立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

一年の計

この前の正月にボルヘスの本をいくつか読んでいたら、様々な想念が去来した。以下はその雑多な念を覚え書きとして書き付けるものである。

 幼い子供に「こんな勉強、して何の意味があるの? 大人になっても使わないでしょ?」と聞かれたらどう答えるか。今の私の実感としては、「それは筋トレだから、やっといた方が良いのだ」という答えが最も腑に落ちる(そう返された子供の方がどう思うのかはわからない)。
 目の前の現実というのは可能的な世界の一面にすぎないのであって、その一面の処理のみに最適化した生存モデルをとると、不測の事態が起こった時(現実の別の一面の顕在化)に対応できない。だから備えとしては、最低限対応できるくらいの広さの筋肉を開発しておいた方が良いとおもう。

 しかしこうした感覚というのは、幼い頃はなかなか腑に落ちない。それはおそらく、幼い頃には、作業量の全体を把握するという経験に乏しいからだと思う。長じれば誰でも、大なり小なり作業に追われている。まず締め切りが設定される。そこから作業量の全体推測があり、作業日程の逆算が始まり、必要なペース配分が割り出される。こうした全体把握(上位階層/マネジメント)ののち、実務(下位階層)にとりかかり、以下、変更の必要に応じて階層移動がくりかえされ、作業は達成される。この時、「目的」は上位階層であり、「手段」は下位階層である。効率的な目的達成のためには、手段は交換可能である。また目的/手段という関係自体も、階層の位置関係によって決定される相対的なものであって、より上位の「目的」にとって、下位の「目的」は「手段」にほかならないから、下位の「目的」もまた必要に応じて交換可能になる。
 誰もが日々、こうした階層移動を意識的無意識的に行うことで何らかの作業を達成しているのだが、上位から下位を眺めた際の全体把握ということはそれを何度か経験しないとなかなかわからない。子供には目の前の現実現在が全てであって、上位も下位もない。なんとなく快いことを続けていたら、いつの間にか作業が終わっていた……そんな砂山のトンネル掘りの贅沢だけでは、資本主義社会においては全員が生きてはゆけないのである。

 大人になったからといっていつでも必要な全体把握(上位移動)が行えるとはかぎらない。大人は時にある一面のみを全体だととりちがえ、それが変更できないことに苦しんでしまう。一般人向けの禅のトレーニングではまず、目の前の現実現在に意識を集中せよ、という。そのことによって雑念・妄執という、「今、ここ」には存在しない、頭の中だけの「ニセの現実」を断ちきるのだ。

 現実現在への集中ということは、そもそも子供の時に誰もががやっていたことだ。なぜそれができなくなるのだろう。それは作業に追われ、仮の全体把握をくりかえすうちに、そうした下位の全体の総量を世界=全体そのものと取り違えてしまう、つまり、ニセの現実にとりつかれてしまうからではないか。

「一年の計は元旦にあり」などという。この時、年頭に立つ人は、年中の自分に対し上位階層、マネジメント的視点に立っている。
  年頭の自分=上位階層
  年中の自分=下位階層
「さー今年は年中の自分(下位階層の自分)を思うさま使役してあんなことやこんなことをやるゾ」などという期待にワクワクと胸をふくらませるが、年中になるとそうした期待はしぼみがちである。それはおそらく、(自分は今、下位階層にいて、ツマラナイことをしている=させられている)と感じるからではないか(もちろん、やってみないとわからない様々な予期しない障害もまた次々とやってくる。それで結局脱線してしまい年末にマネジメント的視点に立った時には「今年の自分は……」などと「後悔」してしまう)。こうした「期待」を持続させるには、「目的」の側から眺めることでそれ自体には意味のうすい「手段」のもつ意味を充填させること、すなわち階層移動が必要になるのではないかとおもう。

 人はなぜフィクションを体験するのだろう。それは体験する時間を現実現在のものとして、つまり目の前の作品内部において起こっていることに意識を集中させて、その体験を楽しむこと自体を第一の目的として楽しみたいからだ。ここには作品の内/外という階層移動があるのだが、体験を二義的なものとして、すなわちこなすべきタスクという手段(下位)として扱うとき、人はその体験から引き出せる楽しみを減じさせてしまう。締め切りがあり、ある小説の書評を書かなければならない。この時、書評執筆は目的(上位)であり、読書は手段(下位)である。さらに、執筆はより上位階層にある「収入」に対する下位手段なのかもしれない。フィクション体験が目的ではなくこうした手段として扱われる時、結局のところそれは下位のもの、交換可能なものでしかないのだから、何らかの「雑念」が入りこんできてもそうおかしくはない。(こうした経験をくぐり抜けた人は「好きなことを仕事にしてはいけない」「初恋の人とは幸せになれない」「他者を手段ではなく目的として扱え」「◯◯ちゃんとは仕事を抜きにしてプライベートで仲良くなりたい」などと口にする)

 いわゆる学習法の本なんかに時々、ドストエフスキーシベリア体験が出てくる。人間にとってもっとも辛いことは無意味な作業をこなすことだ、ゆえに自分で掘った穴を自分で埋める、という労働はもっともつらく、シベリアアウシュヴィッツの収容所ではこうした刑罰が行われた、しかしドストエフスキーはここから出ていつかこのことを書くという目的(上位)のためにこうした作業をこなす自分を下位にあえて引き下げることで過酷な刑罰をのりこえることができた、だから目標をもつことは大切なのだ、……云々。
 穴掘り&穴埋めが楽しくて仕方ないという子供(作業=目的)なら、こうした作業も苦ではない。逆に作業が苦であるなら、何らかの目的の位置から手段に意味が充填されなければツラくて仕方がない。
 すると目の前の苦を乗り越えるには二つのルートがあることになる。一つはそれそのものを目的=楽しみとすること。もう一つはそれを目的のための手段とすること。ただし、この二つの乗り越え方はその苦が避けられ得ない場合に限るのであって、避けられる苦を避けられない苦(現実)と捉えた時、人は逆に「ニセの現実」に捉えられている。

 目的/手段という階層化は、目の前の現実を何らかのかたちで乗り越えるそれ自体仮の手段であって、こうした階層移動(世界内にいながらにして世界外に視点を仮に位置づけ世界全体の総量を測量し、目的と手段を結びつけてゆく技術)を必要とする感覚は、実際にその技術をこなしてみないとわからないということがある。願い(目的)のイメージの仕方にも上手下手があり、それはそうした経験をくぐり抜ける……過去の自分に対して上から目線で批評的距離をとることで、つまり自分を上位と下位に分離する経験によって実感される。で、わかると、現在という将来(上位)の時点から過去(下位)をふりかえって、「もっと時間がある時にあのへんのことを勉強(筋トレ)しておけばよかった……しかし今ではもう、そんな時間は自分には残されていない(だから、同じ轍を踏ませないよう、若いモンには勉強=筋トレせよ、と説教するゾ~)」などと後悔するのだが、しかしこの後悔自体もまたニセの現実である可能性がある。現在もまた過去になれば下位化するからだ。過去の自分は本当に単にボケッとしていたのだろうか。あるいは、現在の自分は本当に余裕などないのだろうか。……そういう疑いは拭いきれない。しかしこれは雑念だろうか。

 ……月初めに考えたことを月末にメモっている時点でいろいろ思うところあるのですが、まあメモらないよりはマシだろうと思い書いてみました。長くなってしまったので、ボルヘスについてはまたいずれ。(ちなみにこれは去年買おうと思っていたポメラ用にflashairを先週買ったので、ポメラで書いて→evernoteに保存→evernoteからはてなアプリで投稿してみたものです。)