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襤褸は着ててもロックンロール

山村正夫『断頭台』

 表題作を読んで、かつてスタンリイ・エリン『特別料理』の1982年版訳者(田中融二)あとがきにあった「よほどバカでもないかぎり二ページも読めば作者が何を書くつもりでいるのか見当がつくので、徹頭徹尾ムードで、読ませる作品」という言葉を想起した。そうか、これは山村版異色作家短篇集なのかなあ、と(その時点では)思った‬。
 ‪親本の帯に「異常心理の世界」とあるように、この本の短篇は概ねHOWよりもWHYに力点がある。発表は1959年から70年までだから、ほぼ1960年代で、いわば高度経済成長の、東京五輪大阪万博の時代。集中で「異常心理」を持つとされるのは、だいたい若者たちだ。この時期、社会状況において古いものと新しいものとが急激に移り変わりつつある対照が、作品のあちこちで見てとれる。大平洋戦争の記憶もまだ遠くはなく、しかし科学は進歩しつつあり、月に向かって有人ロケットだって飛んでいる……すなわちここでいう「異常心理」の正体とは実は、そうした状況における「いま生きているこの社会はどうもヤだ」という「息苦しさ」ではないか。そう見ることは可能なはずだ。
 今やこの作品群が書かれた1960年代も「ノスタルジア」の対象となっているが、しかしここでの彼ら若者たちは、だいぶ鬱屈している。どうすれば良く生きていけるのか。それがわからない。ある男主人公はこう嘆く。戦中世代なら自分も特攻隊にでもなれて目的に向かってパッと生命を燃焼できただろうが、今の生はまったくアヤフヤで手ごたえがない……。実は普遍的なその「心のスキマ」に(80年代のミュージックまではもうすぐだ)、フランス革命や古い打掛やマヤ文明や特攻隊といった、森村誠一いうところの「タイムスリップ」要素が、あるいは犯罪が入り込み、殺人として表現される‬。6篇に共通しているのは、このスタイルだ。
 こうした日常の「心のスキマ」に付け入る胡散臭いモノを、怪奇的な道具立てに用いる小説ないし物語は、この頃の流行りだったのだろうか。本書は狭義の「ミステリ」というよりも、SFやサタイアやホラーなどにもまたがった、「異色作家」や「トワイライト・ゾーン」や「異端作家ブーム」の流れにあるように見える。
 巻末対談では森村・山村とも、時代状況の変化による捜査方法のリアリズム描写の難化について苦慮しつつ、「心理」方面の探究の将来について、だいぶん期待しているように見える。しかし一口に「異常心理ミステリー」といっても、本書の短篇には差がある。たとえば表題作は、こういう設定を出せばもうこうとしか書けない、というたぐいのもので、実は「異常心理」について、他の短篇のようには必ずしも説明されていない。しかし、中盤の「短剣」や「天使」は違う。WHYの説明について、もっとフリーな領域に出ている(私にはこれらの真相は少々無理があるように見える)。
 この事態を最もわかりやすく説明するのは、最終話「暗い独房」だろう。少し詳しく記せば、この短篇の少年は、他人から干渉されるのがイヤだった。独りでいた方が心安らぐ。だから最終的に殺人を犯した。それを取り調べの刑事は、「実の母親が死んで愛情に飢えていたんだろ?」とわかりやすく「翻訳」しようとする。現在ならば「他人から干渉されるのがイヤ」という動機に容易に納得する読者も多いだろうが、作中現在の取り調べ室においてそれは通じない。それは「異常心理」であって、「異常」でない心理に翻訳せよ、と法の(つまり公的領域の)言葉は求めるのだ。それはいってみれば、「オマエのコトバは訛りがキツすぎて何をいっているのかわからない。もっとキチンとした標準語で喋ろ」という強要=暴力だ。ゆえに、ラストは必然的なものとして導かれてくる。
 こういうふうに考えてくれば、ここでの山村の作風はしごく「まっとう」だ。少なくとも、その三、四十年後にしばしば目についた、「さあ、ゲームの始まりです」と犯人に言わせることで「異常心理」を片付けようとした作り手の態度に比べれば(その「まっとう」さが逆に物足りない、という人もいるだろう)、これらの小説には「異常」なところなど、どこにもない。
 しかし、時間が経ってみれば、執筆時には「通常」だったかもしれない「心理」も、現在ではいささかフシギに見えてくるところはある。たとえば6篇中、自分を強姦した男に惚れる強姦された女が二人(2篇)、出てくる。これなど「そういうもの」として(たとえば「クロロホルムを嗅がされた人間はすぐ気絶する」とか「テニスボールを脇に挟んで寝たふりしておけば発見者は死体として扱ってくれる」ぐらいのいかにも昭和ミステリ的ローカルルールのイージーさで)さらっと流されているように見えるが、本当にそうなのだろうか。そこでスルーされているように見えるある心理にこそ、個人を超えた時代状況の「異常」さが、巨大な暗がりにわだかまってはいないだろうか。
 各篇の執筆時から約半世紀が経過した今、そんなようなことを感じさせられた。

 元版はカイガイ・ノベルス1977年刊、文庫版は角川書店1984年刊。
 収録作は
「断頭台」:「宝石」1959年2月。あるパッとしない俳優(元少年飛行兵としてラバウルの刑務所に二年収容され還ってきた)が、フランス革命の斬首刑執行人サンソンの役をあてがわれ、役柄に打ち込んだことからサンソンの人格が転移(?)し、現代と過去が融合してゆく話。過去のフランスと現代日本の場面転換がある(この辺はちょっとフレドリック・ブラウンの「さあ、きちがいになりなさい」を思わせる)。作中、日本の時間は「1963年」と初出時より未来の設定になっているんですが、これは元々そうだったんでしょうか(ここで読めます)。江戸川乱歩は「この作品は日常の現実は架空となり、架空の夢が現実となる転倒心理を描いている。私のいわゆる『うつし世は夢、夜の夢こそまこと』の系列に属するものであろうか」と評したという。しかし、サンソンの心理は描いても、俳優の心理はまったく描いていないところに、実はこの短編のミソがあるように思う。
「女雛」:ある地方に赴任してきた新聞記者が、男同士の心中を祀るべく建てられた比翼塚を訪ねたことから、十年以上前に起こったその事件に疑問を抱き調べ始める。歴史ミステリ+ワイダニットの形態。婚姻の夜に新郎が死ぬというと『本陣殺人事件』を想起するが、これは新郎が宴を抜け出して別の男と心中する、という謎。事件後、新婦を調査に訪ねると立ち小便をしていた、というような描写がなんとなく印象に残る。肝心のWHYはすぐ予想がつくけれど、それをなぜこんな事件にする必要が?という点はうまく説明されていないのではないか。「宝石」1963年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1964年版』選出。
ノスタルジア:金ができると自然の中で野宿をする、というワイルドライフを送っているヒッピー風の男が、新薬実験用の犬を育てている人物の家に盗みに入り、なぜか古代マヤの骨笛を入手したことから、古代マヤの生贄男の生と交錯してしまう。現在と過去を交錯させる「断頭台」の方法のバリエーション(過去による侵入の契機として、あちらが役への没入なら、こちらはドラッグによる幻覚と謎の「骨笛」がキーになる)。しかしこうなるともう、骨笛が誘い出すトワイライト・ゾーン的フシギ現象の方が主に展開をリードしているので、「異常心理」的なWHYの理屈はほとんど描かれていない。大阪万博への言及有り。「推理文学」1970年10月。
「短剣」:母親の仇への復讐を誓う少年だったが、復讐相手は刑務所で死んでしまい……という話。過去を担うキーとなるのは、タイトル通り特攻隊に配られた短剣だが、こちらはWHYの方に主眼が置かれ、幻想は出てこない(ラストに匂わされる程度)。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。1999年に映画化もされている
「天使」:文庫版で100頁に及ぶ、集中最も長い中篇。戦後、黒人米兵と日本人女性の間に生まれた混血児童を集めたキリスト教系孤児院の院長が殺害される。一点の曇りもない人物による理想的な院の光景(善)と、理想的に見えた院関係者の裏の顔(悪)は……という対比に神学的なドラマチックな効果を狙ったもの。きちんとフーダニットしています。ラストの「真相」は匂わされる程度だが、ドラマ的な対比の方を優先しすぎて、必ずしも説得されない(今ではこういうWHYは書けない)。「宝石」1962年5月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1963年版』選出。
「暗い独房」:人の善意に堪えられない少年が殺人を犯すまでの心理を、取調室を舞台にして追う話。これは逆に心理の方はまったく現在にも通じる話だが、通じすぎて現在ではむしろ「通常」に感じられてしまう、という逆転現象が起こっている。「宝石」1960年3月。日本推理作家協会編『推理小説ベスト24 1966年版』選出。
 以上六篇。こう見ると、山村の1960年代ベストともいえる代表作を集めた短篇集だが、まとまめられるのはけっこう時間がかかったんですね。

断頭台 (角川文庫 (5715))

断頭台 (角川文庫 (5715))