立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

結城昌治『公園には誰もいない』(講談社文庫)

(承前)

 結城昌治『公園には誰もいない』は、私立探偵・真木三部作の二作目。和製ハードボイルドの傑作として名高いこのシリーズの最高傑作に挙げる声もある(個人的には一作目『暗い落日』の方が好み)。
 前作『暗い落日』が、ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』のメイントリックへの不満から書かれたという作者の自註は有名だ(例・結城昌治作品集第2巻の「ノート」等)。チャンドラーとロスマクの強い影響下から出発したとされるこのシリーズは確かに、現在の眼からすれば、「翻訳ものの移植」としてはほとんど教科書的と映るまでによく出来ている。そのあまりにもシンプルな構成には、無駄を省いた文体とも相まって、あるいはある種の物足りなさすら覚えるかもしれない。ロスマクの『ウィチャリー家の女』『さむけ』が文庫版で四一〇頁程度なの比べ真木シリーズは三作とも二〇〇頁代後半に留まる。つまりその分、チャンドラーやロスマク特有のあの迷宮感覚――一つの依頼から事件を辿るうち謎も登場人物も次第に増加していき、読者は探偵がいったい何を追っているのかよくわからなくなってしまう感覚――は削ぎ落とされ、物語の構図はわりあいくっきりと印象に残る。

ハサミ男』巻末文献リストの最後尾にはこの『公園には誰もいない』が挙げられていて、しかし私は二度読んでもどこがどう参照されているのか、全然わからなかった。少し前、『ハサミ男』の電子書籍版を買い、そこでいくつか検索するうちにようやく、(ハハアここだったのか)と突きあたった。それは例の第20節、とし恵との対話シーンで事件現場の公園を訪れる場面で、

犬を散歩させる老人も、ベビーカーを押す主婦も、サッカーに興じていた子供たちも、みんな遠くへ行ってしまった。いまはただ、冷たい風に吹かれて、茂みの枯葉が地面に舞っているだけだ。公園には誰もいない。

  これは結城作中に出てくる(かつ、タイトルの元にもなった)シャンソンの歌詞の一節、

拾った貝殻を捨てるように
あなたは行ってしまったけれど
楡の木蔭で
束の間の恋は信じやすくて
小径にたわむれていた蝶も
魚をすくっていた子供たちも
みんな遠くへ行ってしまった
でも
あたしはもう泣いていない
風に吹かれ
枯れ葉のように
公園には誰もいない

 をふまえたものだろう(この文庫版には初版と「改訂版」の二種類あるのだが、このくらいの引用なら、どちらの版でも大した違いはないはず)。しかし『公園には誰もいない』はハードボイルドであるから、(参照したのは本当にここだけなのだろうか?)という疑念はぬぐえない。

 結城昌治は視点にうるさく、真木シリーズは一人称一視点にこだわった。一方、『ハサミ男』はハードボイルド小説(一人称パート)と警察小説(三人称パート)のハイブリッドだ。先行作と比べて浮かぶそれぞれの「独自性」が、作品のボリュームにも関わっているとおもう。

 ロスマクもまたチャンドラーの影響のもと出発したが、その「独自性」の一端はフロイディズム(精神分析)の大胆な導入にある。『ハサミ男』はいかにも精神分析的な読みを誘発しそうだが、しかし肝心なところでどうも尻尾をつかませないような、スルッと逃げていく感触を私は持っている。だから、巻末参考文献がチャンドラー『湖中の女』に始まって結城昌治『公園には誰もいない』で終わるにもかかわらず、ロスマクへの言及がないのは、何か意図的に避けているようにさえ思える。以前にも紹介したように、作者の好みはチャンドラーよりもロスマクの方だったろうから。

 松井和翠さんという方が今、日本の推理小説批評の歴史をふりかえる連載をされていて、そのうちの一編として挙げられた殊能将之「本格ミステリvsファンタジー」(「ユリイカ」1999年12月号)に加えられた解説(ネタバレ有)で恐縮にも私の同人誌に言及された上で、

孔田多紀氏の『立ち読み会会報誌 第一号』の第一章「『ハサミ男』を読む」の中に《「ライオス王」とは、オイディプス王の父親のことなのだが、その意味がどうもよくわからない》とあるのが、わからない。

 と書かれ、ソポクレスの「コロノスのオイディプス」を参照しつつ独自の説を展開されている。私はそれを読んで、ガツーンと衝撃を受けた。いや100%首肯するかといえばそうではないのだが、何か閉塞感が打破されたような気がした。

 私はなぜ去年、「その意味がどうもよくわからない」と書いたのだろうか。言い訳をさせてもらえれば、それは書いている時に、自分の家庭にも娘が誕生しそうだということがわかり、結城昌治ロス・マクドナルド作品で「家庭の悲劇」を立て続けにディグしていくのがなんとなくシンドくなってしまったからなのでした(特に『ウィチャリー家の女』で妊婦が泥酔する〔と後で判明する〕シーンなどはメチャメチャ怖くて読むのがイヤになってしまった、……おかげさまで無事誕生しましたが)。

 昔は私もイヤ~な話はふつうに読んで全然平気でいたのですが、いざ自分の親族関係が広がってみると、イヤ~な話を読むのは結構ツライな、と実感するようになったのは、なかなか貴重な経験でした。

「コロノスのオイディプス」はソポクレスのいわゆるオイディプス三部作のうち、一番最後に書かれたものだ。すなわち、作中の時系列では

オイディプス王」(オイディプスが生まれてから失踪するまでの話)→「コロノスのオイディプス」(失踪したオイディプスが放浪ののち死ぬ際の話)→「アンティゴネ」(オイディプス死後の話)

だが、執筆の順番は、

アンティゴネ」→「オイディプス王」→「コロノスのオイディプス

である。執筆時期には36年の広がりがあり、現代のような厳密なシリーズものを意図して書かれたものでは必ずしもないというが、しかし続けて読むと、ソポクレスは「コロノスのオイディプス」を書かざるをえなかったのではないかという感触を抱く。「オイディプス王」と「アンティゴネ」の筋は過酷極まりなく、運命に対して人間が自由な選択肢をもちうるような余地はない(そこが魅力でもある)。一方、「コロノスのオイディプス」は、ひらたくいえば、オイディプスが死ぬ前に言いたいことをあーだこーだと周囲に思うさまぶちまける話で、対話の劇的緊張感というようなものは他の二作に比べうすく、スピンオフ的緩衝材という感じ。一種の「甘さ」であるが、しかしクール一辺倒ではやりきれない、死ぬ前くらい言いたいことを言わせてやれ、というのは、人情ではないでしょうか。

「コロノスのオイディプス」によれば、オイディプスの最期を見届けるのはアテナイ王となったテーセウスである。そう考えれば、一見つながりのなさそうな『ハサミ男』と『美濃牛』とのあいだにもつながりが見えてくる。

 奇妙な題名はギリシア神話ミノタウロス(「ミノス王の牛」)のもじりだが、では美濃牛とはいったいなんなのか。
 そこで『美濃・飛騨の伝説』という本をあたると、洞戸村に藤原高光が牛鬼を退治した伝説があることがわかった。高賀神社には高光公の銅像があるらしい。
 ははあ、美濃牛とはこれのことか。ということは、舞台は洞戸村なんだな。(「洞戸村の思い出」/「IN★POCKET」2003年4月号)

 つまり、病室のシーンで「ライオス」の名前が出たことから、ライオス→オイディプス→テーセウス→ミノタウロス……という密かなリレーが生じたのだろうか。

 私は去年、十年以上ぶりに映画『ハサミ男』を観て、その結末の原作との違いをすっかり忘れていることに気づいた。映画では病室から出ていった後、〈医師〉がもう二度と出てこないであろうことが示唆される。原作でもそうである可能性はある……ということを私は長いあいだ、完全に見落としていた。「きみ、名前はなんていうの?」というフィニッシング・ストロークは、読者の誰にも「再発」を感じさせるが、オマエは何者かという問いは『ハムレット』(死んだ父親の亡霊が「ハムレット、復讐せよ!」と主人公にけしかけますね)の有名な冒頭第一行でもあって、「本当の名前を捜しつづける」主人公の回復の契機の可能性でもありえないことはないのだから。

 たぶん私は本当は、そこまで言い切らなくてはならなかったのだろう。松井サンのおかげで思い当たることができた。

 

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