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襤褸は着ててもロックンロール

「推理」小説か、推理「小説」か?

 以下はいつものように思いついたことを試論というか一晩で走り書きしたものです。
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〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言を初めて見たのは学生時代、おそらく何かの文庫解説(1980年代のミステリ小説だったはず)で、以来、似たようなフレーズを見かけるたび、これはいったいどういうことなのだろうか、と考えずにはいられない。もちろんその表面的な意味はわからなくはない。その基本的な発想は「推理小説」という語を「推理」と「小説」に擬似的に分割するというもので、そうした構えをとる際、穏当な意見は往々にして、「推理小説も小説であるから、パズルである前にまず最低限売り物になる小説であるべきで、……」云々と、作家は(特に新人作家は)後者の技術に熟達すべきであるというふうな結論に落ち着きがちである。前者(「推理」)に理解のある人でさえ、結局は後者が伸びなければ職業作家としてサバイブすることは難しい、と心のどこかで思ってはいないだろうか(前述の解説者はもしかすると、新人賞の下読みとして日々そうしたどちらを採るかという選択を迫られている人だったのかもしれない)。「小説」に熟達しなければ、……というのは一面の真実で、20年、30年と書き続けている人はどうしたって「うまさ」を次第に身につけざるをえない。
 しかし素朴な疑問は、「推理小説」という語は本当に「推理」と「小説」に分割できるのだろうか、というところにある。「推理小説」はそもそも「小説」なのだから、そのオモシロサは「推理」だろうとなんだろうとすべて「小説」のオモシロサに包含されるんじゃないかしら。「推理」抜きの「小説」とは、いったい何なのか?
 ……こうした疑問を長年抱えていたところ、以前、松井和翠さん編の『推理小説批評大全 総解説』で紹介されている諸論考を通読して、その一端が掴めたような気がした。
 ジャンル論として「推理小説とそれ以外の小説」を分けて考える際、「それ以外の小説」はしばしば、
「(普通)小説」
「(一般)小説」
「(主流)文学」
 などと称されてきた。呼び方がマチマチなのは、それらには確定した名称がないからである。なぜ確定した名称がないかといえば、それはそれらが「~でないもの」という消極的な定義でしか存在しえない概念だからだ。どういう意味か。「普通」「一般」「主流」という語には、全体の中で多数を占めている、という含意がある。たとえばよりわかりやすい呼称として「非推理小説」という語もあり、私はこの「非~」という方が意味としても正確ではないかと思うが、「非(ノン)」ではなく「多数(メジャー)」という言い方にも確かに捨てがたいところがないではない(似たような言い方に「スリップストリーム文学」と「メインストリーム文学」という区別がある)しかし「普通」にしろ「一般」にしろ「主流」にしろ、それらは「ジャンル小説とは何か」と考えた時に、「ジャンル小説ではないもの」として初めて割り出される概念であって、それ単体としては存在しえない。「推理小説の本質とは何か」とか「自分は推理小説の書き手である」などと考えることはできるが、「普通・一般・主流・非推理小説の本質とは何か」とか「自分は普通・一般・主流・非推理小説の書き手である」などと考えることは(不可能ではないとしても)ほとんどないのではないか。つまりここでいう「メジャー」なものとは、「自分はメジャーではない」と自認する「マイナー」の側、疎外された(と感じている)者の立場から「あいつらはメジャーだ」と名指されるものである。それは実体としては確かに存在する。なんというか、世間的に「メジャーなもの」としか言いようのないものが確かにあるのだ(実際の数の多寡は問題ではない)。しかしなぜそうなったのかを説明しようとなると、そこには歴史的経緯やイデオロギーや構造的な段差などが複雑に絡み合っていて、すっきりとは説明しがたい。一言でいえば、「メジャーなもの」とは、ある構造の内部において「マイナーなもの」を気にしなくてもいい立場にあるもののことだ。しかし「マイナーなもの」の側は常に「メジャーなもの」を意識して「自分はマイナーである」と自任せずにはいられないほど不安定な立場にある。逆に「メジャーなもの」は自分が「メジャーなもの」という自任すら不要なほどその立場は安定している(と「マイナーなもの」の側からは見えている)。この両者の間には認識の断絶がある。
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 話がややズレた。
 先に「(普通)小説」「(一般)小説」「(主流)文学」という評言を紹介した。このカッコは原文そのママだが(いま時間がないのですが後で出典元を明記します)、このカッコの使い方には、その中の語が省略可能であるような意識がうかがえる。しかし、「一般小説」と「小説」とは、まったく異なる概念だ。
 これは図にするとわかりやすい。

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「一般小説」を部分A、「非一般=特殊ジャンル小説」を部分Bとすれば、論理的にいって「小説」全体はA+B=Cである(A≠C)。つまり「一般小説」(多数)は「小説」(全体)ではない。
 しかし時に、この「(一般)小説」のカッコ内が欠落して、すなわち多数が全体にとって代わって語られることがある。この時、最初に挙げたような、「推理小説はそもそも小説なのだから、そのオモシロサはすべて小説のオモシロサに包含されるんじゃないか?」というような齟齬=疑問が産まれる。よくよく見れば、「推理」「小説」という時の「小説」とは、「(一般)小説」のカッコ内を欠落させた語の用法であるようにも見える。この欠落には、これまで述べてきたような思考過程がおそらく働いている。たとえば「純文学」といわれて今、小説以外のものを思い浮かべる人はいない。しかしそれは男manという単語で人類manを表すようなものではないのだろうか。
 多数を全体として捉える(少数を全体から切り捨てる)、という錯誤は誰しも日々ありがちなことだ。たとえば私は「文学とは何か」といえば「小説」が真っ先に思い浮かぶ。しかし実際には「文学」には詩歌や演劇や随筆など膨大な他の領域がある。たとえば「小説とは何か」といえば「物語」というものが思い浮かぶ。しかし実際には「物語」は映像やコミックや戯曲などその他の媒体でも扱えるものだから、「小説」の必要条件ではない(物語がない小説もある)。……このように注意して考えれば自明なことが、ともすれば文学=小説=物語という式があたかも真理であるかのような不可視の公式として働いている場面に出くわすことがしばしばある。
 たとえば数年前、「ライトノベルは文学か」という座談会が「炎上」したことがあった。
 これは図書の分類法(日本十進分類表・NDC)でいえば、すべての「小説」は「文学」なのだから、当然、ライトノベルはすべて文学である。現実に図書館に行けばライトノベルはすべて文学コーナーに置かれてあるので、「ライトノベルは書店ではコミックと一緒に並べられることも多いのだから726.1(漫画.劇画.諷刺画)に置け!」などとクレームを言ってみても始まらない。実際、先の座談会でいう「文学」とは一貫して「純文学」のことなのだ。つまり「(純)文学」=「文学」という、部分の全体化が不可視の公式として「ライトノベルは文学か」という疑問文には働いており(文中に「文学(純文学)」という表現がある)、そこに齟齬がある訳で、これを最初から「ライトノベルは純文学か」と言い換えていれば答えはまた違ったものになっただろう。
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 では「小説」の必要条件、言い換えれば、これを抜くと小説でなくなってしまう、というような条件とは何なのか。そう考えると、その要件は答えに窮するほど少ない。辛うじて思いつくのは、フィクションを扱う文字記号の直列的な集積……というようなことでしかない。もちろんフィクションを扱わない「小説」も、直列的でない「小説」もあるが、ここでは仮にそうだとしておく。すると「小説」の面白さ、言い換えれば、「小説」にしかない面白さ、とは「文章や語りのうまさ」だとかにしか求められなくなってしまう。もう一点、表現しづらいものとして、媒体的特性が挙げられる。小説では魅力的に映った会話などのやりとりが、実写化されると途端に薄っぺらいものに見えてしまう、ということがある。逆に、魅力的な映像がノベライズ化されると(どうも違う……)と思われることがある。そうした、媒体自体の持つ固有性。
 たとえてみれば、「小説固有の面白さ」とは、汁物における「出汁」のようなものなのだろうか。「出汁」は「出汁」だけ味見してみても確かに旨い。しかしそれだけでは完成品としての「料理」にはなりえず、「出汁以外」のものと組み合わさることによって「料理」になりうる。「出汁以外」は「出汁以外」で、それだけで調理できないことはない。しかし、やはり何かが足りない。「出汁」と「出汁以外」が組み合わさることで「出汁料理」になる。ここで「出汁以外」とはたとえば「物語」にあたる。「出汁(小説の固有性)」を欠いた「物語」は、それだけで成立しなくもないが、しかし「小説の面白さ」と呼ぶには何かが足りない。というか、下手をすると、同じ物語を扱った「映像」の方が面白い、ということにもなりかねない(映像>小説というヒエラルキー)。しかしいくら上モノだけで旨いからといって、ベースの鰹出汁をマギーブイヨンに置き換えてしまっては台無しになってしまうものが、「小説」には、あるのだ。
 先の図を流用すれば、「小説の面白さ」(全体C)とは、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)が組み合わさって成立するものなのだろう。しかしそうすると、「推理」は「物語」同様、「小説」にとっては「小説以外でも扱える面白さ」(A)にあたる、ということになる(映像やコミック、場合によっては評論でもそれは表現可能だから)。ならば、「推理」「小説」というあの分類は正しいのだろうか(「推理」=上モノ/「小説」=ベース)。

 だが、〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言においては、より事情がこみいっている。このときいう「小説」とは、「(一般・非推理)小説」のことであり、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)の双方を含み、その上で、Aから「推理」(D)を排除したものを「小説」と呼んでいるのだ。

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 なおかつ、そのような場合に「小説の面白さ」というとき、「小説にしかない固有の面白さ」(B)が前述したように厳密な意味で意識されていることはおそらくほとんどない。その「面白さ」とは、「物語性」とか「読者の目を意識しているか」とか、「小説以外でも扱える面白さ」(A')にあたるものを指してそういっているのではないか(「小説」よりも「読み物」の方に力点がある、というぐあい)。
 もちろん他方で「推理の面白さ」といってもそれは一筋縄にはいかない。ここでは「推理」をとりあえずカッコに入れて「小説」の方をごく簡単に「小説の固有性」と「それ以外」に腑分けしてみた。上のように考えてくれば、「推理小説の面白さ」とは、「推理」と「小説の固有性」と「小説以外でも扱える面白さ」から成り立っている。しかも、その「面白さ」全体は、おそらく加算(+)ではなく乗算(×)のような関係にあって、ある一作品のどこをどう簡単に取り外すというふうにはいいづらい。というか、ここまで書いてきたものの、そもそもやはりそんな簡単に「推理」と「小説」が分離できるのだろうかという疑いが拭いきれない(これが「探偵小説」とか「ミステリ」とかなら、これほどスッキリとは分割できそうにない)。もともと「推理」も「小説」も別個に独自発展してきたのではなく、よくよく俯瞰してみればゴチャゴチャと絡まり合ってまったくワケガワカラナイのだから、私としてはまだまだその中でウダウダと行き泥んでいるしかないのだろうけれども。