立ち読み師たちの街

襤褸は着ててもロックンロール

青山文平『半席』

 青山文平『半席』(新潮社、2016)。私はふだんあまり時代小説は読まなくて、この著者も初めてです。この本は出た当初から「ワイダニットの秀作」の呼び声高く、そのうちいずれと思ううちもう文庫化されてしまったので、それを契機に読んでみました。
 時代は江戸の文化年間というから1800年代初頭。主人公の片岡直人は30歳手前。目付(武士の監察役)の配下の徒目付という役職。これはエリートとノンエリートでいうとエリート側の下っ端にあたるらしい。つまり江戸時代の武士の身分は御目見(将軍に直接謁見できるか否か)で分かれていて、御目見以上を「旗本」と呼び、御目見以下を「御家人」と呼んだ。この差がめちゃくちゃデカイ。主人公の父親はもともと御家人だったが、旗本の一番下っ端に出世した。しかし二代続けて旗本を出さなければその家は旗本(御目見以上)とは認められないというルールがあるらしく、主人公の直人はそのキャリアをまたノンエリートの御家人から出発しなければならなかった。自分も頑張って出世すれば子供以降は最初から旗本として認められる(この状態が「半席」)。だから父親に続くべくなりふりかまわず出世してエリート枠に入り込まなければならない……。しかし今いるこの徒目付という職は「やることを挙げるよりも、やらぬことを挙げるほうは早い」といわれるほど職務範囲が広く、また才覚があればなかなか儲けることもできる。そこへ半年に一度ほどの割で、自分の上司にあたる徒目付組頭の内藤雅之が正規の職務以外の裏仕事を持ちかけてくる。それは、ある武士が罪を犯した。しかし決して理由をいわない。その「なぜ」を解き明かしてくれ、というもの。この「なぜ」を問う裏仕事が毎回のキモで、そこにワイダニット連作の短編集とされる所以がある。
 タイトルや設定にもあるように、作中世界はシステムがすべてを支配する世界だ。かつ、中途半端さが停滞感として全体を覆っている。主人公の直人はエリートとノンエリートの宙ぶらりん状態にあり、上司・雅之が放つ「出世なんかしなくてもいいジャン」という雰囲気は強力だ。時代は江戸の文化年間というから、1800年代初頭。激動というには遠く(維新の頃にはちょうど彼らは皆死んでいるだろう)、武士は軍人というより役人となりつつあり、ビンボー武家は食うにはかつかつ。傘張りの内職をしてさえ生きていかれなかったりする。平時の酷薄な身分社会という、ダイナミックさに全く欠けるシステムの浸透しきった日常が彼らの生きる世界であって、これは確かに二百年後の現代日本に似ていなくもない。
 わたしが「システムの世界」と書いた理由はもう一つある。本連作の趣向は、なぜその人物が罪を犯したのか、その理由を読み解け、というものだが、その基本原理はおおよそ、武家社会のシステムから導かれるものだからだ。上司・雅之が解決済みの事件(しかし動機だけが不明)を持ちかける。直人は関係者何人かに聞き取りを行い、ある「仮説」を持って犯人を訪ねる。そして犯人から心情を聞いて答え合わせをする、という流れだが、これはミステリとして見るとかなりあっさりしている。推理の試行錯誤とか、どんでん返しとかはまったくないから、そこに物足りなさを覚える人もいるだろう(一編がだいたい40頁、事件から解決まではいずれもだいたい20頁程度)。この時代、この空間の武家社会というローカル世界に生じたシステムエラー。その解明は、「こういう立場の人がこういう状況に置かれたら、確かにこういう行動をとってもおかしくないな」というものだ。状況から行動が導かれる、という経験は誰しもある。そのとき導かれる行動は、個人の意志を超えている。たとえば会社の部下が上司から「奢るよ」といわれたら「いや払いますよ」と断りつつ結局は「いいっていいって」と奢られる。この、奢るよ→いや払いますよ→いいっていいって、という二者間の行動は、状況が強いるもので、個人の意志には左右されない。確かに人によっては、部下も「いや払いますよ」とは断らないかもしれないし、上司も「あっそうじゃ割り勘ね」と受け流すかもしれない。しかしたいていの場合、そうした個人差を超えたローカルルールがコモンセンスとしてできあがるもので、いったんできあがってしまえば、そうした仕草がないと物足りなささえ覚えてしまう。
 ワイダニットとしての『半席』の強みは、犯行理由に対する共感性の高さだといわれてきた。しかしその共感性の高さとは実際は上記のように、システムが個人の内面を規定する様相を描いたものなのではないか。犯人が導かれる行動は個人の意志を超えたもので、だから本当のところ、各犯人の登場人物としての影はうすい。「まあ、こういう立場の人がこういう状況に追い込まれたらこうなるんだろうなあ」という「なぜ」に、個人の性格が入り込む余地は少ないからだ。つまり「共感性の高さ」は、登場人物の交換可能性ということを想起させる。それは主人公の立ち位置にさえ及んでいる。正直なところ、「探偵役」としての主人公は、「もしかして犯人たちは、主人公じゃなくても、これくらいの若い青年であれば、ゲロったんじゃ……」と思われるフシがあるからだ。
【ここから結末の趣向に触れますので未読の方はご注意ください】
 連作全六編はこうした出世物語のパターンを踏まえていて、すなわち、第四話までは探偵役としてひたすら「見る側」だった直人は、やがて「見られる側」としての自身の存在を意識するようになる。そして最終話において、出世の道を諦めることを受け入れる。最終頁まで読んできて、その苦甘いようなラストにたどり着くと、上司・雅之はズルい人だなあ悪人だなあ、と思える。それはたぶん、わたしが直人と同世代で、出世欲とか名誉心とかを捨て切れていないからなのだろう。ひたすら出世を目指してきた人間が、その望みを絶たれた場合、どうするべきなのか。本連作の裏テーマを一言でいえば、コレである。ここでいう「出世」とは、システムのルールに乗っかることを意味する。しかしシステムからあぶれてくる人間は必ずいる。というか、システムからあぶれた時、人は事件を起こすのだ。するとラストでの主人公の「出世を諦める」という行為は、システム批判という意味を帯びてくる。武家社会という身分制度=ルールが働く内部でなければ、犯人たちは事件を起こさなかっただろうからだ(一部そうともいいきれないかもしれませんが)。そもそも、直人の「自分の家は半席だから子孫のために出世しなければ!」という若者らしい欲望自体、個人の意志とは無関係に、システムに強いられたものだった。だから、「出世を諦める」という行為は、どれほどこうした出世→転向物語のパターンに則り、かつ、雅之の描いた筋書きに乗せられているように見えようと、システムの内部で「個人」という主体性を発揮できる、リアリティのある行為に感じられたはずである。
 上で「中途半端さという停滞感」と書いた。タイトルにも顕著なこれは、ネガティブな意味ではない。というのは、本作は意図的にこうした宙ぶらりん感を描いているからだ。そしてワイダニットミステリとして事前に期待を持って本作を読んだ場合、読者は中途半端な感じを覚えるはずである。また時代小説として読んだ場合でも、確かに文章や筋立てはうまい、けれども、どこか中途半端な、閉息的な感じを覚えるのではないかと思う。しかしこの中途半端で閉息的な感じは、時間も空間も限られた江戸という作中世界のシステム自体が持つものなのだ。私は読みながら、カバーに描かれた白地に黒い版画が踊る様子を、アニメーションのようにして脳裡に想い描いていた。英雄話でも人情話でもない、どこか個性を抹消された人々が、のっぺりとした白い空間で繰り広げる、影のドラマ。それは、時代小説なのか、推理小説なのか、というこの小説自体が体現する中途半端さを象徴しているかのようだ。そう考えると、連作としてはやや冗長に感じられる、毎回挿入される世界観の説明(主人公は半席だから出世しなければならないのだ、というような)もどこか、ドラマやアニメで毎回OPやEDが律儀に再生されるような感じで、作り物としてのこの世界の存在を、主張しているかのように見えてくる。やがて、永遠に思われたシステムにもじりじりと、その閉塞空間を成立させていた経済的な底が見えてくる、……。
 だが。時代小説としても、推理小説としても、これくらいじゃあピンとこない、オレはもっとうまく書いてやる、出世してやるゾ、という、ギラギラした書き手が『半席』の子孫として出てきていい。そんな夢想が、どうにも掻き立てられてやまない。