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襤褸は着ててもロックンロール

澤木喬『いざ言問はむ都鳥』

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  さいとうななめ改め織戸久貴サンが以前言及していたから評判だけは知っていて(いま検索したらその言及はもう四年前だった)、フト思いたって読んだら大変すばらしかった。
 著者は1961年生まれというから親本刊行時(1990年)は28~29歳だったのではないかと推察されるけれど、その年齢にしてこれほど完成された文体と構築力を持っていたというのがまずすごい。「文体」と書いたが、それは単に気の利いた短いアフォリズムめいたフレーズを並べることができるというような程度のものではない。放っておけば単調になりがちな散文の流れに硬軟とりまぜたリズムを生み出し、思索と世界観と知識とをツギハギが目立たないように溶け込ませて、テクスト全体を統御する。語りとは何よりもまず芸なのだ。そう思わされる。
 この「芸」がどのように成り立っているか。それを少し紹介してみよう。

 

   2

 この作品には四つの話があり、そこにおおよそ一年の四季の時間が含まれている。語り手は三十代半ばの男性植物学者・沢木敬だ。ふだんは大学に勤めているから、しぜん勤務先の同僚や上司、学生、隣人知人が登場し、その界隈が舞台となる。作中に「那珂川」が出てくるから、たぶん栃木とか茨城とか、そのあたりに大学のモデルがあるのだろうか。作中では植物学の該博な知識が全編にわたって重要な役割を果たし、あえて括ればこれは「ボタニカル・ミステリ」なのだといってよい(作者には植物関係の書籍を編集した経験もあるらしい)。
 巻頭の表題作「いざ言問はむ都鳥」の書き出しはこうだ。

 山は一つの別世界なのだ、などと思いながら帰ってきた。
 久しぶりに見る高山植物群落は、自分と同じ次元に属する存在とは思えないほど精緻な、この世の驚異の全てを凝縮した結果のように見えたのだ。

 

 七月下旬から八月上旬にかけての二週間を、ぼくは文字通り雲の上で過ごしてきた。大学院時代以来すっかりご無沙汰していた鳥海を訪れ、山頂に居座って高山植物群落の変化を眺め暮らしてきたのだ。学生の頃はこういう贅沢をずいぶん簡単にしていたような気がするが、すまじきものは宮仕えである。考えてみれば、こうして樹林限界を越えて高山帯にまで上がったのは、実に何年かぶりのことだった。夏休みとは名ばかりに諸事多忙な昨今、こういう時間が取れたのは、実のところ奇蹟に等しい幸福と呼んでいい。

  語り手の素性を知る暇もなく、いきなり「山は一つの別世界なのだ」という断定がスパッと下され、続けて、くだくだと雑感が記される。しかしよく見ると、そこでは語の微細な配置が施されている。私は先に、「文体におけるリズム」と書いたが、あえてズバリといえば、ここでの文体におけるリズムの秘密とは、「対比」のテクニックのことである。上の二段落を詳しく見てみよう。
 山―別世界
 同じ次元―精緻・驚異
 贅沢―簡単
 学生の頃―宮仕え
 夏休み―諸事多忙
 昨今―奇蹟・幸福
プラスとマイナスとで互いに値の異なる語が、リズミカルにポンポンポンと結び合わされ配置されてゆく。この演奏のような呼吸。ここに秘密がある。むろんそれは単に反対の言葉を並べていけばいいというようなものではない。饒舌にして抑制の効いた語りは「すまじきものは宮仕え」といった野暮ったくなりがちな慣用句をものともせず乗りこなす。加えて「高山植物群落」「樹林限界」といった専門用語を説明無しにシレッと紛れ込ませている点も見逃せない。専門用語とは、門外漢にとっては、いってみれば異言語の一種だ。自分の知らないしかし確固たる知識体系があるということ。それに触れることは知らず知らずのうちにエキゾティシズムを掻き立てる。さらに行動のレベルでいえば、ここですでに「驚き」が産出されるメカニズムも提示されている。語り手は、学生時代には未だこの「奇蹟に等しい幸福」を知らなかった(それがあまりにも当り前=日常だったから)。「宮仕え」の時点でも知らなかった。しかし、学生時代→宮仕え→今回の夏休み、という往還を経ることによって、「高山植物群落の変化」という同じ事象が、「奇蹟に等しい幸福」として眺め直されている。それを感得するセンサーを醸成するのは、山⇆宮仕え、の行き帰りというギャップの経験に他ならない。ミニマムな語のレベルに引き戻していえば、先の「高山植物群落」という専門用語は、「高山」「植物」「群落」という単語に区切るなら、それは植物生態学の門外漢(つまり私のような)にとっても見慣れた言葉だ。しかしそれが「高山植物群落」という語として結びつけられ、上のような文脈に置かれた途端に、何やらフシギな生生しい感覚が生じる。こうした、普段遣いの言葉と慣用句と専門用語が入り混じった語り。それがこの語り手にとっての「日常」なのだ――と、読者は冒頭から知らされる。
 この「対比」の観点を、テクストにおいてかなりの割合を占める考察のレベルにまで敷衍してみよう。以下は、第一話前半の記述。

 梅雨どきというのは、植物にとってはちょっとひと休みという時期に当たる。春先のあわただしい新芽の展開の後、乾燥と高温の続く夏に疲弊させられる前の、休息期間だ。この時期、暑くもなく寒くもなく、抱えられるだけの水気を抱えた空気の中で、植物は妙に深々と繁って見える。すぐ向こうに住宅地が広がっているような、台地のきわにわずかに残った薄い雑木林の中を歩いていて、ふっと屋久島あたりの原生林にいるような錯覚に襲われたりもする。

 多分それは、空中湿度がほとんど飽和に達しているために発生しがちな霧に視界を遮ぎられるからなのだろう。しかし樋口は、きっとそれが植物の本性なんだよと言った。それは植物が休息を取る間に眠り込んで見ている夢、彼らの爆発的な進化の舞台となった、つまり彼らの本質が作り上げられた熱帯雨林的環境の夢がこぼれ出て、林の中を流れているからじゃないのと言う。ゆみちゃんに聞かせるための話なのかもしれないが、おかしな具合に想像力の豊かな奴だと思う。

 おかしいって言うことはないでしょう、個体発生は系統発生を繰り返すって言うじゃない、夢野久作だよ、と樋口は笑った。細胞の記憶というのは遺伝子に比定することができるかもしれないが、夢野久作なら胎児の夢だろう。言っちゃなんだが、林の木々は胎児ではあるまい。ろくでもないことを考える男だ。

 霧を抱えた夢幻的な描写。それがいったん科学的な推察によって説明される。しかしそれによって幻想のベールが剥がされ無味乾燥な退屈さを顕わにするかといえば、そうではない。「専門用語」の段で述べたように、「空中湿度が飽和に達し」という言葉遣いもまた、小説の文体にとっては一種の「異国語」によるエキゾティシズムを産出するからだ。そしてさらにそれが「夢野久作だよ」という別のフレーズによって塗り替えられる。この感覚は、霧→夢野久作、という順序では生じない。霧→科学→夢野久作というルート、行き帰りのギャップによってこそ生じるものだ。
 どうですか。私が「対比」と呼ぶものの正体が、だんだん感じられてきたのではないですか。

 

   3

 この作品はふつう、「日常の謎」の系譜とされている。では作中の「日常」を述べるこうした語りは、なぜこのようにエキゾティシズムを帯びているのだろうか。それは一口にいえば、「見慣れたもの」(日常)が「見慣れないもの」(非日常)として眺められているからだ。

 もう少し詳しく記す。作中の舞台の半分は大学だ。だから「大学ミステリ」として、本作はこの6年後に登場する森博嗣のS&Mシリーズの隣に並べて見てもいい。「大学ミステリ」においては、「学問」と「日常」とが重なり合うことで一種のエキゾティシズムが産み出されていた。学問=ロマンティックなもの、日常=リアリスティックなもの、という「対比」かといえば話はそう単純でもないのだけれど、「大学ミステリ」においては「学問」と「日常」のどちらか一方だけでは生じない、「大学」という場において両者が重なり合いせめぎ合うことによって初めて産み出される、あるロマンティックさがあった(と思う)。しかし今や、博士号をとって就職先の決まらないオーバードクターなど珍しくない。ロマンティックさなどどこにもない「日常」が多く(そのツラさと共に)語られるようになった。その観点からいえば、語り手の

 ぼくも二年くらいは浮き草的なOD(オーバードクター)の生活を経験しているが、それはそれでずいぶん楽しんだような記憶しかない。

 という述懐など、現在ではずいぶん牧歌的に見えるに違いない。
 いや、話は大学に留まらない。それは「日常の謎」の舞台となる「日常」そのものにおいても感じる。本作の「日常」を読むと、まあ確かにコワイことは多少あるけれど、友人にも恵まれて、職場も安定しているし、趣味のヴァイオリンは年四回の定期演奏会にも知人と楽団を組んで出たりしていて、なかなか愉しそうな……あえていえば、お気楽な「日常」ですね。そう感じた人がいたとしてもおかしくない(たとえば「大学ミステリ」としてその15年後に発表された奥泉光『モーダルな事象』と読み比べたらどう感じるだろうか)。

 北村薫の『空飛ぶ馬』が刊行されたのは1989年。バブルの真っ只中だった。その系譜とされる本作には、植物というテーマもあってずいぶん当時の環境問題についての考察が挟まれている。「当時」といったってたかだか30年近く前だから、地球規模の問題がそうドラスティックに変わっているとも思えないが、しかし主人公の述懐を読むと、意識の上でどうも隔世の感を受ける。(まあ、そうはいっても、この時はまだ余裕があったよねえ)……そういう感じ。そうか、彼らが住んでいる世界にはまだ、阪神淡路大地震地下鉄サリン事件もNY同時多発テロ小泉政権リーマンショックも東日本大地震もなかったんだよな……時間が微妙に近いぶん、そんなふうなギャップを、2018年のいま読むと覚える。

〈あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか〉というラストの述懐は、そのまま、この作品をめぐる状況についてもあてはまる。ウィキペディアでデビュー時のおおよその状況を見ていただきたいが、まず「女子大生はチャターボックス」という企画がすごい(いまなら考えられない)。「鮎川哲也と13の謎」という企画もすごい。売上的にはなんの実績もない新人を次々デビューさせる会社もすごいし、それに応えて次々とエポックメイキングな作品を世に問う作家たちもすごい。あの異常な出来事の連続は、本当に現実と地続きの事実なのだろうか……もちろん、それは、たしかに、あったのだ。

 

   4

 話がズレた。既に充分長くなってしまったので、本作のミステリ的仕掛けについてあまり言及する余力がないが、それはいずれ作者の短篇を読んだ時にでも述べる。もう少し「ギャップ」について述べて締めくくろう。本作において、最大のギャップをもたらすモチーフはもちろん植物だ。植物とは、細菌や微生物を除けば人間にとって最大の他者であって、その生態の読み解き方を知る者なら、いかにこの他者が知らず知らずのうちに人間の日常に接して・侵入しているか、熟知しているはずだ。主人公はそうしたrule of greenを知る者だが、しかし、熟知しているがゆえに見えない死角、植物学の門外漢にしか見えない死角があるのだということ、そうした死角の内に住まっている人間がこの現実には主人公と同じ次元に存在しているということが、作中の「謎」をめぐるディスカッションではしばしば指摘される。そして、イメージの塗り替えという順路を辿ることは、ある感慨を産み出す。謎の答えという唯一解は、別のオルタナティヴな解を否定するだろう。しかし、そうしたディスカッションの基盤をなす「日常」は、そうした解のせめぎ合いという対話が行われたプロセスそのものを否定しない。「夢野久作」が「科学」も「霧」も否定しないように。このシーズンに咲く植物が前のシーズンの植物を否定しないように。ならば、無事に過ごしているならもう60代の半ばを迎えたであろう沢木敬たちは、いったいあれから、どんな「日常」を過ごしたのか? 元気に過ごしているのかしらん?

 ……そんな具合にね。

 

 

 

 

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)

いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)