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襤褸は着ててもロックンロール

『子規全集』(講談社)

(承前)

ハサミ男』の巻末の参考文献はけっこういいかげん、というか、あるいは、おそらくわざと曖昧に書かれている。実際に元にあたろうと思ったら、いくつかハードルがあることは否めない。
 たとえば、

『子規全集』(講談社

 1975年から78年にかけて講談社から刊行された正岡子規の全集は本巻22巻+別巻3巻の計25冊で構成されているため、何巻の何を参考にしたのか? ということがわからない。それは

 

『ハイネ散文作品選集』(松籟社

 や、

『世界文学大事典』(集英社

 なども同様で、実はどちらも全六巻本である。

 さらに厄介なのは、

結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

 で、この小説の講談社文庫版には2バージョンある。すなわち、1974年の文庫版初版と、1991年の改訂新版で、後者では作中の風俗が微妙に改変されているのだが、これだといったいどちらのバージョンなのかが不明になってしまう(どちらかでもいいということか)。
 初版止まりで一つのバージョンしかない本ならともかく、ロングセラーの古典がリストに連なると確かに、どの版でいつ刊行されたものか、それをどう統一的に表記するか、微妙な煩雑さが伴う。しかしともかく、例の「参考文献」にはかなり空白があるといっていい。

 藤野古白(1871-1895)は正岡子規(1867-1902)の従弟(叔母の息子)で、作中では終盤の対決シーン、医師の台詞によって言及される。

「きみね、腹なんか撃ち抜いたって、痛いだけで即死なんかしないよ。映画なんかで、よく銃口をこめかみにあてて自殺するシーンがあるけど、あれもうまく死ねるとはかぎらないらしい。知ってるか?正岡子規の従弟の藤野古白は拳銃自殺したんだが、前頭部に一発、後頭部に一発撃ち込んだあと、四、五日ほど生きていたらしい。明治時代の医療技術でこれだから、現代なら生還できたかもしれないね」

 文学志向のあった古白は生前、俳句のほか小説や戯曲もものした。その死亡時、子規は従軍記者として広島から大陸に旅立つところだった。訃報を聞いた28歳の子規は衝撃を受ける。
 子規の晩年の日記『仰臥漫録』は元々、二冊のスクラップブックに書かれた記述や絵をまとめたもので、その第一冊の最終部に有名な一節がある。脊椎カリエスをわずらい寝たきり(仰臥)状態の子規は、妹と母から介護を受けていた。状態はひどかった。身体に穴が開いていて、毎朝行なわなければならない包帯の取り替え(主に妹が担当した)は文字通り神経に障り、近隣に叫び声が響き渡るほどだった。二人がたまたま外出していたある日(1901年10月13日)、かたわらに刃物を発見して(これがあれば死ねる)と思う。

この家には余一人となったのである 余は左向に寐たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらわれて居る さなくとも時々起ろうとする自殺熱はむらむらと起って来た 実は電信文を書くときにはやちらとしていたのだ

以下、煩悶が二頁分ほど続き、

心の中は取ろうと取るまいとの二つが戦って居る 考えて居る内にしゃくりあげて泣き出した その内母は帰って来られた

 結局未遂に終わって助かるのだが、そのことをふりかえって仰臥したまま自分一人の秘密の日記にねちねちと書き連ねる子規の筆(確か誰か「しりとりのような思考」と評していた)には異様な迫力がある。この場面には小刀と錐の自筆絵も添えられている。

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 この「古白曰来」の「古白」が、先述の従弟。しかしこの日記には彼についての記述は他に一カ所もない。だから読者は、別の本を読まなければ古白とは誰なのかわからない。実際は子規にとってフシギな距離感の人物であったらしい。古白の死去から二年後、子規が編集した『古白遺稿』を読むとそう思う。同書を収録した講談社版全集第20巻に付された参考資料中、河東碧梧桐の書簡が最期の日の様子を伝えている。

明治28(1895)年4月14日子規宛碧梧桐書簡
長々の御無音御海容被下度候 扨て此度古白子の珍事につきてハ嘸かし御吃驚の事と奉推察候(……)
(4月7日)音きこえけり 此度は小供も共に朝飯をくひ居られければ何やらんとていそぎ古白子の部屋に入りて見玉ひしに古白子ハ左手にピストルをもち寝衣臥褥皆汗血にまみれ殆んど死状を呈し居たり 皆々事の意外に驚き直ちに警察へ届け(……)是より先町医堀沢とかいふ人来り一応疵口(眉間に一つ、後頭ぢぢんこあたりに一つ)に姑息の手あてしたりしが入院後(入院の手続など凡て内藤先生の尽力による)当直医も亦た血どめ位の手あてにてやみぬ(……)
小生と高浜ハ最初より毎日夜伽に参り居候ひしが十日の夜より手足の運動漸く弱はり煩悶よりは安眠の時間長くなりたるの感あり 十一日の夜二時頃より寝て朝七時起きて見しに昨夜よりは又瓦羅離と変りたるの思ひあり 色漸く両眼瞼に下りし血液色黒く紫となりて瞳孔の動きようよう鈍く口も閉づる事能はざるに到れり 医師も亦其危篤を告ぐ 乃ち急に人を走せて諸人を呼び来りしが十二日の午後二時終に溘然として逝きぬ(……)

 碧梧桐から報せを受けた当時の心境を、子規は『古白遺稿』にこう記す。

余は明治廿八年三月三日(古白の死に先つ一ケ月)を以て東都を発し軍に従はんとす。前夜古白は余の寓に来り余のために行李を理す。挙動快活なり。翌日手を新橋に分ちて余は広島に赴く。広嶋に居ること一ケ月明日早旦を以て発せんといふ其前夜古白危篤の報あり。意外の凶報に驚きたりといへども、孤剣飄然去つて山海関の激戦を見んとする余の意気込は未だ余をして泣かしむるに至らざりき。金州の舎営に在りて訃に接したる時も、只仕方無しと思ひたるのみ。戦は平和に帰し余は病を獲て還る。神戸病院に養ふこと二ケ月、はかなき命を辛く取りとめて身は衰弱の極度に在る時、碧梧桐は余のために古白病中の状況を詳に話しぬ。其後は傍に人無き折々古白の事を想ひ出だしては我身にくらべて泣きたる事あり。骨と皮とをのみ余したる我身の猶涙の源尽きざるを怪みぬ。病やや癒えて郷里に帰り始めて古白の墓に謁でしは同じ年の秋の初なり。惘然として佇むこと少時、
  我死なで汝生きもせで秋の風
後東都に帰りて複褥に臥す。さめざめと雨ふる夜の淋しさに或は古白を思ふことあり。古白の上はわが上とのみ覚えて、古白は何処に我を待つらんといと心細し。(……)彼は自ら文学者を以て任じ余等には劣らじと誇りながら、生存競争に於て余に負けたるは古白の長く恨を抱く所ならん。されども余も永く勝を制する者ならじ。

 古白本名藤野潔(きよむ)という人は気難しかったようで、同文中で子規は、幼い頃から孤独癖が強かった、とか、勤め人に向いてなかった、とか、アイツの俳句も最初は良かったけど後でダメになった、とか、大文学者になるとか言ってたのに一作書いて反応がなかったくらいで弱気になっちゃった、とか、オレが活躍するのを妬んで生きるのがイヤになっちゃったんじゃないかなまあオレも先は長くないけど、などと、わりあい冷徹に書いている。手加減のなさも含めて愛情なのだなあと思わされる。同書巻末に収めた哀悼詩「古白の墓に詣づ」では、

何故汝は世を捨てし
 浮世は汝を捨てざるに
 我等は汝を捨てざるに
汝は我を捨てにけり(……)

 古白の厭世の理由についてはいくつか説があるようだが、その従弟(古白の父の兄の息子)の服部嘉香という人は、「〔古白の自殺の原因〕」(同20巻)で、恋愛問題が大きかったとしている。

早稲田文学」に発表した苦心の戯曲「人柱築島由来」が思いの外に反響がなく、ひどく失望しました上に、実は恋愛問題が非常に大きかったのですね。その失恋問題があまり表われておりませんのです。しかも、失恋の相手が叔母なんですね。叔母ですから結婚はできない、それに煩悶があったのです。古白の母の十重は古白七歳の時に死亡しましたが、妹の五つになる琴というのもおりますので、父の漸は京都の士族栗生家から後妻に十四歳も若いいそを迎えましたが、その妹のすみというのが古白の恋人なのです。(……)複雑な家庭の事情があったかと、暗にまま母であるということのせいではないかと、そういうほのめかし方、論じ方をする向もあるのでありますが、これは絶対にそういう気配は私たちの見る範囲においてはありませんでした。

 ……きりがないので、このへんでやめておく。

 あらためて上の場面を読み返してみる。古白が来いといっている。この「古白曰来」という四字は以来、『仰臥漫録』の読者にとって印象的な有名なフレーズとなる。

 子規の死去はそれから一年半後、1902年9月19日。「古白曰来」からさらにいたる心境は、亡くなる二日前まで連載していた随筆『病牀六尺』に特に詳しい。