諸観念が、はたして、僕らの内面からの「欲求」であつたか、僕らはそのために闘つてきたかを自から問はざるを得ないのです。むろん、僕はそれが借りものであるから否定さるべきだなどといふつもりはありません。そんなことを云へば、僕らの生活様式自体が隅から隅まで借りものです。自由は不自由よりよいし、民主主義の社会は専制下より住み心地がよいし、平和が戦争よりましなのは、今更いふまでもありません。しかし、問題はこれらの生活の柱となる観念が、内的な「欲求」の産物ではなく、外から与へられたものであることが、僕らの精神に及ぼす或る微妙な影響です。(……)内的なものが外部を動かす手がかりを持たず、精神に許されるのは、自分の論理を無視して、外部に適応することだけになれば、その疎外感は深まらざるを得ません。現代人の間では、外界にたいする適応とともに反抗も一般的です。しかしその両者が、ただ方向が逆なだけで同じ浅さで行はれるため、内界と外界との間の隔壁を破ることはできないのです。それができるのは、おそらく文学だけです。かういふと唐突のやうですが、言葉は元来人間の内部と外界をつなぐものであり、文学はこの新たな機能の確認です。文学史に名をとどめる作品が、それぞれの時代の精神を窒息から救ひ、その姿を新しい形に彫りあげたものであることは云ふまでもありません。それは外界に我々の内面の存在を与へることであり、意識されない何かを呼びさますことなのです。

この辺の感覚は、シモンズと通じるものがあって、さすがフロベールの訳者というところ。しかしそうすると言外に次のようなことも思い浮かぶ。すなわちこの伝でいくと、「ですます調」というのはふつう「よそゆき」の言葉だが、中村がですます調で通したのは、以上に述べてきたようなことの実践ではないか。

この本で中村が一貫して問題にしているのは、人の内部と外部の結節点としての言葉である。なぜ言葉とりわけ文学が重要なのか。それは人が言葉を通して内部と外部の疎外状況から回復されるからだ。明治維新と第二次大戦敗戦の直後、日本では過去を振り返ることがタブーという風潮になった。しかし外圧に屈服ないし便乗して過去(伝統)を完全に捨て去ろうとする時、何かが疎外される。そしてそれはのちのちまで祟る。この状況を回復するために、内部と外部を結ぶものとしての言葉の開発が要請される。明治におけるこの格闘の先駆者として参照されるのが、坪内逍遙であり、二葉亭四迷であり、北村透谷であり……おおむね悲劇(失敗)として演じられたその試みの可能性が未だ終わらざるものとして、敗戦後の現在(1960年代)に召喚される。

と、こんなふうに、近代日本文学史における問題、当時の論争の整理、その現在的意義などがよどみなくほとんど明晰に展開されてゆく。連載終盤は奇しくも1968年で、「明治百年」が言われた年だった。その最中に、たとえば二葉亭四迷を論じた翻訳論「文学における外国」や、ハワイに滞在しながらアメリカと日本の結節点を論じた「非文学的風土」などは、この本全体を生き生きしたものにしている。

たぶん今回私が「とっかかり」を見つけられたのは、そうした問題意識がこの十年ほどでなじみになっていたからだと思う。二時間くらいで通読してしまったが、初めて中村光夫のエモーションを感じた。

来年は2018年、この本の内容からだいたい50年後にあたる。こうした問題意識は文芸批評的にいってもしかすると言い古されたものと感じられるかもしれないが、しかしまさにそうした忘却こそがここで問われている以上(中村光夫の本が現在どれだけ読まれているだろうか)、私は、立ち返るべき参照点、終わらざる初心を感ずる。