立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

俺はANATAだ

 文学フリマで買った『幻影復興』という清涼院流水特集をした同人誌のオマケ冊子を読んでいたら、とても懐かしい気持ちになった。

 東京流通センター――通称TRCの第2展示場、エスカレーターで2階に来たあなたは、チラシ置き場の脇を通り、数多くテーブルが並んだホール内を進んでいく。(……)コピー用紙に印刷されたものをホチキスで綴じただけの冊子で、全8ページのようだ。ページの下に目をやると、「ご自由にお取り下さい」とあるから、来場者に無料で配っているのだろう。その表紙には大きめのゴシック体でこう書かれていた。

文学フリマ東京来場者限定小冊子

「幻影絡繰-Mephistrick-」

  ああ、この感じ。まさに流水節。
 高校生のころ夢中になった(たぶん一万枚分は読んだ)、この文章の特質とはなんだろう。
 それはもちろん、「あなた」という読者への呼びかけだ。
 初めて読んだ時は新鮮だったけど、年を経るとだいぶんそのカラクリがわかってしまった気がする。

「あなた」という呼びかけは、自己啓発や宗教の分野でも多用されるテクニックである。「あなたが自身の人生の主人公なんですよ」とか、「神はあなたを見ていますよ」だとか。「あなた」という語の意味自体は普遍的であるが、その語が使用される文脈において発揮する効果は、この世界にただひとりの「聞き手」という一点を目がけた、何らかの意味での覚醒を促す矢印なのだ。人は、聞き手の立場で「あなた」というただ一人を意味する呼びかけを聞き取る時、何やら特別な感情を抱いてしまうらしい。この瞬間、聞き手のうちにいったい、何が起こっているのだろうか。

 しばらく前に加藤典洋『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫、2017)という本を読んでいたら、印象的なエピソードがあった。
 ポーの『アッシャー家の崩壊』の終盤、死んだと思われていた妹がやってくるシーンはなぜ怖いのだろうか。語り手がコワイ話を親友(兄)に向かって朗読するうち、周囲の様子がだんだんシンクロしてくる。兄は自分のおそれを話す。妹は、実は死んでいないのにわれわれは埋葬してしまっていたかもしれない。そして、妹についての話をしていたまさにその瞬間、当の妹自身が語り手と聞き手を襲撃する。
 この時、起こっていることはこうだ。死んだはずの妹についての話をしている時、それがいくら作中で実在のかつ地続きの人物であろうと、話の中の次元と、それについて話している語り手/聞き手の次元は切れている。

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 話の中の妹=オブジェクトレベル
 語り手/聞き手=メタレベル
 つまり、コワイ話=物語=オブジェクトレベルにとどまっていたはずのことが、それを食い破り、メタレベルの語り手/聞き手の次元にまで侵入してきてしまう、そのことがコワイ。

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 私はこの説を読んだとき、いろいろなことが腑に落ちた。
 オブジェクトとかメタとかいうのは、ジェラール・ジュネット(『物語のディスクール』)的にいって、物語世界内存在とか物語世界外存在と呼んでもいい。
 すなわち、エンターテインメントとしての物語は畢竟、聞き手を楽しませるためにある。しかし聞き手とはふつう、メタレベルの存在、すなわち物語世界外存在で、ストーリーにとっては傍観者にすぎないといってもいい。この存在を、いかに「物語世界内」に没入させるか、その錯覚を抱かせるかが、エンターテインメントのナラティヴの究極の要件だ。
 先に挙げた自己啓発や宗教勧誘のテクニックもここにかかっている。すなわち、傍観者=外の存在をいかに内に引き込み、カモるかということ。そのキーワードが、呼びかけとしての「あなた」なのだ。
 以前、勤め先にアヤシゲな宗教団体からの教義書が届いたことがある。造りの立派な本(パステル色のぶあつい文庫版ハードカバー全三巻のボックスセット)で、私はデザイン的興味から中を覗いてみた。すると冒頭第一行が確か、〈あなたがこの本を開くことは、すでにわかっていました〉などと書いてあったので、思わず吹き出してしまった。
 お前はイタロ・カルヴィーノか。
 しかしよく考えると、ここには笑って見過ごすことのできないテクニックがある。いわゆる二人称小説のエポックとなった、ミシェル・ビュトールの『心変わり』や倉橋由美子の『暗い旅』は、確かに「あなた」という呼びかけを全編で使用しているのだが、それはあくまでも作中人物に対しての呼びかけであり、どう考えても読者自身が「これは私のことかな」と思うということはない。それはあくまでも、物語世界が、外に対して閉じているからだ。
 ところが、自己啓発や宗教の言説においては、語り手に対する聞き手は直接の読者で、つまり「あなた」という呼びかけに応じるならば、その物語の当事者、物語世界内存在になってしまう。
 ここにフィクションとノンフィクションの違いがある。しかし、いわゆるフィクションにおいてもこうした技法は、開発されてきた。

『アッシャー家の崩壊』の「怖さ」が、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯に由来するならば、これはたとえばフレドリック・ブラウン「うしろを見るな」や日本のホラー映画『リング』などが印象に残る原理と同じものだといえるだろう。
 そしてそれはホラーにとどまらない。吉本ばななの某作(タイトル失念。割と初期の作品で、語り手が最後に急に「◯◯してあげたい、あなたにも」と読者に呼びかける小説がありませんでしたっけ)やゲーム『Ever17』のラストにおける印象的なテクニックにも通じる。ものすごく日常的な喩えをとれば、誰かの悪口で盛り上がっていたら、当の本人がその場へ偶然やってきたのでギョッとした……だとか。
 これらに共通するのは、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵犯である。

 私は以前から、心霊スポット巡りと文学散歩(いわゆる「聖地巡礼」も含む)には、何か共通する原理があるのではないかと思っていた。どちらも、場所自体には何も変わりはなくとも、訪問者が事前にエピソードを聞いているかどうかで、訪れる印象は異なる。すると事前の話=物語であり、そこへの訪問は、先の図式とは逆に、聞き手が疑似的に物語世界内存在へと没入すること(メタ→オブジェクト)、であるとは考えられないか。いずれにせよ、問題は、物語世界の内と外の階層移動だ(たとえそれが錯覚にすぎないとしても)。

 ジュネット的にいえば、一人称/二人称/三人称という区分は間違っている。より本質的なのは、語り手が物語世界内(オブジェクトレベル)にいるか、世界外(メタレベル)にいるかどうかだ。その場合、「あなた」という呼びかけが占める位置は、語り手と聞き手の関係によって異なることになる。
 レイモンド・チャンドラー『湖中の女』の映画化は、ほぼ全編が主観ショットによって撮られるが、この作品が観客に異様な印象を与えるのは、登場人物のカメラ目線が終始映っているからだ。このカメラ目線を「あなた」という呼びかけと捉えれば、映画『湖中の女』の手法は、実は「二人称」的な効果を観客に与えるのではないか。

www.youtube.com

 上記トレーラーを観ていただきたい。カメラへの目線を観客が受けとる時、その異様な効果にギョッとすると思う。しかし映画全編は、このトレーラーほど魅力的ではなく、100分も眺めると次第に飽きてしまう。そしてやはりこの主観ショットがもたらす最大の効果は、トレーラー中のキャッチコピーでいうところの、

Mysterious STARRING ROBERT MONTGOMERY and you!

 主演はあなた! という呼びかけではないか。

 観客=登場人物という侵犯は現在、TVないしPCのアドベンチャーゲームにおいては既におなじみのものだ。だから、侵犯それ自体に効果をもたせようとすれば、別のレベルでの使用が必要になる(映画『湖中の女』のような出ずっぱりの使い方では、冒頭が最も盛り上がる、「出落ち」になってしまう。ここぞという時に使わないといけない……そしてそれはたいていの作品においては、物語終盤だ)。
 叙述トリックというのもこの文脈で考えることができる。「叙述トリック」は一人称でも三人称でも用いることができる。しかし結局のところそれは、この物語の語り方(テクニック)は読者の「あなた」を騙すための……つまりふつうの物語ならば傍観者にすぎない「あなた」を騙すために工夫されて語られていたのだ。これが判明する時、侵犯が起こり、読者はまるで『アッシャー家の崩壊』における兄のような衝撃を受ける。

叙述トリック」という名称は巷間、誤解されている。つまりメタトリック(現実だと思ったら実は作中作でした!というやつ)とか夢オチとか信頼できない語り手と同一視される傾向にあるが、厳密にはその原理は異なるものだ。しかし小説の実作においてそれらは複雑に絡み合ったものなので、叙述トリックだけを取り出すのもなんだか難しいな、と私はこれまで思っていた。要するにこれら(1970年代以降に急速な技術的発達を経てきた)はすべて、オブジェクトレベルからメタレベルへの侵入という点が共通するのであって、叙述トリックというのはその下位ジャンルの一部にすぎない(つまり、下位ジャンルの一部に狭義の叙述トリックがあり、かつ、ナラティヴを利用したどんでん返しのテクニックを現すそうしたグループ全体を総称するようにしてなんとなく「叙述トリック」という語がふんわりと流通している)。

 こう考えてくれば、叙述トリックの飽和化という問題は、単に狭いジャンル上のテクニックに限らない。問題は、聞き手である「あなた」への侵犯を、いつどこでどのように起こすか、という普遍的な問題へと開かれうる。時に暴力的な力を発揮するそれを人類は、手を変え品を変えずいぶん長いこと使用してきた。すなわち、宗教的勧誘から「叙述トリック」へと(呼びかけとメタフィクションとの関係についてはたとえば佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』慶應義塾大学出版会、2014などが詳しい)。

 中学生の頃毎週見ていたNHK番組「爆笑オンエアバトル」では毎回最後に司会が、
「新しい笑いを作るのは、挑戦者の皆さんと客席の皆さん、そして、テレビの前の、あ・な・た・た・ちです!」
 と呼びかけるのが印象的で、われわれはしょっちゅうモノマネをしていた(歴代アナウンサーごとに少しずつ特徴が異なるから)。だからそれをパクって自分のハンドルネームにした時、「誰かから連絡を受けるたびに〈アナタさんは……〉と呼びかけられたら、奇妙な気分になるだろうなー」と思ってo(´∀`)oワクワクしていたのだが、すっかり慣れてしまった。たまに「神ナントカ」という名前の人がいて(たとえば神慶太)、そういう人はメールを受ける時なんかは〈神様は……〉と呼びかけられるんだろうけど、いわれるほうはそのうち慣れてくるとおもう。

 そういえばこの前、国会図書館に行く機会があり、せっかくだから自分が寄贈したブツ(『立ち読み会会報誌』第一号)を借りてみようかと思って申請して届いたものをパラパラ開いていたら、インタビュー後の本編冒頭が

国会図書館で資料が届くのを待つ間にTwitterを覗いていたら、

 で始まるのをすっかり忘れていて、あまりのシンクロぶりに「ウワッ!」という気もちになってしまった。こんなことで驚くのはたぶん、世界で私一人だけだろう。自分で自分に仕掛けたワナというか、なんというか、……。


 バカですねー。

 

 

俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰

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