TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』『フィネガンズ・ウェイク』

ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』(安藤一郎訳、新潮文庫
→引用部は「わたし」がカーテンレールでの首吊りに失敗し、目が覚めると雪が降っていたというシーン。

「雪は首吊り自殺に失敗したハサミ男の横たわるベランダに降っている。聞き込みに歩きまわる哀れな刑事たちの上にも降っている。悲しみからまだ立ちなおれない家族の住むデゼール碑文谷の屋上にも降っている。私立葉桜学園高校のポプラ並木の赤煉瓦道にも降っている。学芸大学駅前の喫茶店〈おふらんど〉の窓にも降っている。誰もい ない鷹番西公園にも、今日も誰かの葬儀がしめやかにおこなわれているであろう春藤斎場にも、そして、どこにあるのか知らないが、樽宮由紀子の眠る墓の上にも降りつもっている」

 元文は連作短編集の最終編「死者たち」のラストより。短篇の主人公ゲイブリエルが眠りにつく(?)シーン(いま手元に新潮文庫改訳版の柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』しかないので、その「死せるものたち」からですが)。

自分も西へ向かう旅に出る時が来たのだ。そう、新聞の伝えるとおりだ。雪はアイルランド全土に降っている。暗い中央平原のすみずみまで、立木のない丘陵に舞い降り、アレンの沼地にそっと舞い降り、もっと西方、暗く逆立つシャノン川の波の上にそっと舞い降りている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の上に、実のない荊の上に、ひらひら舞い落ちては厚く積っている。雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていた。

ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ』(柳瀬尚紀訳、河出書房新社
→これは本文中での指標がまったくないので、たぶん最難関なんじゃないでしょうか。私も全然わからず、フト「フィネガンズ・ウェイク ハサミ男」でググったら、なんとヤフー知恵袋で特定されている方がいました。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

(Q)2017/10/808:00:06 「ハサミ男」(殊能将之)引用・参考文献でフィネガンズウェイクの名がありましたが、どこで使われているのでしょうか?

(A)2017/10/821:22:41 探してみました。『ハサミ男』の11章で主人公がテレビを見ている場面で、太字で書かれている部分が引用だと思います。わたしの持っている版では、以下が似ていました。ハサミ男:118ページ「おお、聞かせておくれよハサミ男のことを」「なにもかも話してハサミ男のことを」「ね、ハサミ男を知ってるでしょ?」「ええ、もちろん、あたしたちはみんなハサミ男を知ってるわ」「なにもかも話して」 フィネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ:196ページ おお話しておくれよ アナ・リヴィアのことを!なにもかも聞かせて アナ・リヴィアのことを。ね、アナ・リヴィアを知ってるでしょ?ええ、もちろん、あたしたちはみんなアナ・リヴィアを知ってるわ。何もかも話して。〉

 マジか……。
 ウーン……でもここだけなのかなあ……(原文は「Ⅰ」の終盤〈O tell me all about Anna Livia! I want to hear all about Anna Livia. Well, you know Anna Livia? Yes, of course, we all know Anna Livia. Tell me all. Tell me now. )。
 まあ単にフレーズのイタダキではなくて、古典にテーマを沈めるという手法にも近しいところがあるので、踏まえているとは思いますが……。

 

ダブリン市民 (新潮文庫)

ダブリン市民 (新潮文庫)

 

 

 

フィネガンズ・ウェイク〈1・2〉

フィネガンズ・ウェイク〈1・2〉

 

 

『ハイネ散文作品集』(松籟社)

『立ち読み会会報誌』第二号は『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』の「参考・引用文献特集」の予定ですが、文フリまで全然時間がないことが判明したので、とりあえず「こういう感じで書いてます」というサンプルと草稿代わりを兼ねて、取り急ぎまとめたものをこれからいくつかここに載せていくことにします。

『ハイネ散文作品集』(松籟社)→全六巻。引用部は煙草を煮詰めたニコチンを飲んだ後に目覚めるシーン(「13」)。

ハインリヒ・ハイネは、雲の上に天国があるのなら、どうして金貨とか宝石が降ってこないのか、降るのは雨だけじゃないか、天国は水っぽいのか、と書いてるね」と、医師が言った。ハイネの名前くらいは、わたしでも知っているが、ロマンティックな詩人という印象しかなかった。医師の言うような皮肉な台詞を吐くだろうか。これも噓かもしれない。真偽のわからない引用をひけらかすのは、医師の悪い癖だった。

 ハインリヒ・ハイネ(一七九七‐一八五六)はドイツ出身のユダヤ系の詩人。原文はおそらく、第五巻「シェイクスピア論と小品集」所収の「箴言と断章」と題された短文集より。

人は、私が宗教をもたない、と言って非難した。そうではない、私はそのすべてをもっている、私はブラーマが……等々と信じている。/私がけっして天国を重んじてこなかったことは、本当であり、それもきわめて重要な理由がある。草地に仰向けに寝転び、そうして天国の豪華絢爛を思うとき、たびたび私は考えるのだ、いったいどうしてほんの一カケラも素晴らしい物が落ちてこないのだろう、たとえば時計の金バンドとか、ケーキなどなど――代わりに落ちてくるのは水ばかり――水っぽい天国――〔一八二六年〕

 ハイネは森鷗外上田敏、片山敏彦などの訳で日本でも知られている。「わたし」がいう「ロマンティックな詩人」という印象は、たとえばポピュラーな新潮文庫版『ハイネ詩集』の惹句(「祖国を愛しながら亡命先のパリに客死した薄幸の詩人ハイネ。甘美な歌に放浪者の苦渋がこめられて独特の調ベを奏でる珠玉の詩集」)などを読むとそのように受け止められるかもしれないが、上記『散文作品集』に収められた批評やジャーナルを読むと、相当舌鋒鋭くシニカルで喧嘩っ早い人です(ヘーゲルの弟子で、マルクスエンゲルスとも親交があった)。

 ハイネの立ち位置はよくよく見るといかにもセンセー好みというか、けっこう複雑だ。まず、ユダヤ人というアイデンティティがあり、かつ、ドイツ的なもの/フランス的なもの/イギリス的なもの、の狭間で彼は書いている。

 時はフランス革命直後の時代。反動的なドイツ政府にハイネは批判的で、何度か検閲や発禁処分を受ける。身の危険を感じてフランスに亡命するが、そこではスタール夫人の『ドイツ論』が流行。そこでハイネはジャーナリズムの求めに応じて「あーた達は本当のドイツというものをわかってないッ!」と啖呵を切って「ロマン派」や「ドイツの宗教と哲学の歴史」などのドイツ論をフランス人向けに書く(ルートヴィヒ・ティークなんかは結構ケチョンケチョンです)。一八四八年からは脊椎の病で寝たきりになりながら旺盛な執筆活動をしたというから、そのあたり、医師は正岡子規と重ねて捉えていたのかもしれない。
 ちなみにハイネにも「ファウスト博士」(一八五一)という舞踏詩がある(邦訳は内垣啓一訳、『ドイツの文学』第二巻「ハイネ」所収、三修社、一九六六)。学生時代の友人には「ゲーテと張り合うつもりなんかじゃないんだ。誰もがファウストのような作品を書くべきなんだよ」と語っていたそうです(一條正雄「ファウスト最後のモノローグにおける「瞬間」について」、「岐阜大学教養部報告」23号)。

 このあたりに、『ハサミ男』におけるファウストの主題、というのを感じますねー。

 

シェイクスピア論と小品集 (ハイネ散文作品集)

シェイクスピア論と小品集 (ハイネ散文作品集)

 

 

ストレンジ・フィクションズpresents『異色作家短篇集リミックス』の電子書籍版情報

異色作家短篇集リミックス』が2019年5月21日までの期間限定で電子書籍版を発売しているようなので、こちらでもお知らせしておきます。

strange-fictions.booth.pm

 なぜ期間限定なのかは私は詳しくは知りません。すみません。

 創作篇のうち、紙月真魚さんの「いつかの海へ」は改稿があるそうです。nemanocさんによる「序文」も紙版のver.2から変わってver.3くらいの一番短いものになってます(一番長いver.1(4000字くらいある)もけっこう面白いと思うんですが公開されたりしないんでしょうか?どうでしょうか?って、ここで書いても意味ないか……)私も駄洒落の入れ忘れを二箇所、修正してもらいました。あと資料篇の画質をよくしてもらいました。

 よろしければ今のうちにドウゾ。

第28回文学フリマ東京に申し込みました。

 2019年5月6日開催予定の第28回文学フリマ東京に申し込みました。
https://bunfree.net/event/tokyo28/
 新刊『立ち読み会会報誌第二号』を出す予定です。
 内容は当初の構想を変えて、前号の補遺、というか、『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』の「参考・引用文献」解題特集の予定です。具体的には、しばしば「どこが参考にされているのかわからない」と称されがちな殊能作品の巻末リストの本を実際に読んでみよう、というもの。前回よりも更にニッチな内容ですが、はたして読んでくださる方がいらっしゃるかどうか……というか、あと三ヶ月で完成できるのかどうか(まあ目星はついているから大丈夫かしらん?)。詳細が決まったらまたお知らせします。何卒よろしくお願いします。

ストレンジ・フィクションズpresents『異色作家短篇集リミックス』の詳細情報

 が、nemanocさんのブログに掲載されたので、いちおうこちらでも紹介しておきます。

proxia.hateblo.jp

 私が担当したのは、スタンリイ・エリン「特別料理」の二次創作(「特別資料」)と、「参考文献解題」という文章です。

「特別資料」の方は、元が超有名短篇なので、反則技でなんとかしのぎました(しのげてないかもしれませんが)。

「参考文献解題」というのは、「『奇妙な味』と『異色作家』という語はいつ頃結びついたのだろう?」というギモンをテーマに、いくつかの文章を紹介したものです。元々自分自身、「現代版『奇妙な味』!」というようなハナシになるとこれまでどうもフワフワした感じが否めず、ノリきれなかったんですが、これでなんとなく糸口が掴めたかな……という感じがしました。

 通販はしないそうなので、すでにして入手困難ぽいですが、お近くの方はよろしくお願いします。

[追記]

残部は通販するそうです。

 

 

同人誌「ストレンジ・フィクションズ」に参加しました

 久し振りの更新ですが。

 大学サークルの後輩主体の同人誌に参加しました。

c.bunfree.net

中心人物はnemanoc a.k.a浦久さん織戸久貴さんです(多分)。

以下、掲載されている情報です。

ストレンジ・フィクションズ

  •  
     出店履歴 |   
     
     すとれんじ ふぃくしょんず
  •  
     小説|SF
 
 う-43

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年1月20日(日)に開催される第三回文学フリマ京都で頒布されるソーです。

 最初に話を聞いたのは夏くらいで、「異色作家短篇集特集」をやる、と聞いた時には、ウーン、なぜ今? という感じで、あまりそそられない気分だったのですが、もともとこのブログを作ったのも十年前に「異色作家短篇集特集」の同人誌を作ったからなので、時期がまわったということで、ヨッシャ参加してみようかな、と思ったのでした。私はガイド文と二次創作短篇を寄稿していますが、この十年で多少は利くようになった小手先の一方、いつもながら壁に突き当たってすぐ力尽きる、という感じでした……。

 それはともかく、岩城裕明さんインタビュー、伊吹亜門さんインタビュー、矢部嵩さんの寄稿、織戸久貴さんの創元SF短編賞特別賞受賞第一作もありますから、じゅうぶんもとはとれるでしょう(特に矢部さんはやっぱり天才だとおもいました)。他の方もけっこうレベル高いとおもいます。主宰たちは弱気なのであまり部数を刷らず、レア化するかもしれませんので、事前予約が開始された際には皆様何卒よろしくお願いいたします。

 それでは。

「推理」小説か、推理「小説」か?

 以下はいつものように思いついたことを試論というか一晩で走り書きしたものです。
 *
〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言を初めて見たのは学生時代、おそらく何かの文庫解説(1980年代のミステリ小説だったはず)で、以来、似たようなフレーズを見かけるたび、これはいったいどういうことなのだろうか、と考えずにはいられない。もちろんその表面的な意味はわからなくはない。その基本的な発想は「推理小説」という語を「推理」と「小説」に擬似的に分割するというもので、そうした構えをとる際、穏当な意見は往々にして、「推理小説も小説であるから、パズルである前にまず最低限売り物になる小説であるべきで、……」云々と、作家は(特に新人作家は)後者の技術に熟達すべきであるというふうな結論に落ち着きがちである。前者(「推理」)に理解のある人でさえ、結局は後者が伸びなければ職業作家としてサバイブすることは難しい、と心のどこかで思ってはいないだろうか(前述の解説者はもしかすると、新人賞の下読みとして日々そうしたどちらを採るかという選択を迫られている人だったのかもしれない)。「小説」に熟達しなければ、……というのは一面の真実で、20年、30年と書き続けている人はどうしたって「うまさ」を次第に身につけざるをえない。
 しかし素朴な疑問は、「推理小説」という語は本当に「推理」と「小説」に分割できるのだろうか、というところにある。「推理小説」はそもそも「小説」なのだから、そのオモシロサは「推理」だろうとなんだろうとすべて「小説」のオモシロサに包含されるんじゃないかしら。「推理」抜きの「小説」とは、いったい何なのか?
 ……こうした疑問を長年抱えていたところ、以前、松井和翠さん編の『推理小説批評大全 総解説』で紹介されている諸論考を通読して、その一端が掴めたような気がした。
 ジャンル論として「推理小説とそれ以外の小説」を分けて考える際、「それ以外の小説」はしばしば、
「(普通)小説」
「(一般)小説」
「(主流)文学」
 などと称されてきた。呼び方がマチマチなのは、それらには確定した名称がないからである。なぜ確定した名称がないかといえば、それはそれらが「~でないもの」という消極的な定義でしか存在しえない概念だからだ。どういう意味か。「普通」「一般」「主流」という語には、全体の中で多数を占めている、という含意がある。たとえばよりわかりやすい呼称として「非推理小説」という語もあり、私はこの「非~」という方が意味としても正確ではないかと思うが、「非(ノン)」ではなく「多数(メジャー)」という言い方にも確かに捨てがたいところがないではない(似たような言い方に「スリップストリーム文学」と「メインストリーム文学」という区別がある)しかし「普通」にしろ「一般」にしろ「主流」にしろ、それらは「ジャンル小説とは何か」と考えた時に、「ジャンル小説ではないもの」として初めて割り出される概念であって、それ単体としては存在しえない。「推理小説の本質とは何か」とか「自分は推理小説の書き手である」などと考えることはできるが、「普通・一般・主流・非推理小説の本質とは何か」とか「自分は普通・一般・主流・非推理小説の書き手である」などと考えることは(不可能ではないとしても)ほとんどないのではないか。つまりここでいう「メジャー」なものとは、「自分はメジャーではない」と自認する「マイナー」の側、疎外された(と感じている)者の立場から「あいつらはメジャーだ」と名指されるものである。それは実体としては確かに存在する。なんというか、世間的に「メジャーなもの」としか言いようのないものが確かにあるのだ(実際の数の多寡は問題ではない)。しかしなぜそうなったのかを説明しようとなると、そこには歴史的経緯やイデオロギーや構造的な段差などが複雑に絡み合っていて、すっきりとは説明しがたい。一言でいえば、「メジャーなもの」とは、ある構造の内部において「マイナーなもの」を気にしなくてもいい立場にあるもののことだ。しかし「マイナーなもの」の側は常に「メジャーなもの」を意識して「自分はマイナーである」と自任せずにはいられないほど不安定な立場にある。逆に「メジャーなもの」は自分が「メジャーなもの」という自任すら不要なほどその立場は安定している(と「マイナーなもの」の側からは見えている)。この両者の間には認識の断絶がある。
 *
 話がややズレた。
 先に「(普通)小説」「(一般)小説」「(主流)文学」という評言を紹介した。このカッコは原文そのママだが(いま時間がないのですが後で出典元を明記します)、このカッコの使い方には、その中の語が省略可能であるような意識がうかがえる。しかし、「一般小説」と「小説」とは、まったく異なる概念だ。
 これは図にするとわかりやすい。

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「一般小説」を部分A、「非一般=特殊ジャンル小説」を部分Bとすれば、論理的にいって「小説」全体はA+B=Cである(A≠C)。つまり「一般小説」(多数)は「小説」(全体)ではない。
 しかし時に、この「(一般)小説」のカッコ内が欠落して、すなわち多数が全体にとって代わって語られることがある。この時、最初に挙げたような、「推理小説はそもそも小説なのだから、そのオモシロサはすべて小説のオモシロサに包含されるんじゃないか?」というような齟齬=疑問が産まれる。よくよく見れば、「推理」「小説」という時の「小説」とは、「(一般)小説」のカッコ内を欠落させた語の用法であるようにも見える。この欠落には、これまで述べてきたような思考過程がおそらく働いている。たとえば「純文学」といわれて今、小説以外のものを思い浮かべる人はいない。しかしそれは男manという単語で人類manを表すようなものではないのだろうか。
 多数を全体として捉える(少数を全体から切り捨てる)、という錯誤は誰しも日々ありがちなことだ。たとえば私は「文学とは何か」といえば「小説」が真っ先に思い浮かぶ。しかし実際には「文学」には詩歌や演劇や随筆など膨大な他の領域がある。たとえば「小説とは何か」といえば「物語」というものが思い浮かぶ。しかし実際には「物語」は映像やコミックや戯曲などその他の媒体でも扱えるものだから、「小説」の必要条件ではない(物語がない小説もある)。……このように注意して考えれば自明なことが、ともすれば文学=小説=物語という式があたかも真理であるかのような不可視の公式として働いている場面に出くわすことがしばしばある。
 たとえば数年前、「ライトノベルは文学か」という座談会が「炎上」したことがあった。
 これは図書の分類法(日本十進分類表・NDC)でいえば、すべての「小説」は「文学」なのだから、当然、ライトノベルはすべて文学である。現実に図書館に行けばライトノベルはすべて文学コーナーに置かれてあるので、「ライトノベルは書店ではコミックと一緒に並べられることも多いのだから726.1(漫画.劇画.諷刺画)に置け!」などとクレームを言ってみても始まらない。実際、先の座談会でいう「文学」とは一貫して「純文学」のことなのだ。つまり「(純)文学」=「文学」という、部分の全体化が不可視の公式として「ライトノベルは文学か」という疑問文には働いており(文中に「文学(純文学)」という表現がある)、そこに齟齬がある訳で、これを最初から「ライトノベルは純文学か」と言い換えていれば答えはまた違ったものになっただろう。
 *
 では「小説」の必要条件、言い換えれば、これを抜くと小説でなくなってしまう、というような条件とは何なのか。そう考えると、その要件は答えに窮するほど少ない。辛うじて思いつくのは、フィクションを扱う文字記号の直列的な集積……というようなことでしかない。もちろんフィクションを扱わない「小説」も、直列的でない「小説」もあるが、ここでは仮にそうだとしておく。すると「小説」の面白さ、言い換えれば、「小説」にしかない面白さ、とは「文章や語りのうまさ」だとかにしか求められなくなってしまう。もう一点、表現しづらいものとして、媒体的特性が挙げられる。小説では魅力的に映った会話などのやりとりが、実写化されると途端に薄っぺらいものに見えてしまう、ということがある。逆に、魅力的な映像がノベライズ化されると(どうも違う……)と思われることがある。そうした、媒体自体の持つ固有性。
 たとえてみれば、「小説固有の面白さ」とは、汁物における「出汁」のようなものなのだろうか。「出汁」は「出汁」だけ味見してみても確かに旨い。しかしそれだけでは完成品としての「料理」にはなりえず、「出汁以外」のものと組み合わさることによって「料理」になりうる。「出汁以外」は「出汁以外」で、それだけで調理できないことはない。しかし、やはり何かが足りない。「出汁」と「出汁以外」が組み合わさることで「出汁料理」になる。ここで「出汁以外」とはたとえば「物語」にあたる。「出汁(小説の固有性)」を欠いた「物語」は、それだけで成立しなくもないが、しかし「小説の面白さ」と呼ぶには何かが足りない。というか、下手をすると、同じ物語を扱った「映像」の方が面白い、ということにもなりかねない(映像>小説というヒエラルキー)。しかしいくら上モノだけで旨いからといって、ベースの鰹出汁をマギーブイヨンに置き換えてしまっては台無しになってしまうものが、「小説」には、あるのだ。
 先の図を流用すれば、「小説の面白さ」(全体C)とは、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)が組み合わさって成立するものなのだろう。しかしそうすると、「推理」は「物語」同様、「小説」にとっては「小説以外でも扱える面白さ」(A)にあたる、ということになる(映像やコミック、場合によっては評論でもそれは表現可能だから)。ならば、「推理」「小説」というあの分類は正しいのだろうか(「推理」=上モノ/「小説」=ベース)。

 だが、〈「推理」小説か推理「小説」か〉という評言においては、より事情がこみいっている。このときいう「小説」とは、「(一般・非推理)小説」のことであり、「小説にしかない固有の面白さ」(B)と「小説以外でも扱える面白さ」(A)の双方を含み、その上で、Aから「推理」(D)を排除したものを「小説」と呼んでいるのだ。

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 なおかつ、そのような場合に「小説の面白さ」というとき、「小説にしかない固有の面白さ」(B)が前述したように厳密な意味で意識されていることはおそらくほとんどない。その「面白さ」とは、「物語性」とか「読者の目を意識しているか」とか、「小説以外でも扱える面白さ」(A')にあたるものを指してそういっているのではないか(「小説」よりも「読み物」の方に力点がある、というぐあい)。
 もちろん他方で「推理の面白さ」といってもそれは一筋縄にはいかない。ここでは「推理」をとりあえずカッコに入れて「小説」の方をごく簡単に「小説の固有性」と「それ以外」に腑分けしてみた。上のように考えてくれば、「推理小説の面白さ」とは、「推理」と「小説の固有性」と「小説以外でも扱える面白さ」から成り立っている。しかも、その「面白さ」全体は、おそらく加算(+)ではなく乗算(×)のような関係にあって、ある一作品のどこをどう簡単に取り外すというふうにはいいづらい。というか、ここまで書いてきたものの、そもそもやはりそんな簡単に「推理」と「小説」が分離できるのだろうかという疑いが拭いきれない(これが「探偵小説」とか「ミステリ」とかなら、これほどスッキリとは分割できそうにない)。もともと「推理」も「小説」も別個に独自発展してきたのではなく、よくよく俯瞰してみればゴチャゴチャと絡まり合ってまったくワケガワカラナイのだから、私としてはまだまだその中でウダウダと行き泥んでいるしかないのだろうけれども。