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襤褸は着ててもロックンロール

文学フリマ東京参加についての情報

 次回の文学フリマ東京に出店しますので、お知らせいたします。

【日時】
2019年5月6日 11時~17時

【場所】
東京流通センター 第一展示場 オ‐23

【サークル名】
立ち読み会

【頒布物】
『立ち読み会会報誌』第二号(特集・殊能将之〔その二〕)

(既刊『第一号(改訂再版)』とペーパーも持っていきます。)

【内容】
はじめに――殊能将之における「引用」概念
第一部 『ハサミ男』の参考・引用文献
第二部 『美濃牛』の参考・引用文献
第三部 『黒い仏』の参考・引用文献
ボーナストラック「辺鄙な土地(OUTSIDE WORLD)」
編集後記

【判型】
ノベルス版二段組

【ページ数】
166ページ

【価格】
千円

【部数】
70部程度

【表紙デザイン】

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 以前にも書いたように、今回は前号の続きというか、『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』の「参考・引用文献」特集です。

 二百冊くらいある本を熟読したり走り読みしたりしながら、参考・引用されている箇所を特定しようというものです。だいたい90%くらいは特定していると思います。

 インタビューもないので前号以上にニッチな内容ですし、辞書みたいな体裁になってしまったので、やりながら(これ、誰が付き合ってくれるんだ……)という疑念に悩まされましたが、何もなければ当日、印刷物が届くと思います。サンプルを上げておきますので、よろしければ御覧ください

『立ち読み会会報誌 第一号(改訂再版)』のBOOTH通販情報

既刊『立ち読み込み会報誌 第一号(改訂再版)』をBOOTHで通販することにしました。
まだお持ちでなくご希望の方は、何卒よろしくお願いいたします。

【目次】
序 立ち読み宣言
巻頭インタビュー 磯達雄氏に聞く
第〇部 二〇一三年三月三十日~四月三日
第一部 『ハサミ男』を読む
第二部 『美濃牛』を読む
第三部 『黒い仏』を読む
追記 ポー・ラヴクラフト殊能将之
改訂再版のためのボーナストラック
編集後記

https://anatataki.booth.pm/items/1053346

あと自分が参加した『ハサミ男』二次創作アンソロジー『臨床殺人学概論』(笹木志咲紫さん主宰)も同サイトで通販中のようですので、よろしければドウゾ。

https://sakishi.booth.pm/items/1027549

[2019年5月8日追記]
おかげさまで第一号の紙版、初版・改訂再版ともに完売しました。お求めいただいた皆様、ありがとーございました。重版については未定です。

『集英社世界文学大事典』『あしながおじさん』

集英社世界文学大事典』(集英社
→全六巻。一九九六‐九八年刊。一~四巻が人名、五巻が事項、六巻が索引、という大冊。これも本文中に指標がないので、『フィネガンズ・ウェイク』と並ぶ特定難易度かも。さすがに全部読み通すのは無理なので、まず世界文学的な話題に見当をつけようと思いました。しかしフト思い浮かんだのが……例のビルマシャーロック・ホームズ、『探偵マウン・サンシャー』です。

「知ってますか? 現ミャンマー、昔のビルマにシュエダウンという作家がいたそうでしてね。(……)二十世紀初頭に、シャーロック・ホームズビルマ語に翻案したんですよ。登場人物はビルマ人、舞台もビルマに置き換えてね。『探偵マウン・サンシャー』というタイトルです。(……)マウン・サンシャーを無理やり日本語に訳せば、『サンシャー大兄』かな」
「そのサンシャー大兄がホームズなんですね」
「そうです。この翻案は読者に熱狂的に受け入れられ、大反響を呼んだらしい。今でも読まれているというから、たいしたものです。よほど面白いんでしょうね。(……)誰か翻訳してくれとは言いませんが、どういうふうに翻案されているのか、是非知りたいですね。ドクター・ワトスンはなんていう名前なんだろう」

 作者はおそらく、この直前に邦訳がなされていたことをご存知なかったのではないかと思いますが、ではどこでそれを知ったのだろう。もしかすると例の事典に載っているのではないか。するとありました(第二巻)。必要なところを抜き出せば。

シュエウダァゥン Shwe U Daung/1889.10.24‐1973.8.10/ミャンマービルマ)の小説家。マンダレー出身。少年時代イギリス植民地化のビルマで仏教寺院学校、ミッションスクールに学び、仏教、キリスト教両思想の影響を受ける。(……)当時1900年代初期のビルマでは、ジェムス・フラヂョーが『モンテ=クリスト伯』の翻案小説を著すなど、西洋近代小説を模倣したビルマ近代小説の萌芽期であったが、〔シュエウダァゥンの〕『ヤンヂーアゥン』も、イギリスのジョージ・W.M.レノルズ原作『ロンドンの秘密』『ロンドン宮廷の秘密』を素材にした翻案に近い作品である。21年、アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの冒険』の翻案小説『探偵マァゥン・サンシャー』Son daouk Maung San Shâを著し、原作の舞台背景をすべてビルマ風に換骨奪胎、熱狂的な読者を得、小説が大衆化する契機となった。(……)

 でもこの項目、あまり他と繫がっていないんです。索引巻に『シャーロック・ホームズの冒険』の項目はあるんですが、この頁番号は載っていない。だから、索引からこのシュエウダァゥンには辿り着けない。だとすると(もし『世界文学大事典』が先のシーンで参照されたという推理が正しいとすると)、まずどこか別の場所で『マウン・サンシャー』を知り、その後にこの事典を引いた、ということになるのではないでしょうか(会話文ではまず作者名の表記が違うし、「今でも読まれている」など事典にない情報も盛り込まれているので)。
 二十年前(執筆時の一九九八年)だと今よりも格段にウェブ検索で得られる情報は限られていたはずなので、その名残りをとどめている……という感じもしますね。今だとウェブの方が情報が多い場合もあるから、そうすると【参考・引用文献】の書き方自体に変容を迫られていたかも(じっさい、法月綸太郎先生は近著でよくネット上の情報も参考にしたけど巻末で挙げるのは省略した、と書かれています)。

 

ジーン・ウェブスターあしながおじさん』(谷川俊太郎訳、世界文学の玉手箱①、河出書房新社
→原著は一九一二年刊。孤児院育ちのジルーシャ・アボットは、ある人物に見初められて大学の学費援助を受けることになるが、それには条件があった。毎月一度、その支援者に生活の様子を報告する手紙を送ること(支援者からの返信はない)。その学生生活+卒業後の手紙を集成した書簡体小説ですが……引用部は「ハイネ」に続くシーン。

「あたし、モナ・リザの絵も見たことないし、シャーロック・ホームズって名前も聞いたことなかったんです」
「なんのことだ」
 わたしは、医師のニューハーフのような話し方に、背筋が寒くなった。
「きみはウェブスターの『あしながおじさん』を読んだことがないのかね。あれを読むと、昔のアメリカの女子大生のガリ勉ぶりと読書熱がよくわかるわかるよ。なにしろ、主人公はベンヴェヌート・チェリーニの自伝まで読んでるんだから」
 ベンヴェヌート・チェリーニとは誰か、と訊くのはやめた。

 原文は二箇所にわかれていて、

わたしは〈マザー・グース〉も、〈デヴィッド・コパフィールド〉も、〈アイヴァンホー〉も、〈シンデレラ〉も、〈青ひげ〉も、〈ロビンソン・クルーソー〉も、〈ジェイン・エア〉も、〈不思議の国のアリス〉も、ラドヤード・キプリングも読まずにそだった。わたしはヘンリー八世が何回も結婚したこと、シェリーが詩人だということを知らなかった。人類がかつてはサルだったということも、エデンの園が美しい神話だということも知らなかった。R・L・Sっていうのはロバート・ルイス・スティヴンスンの略で、ジョージ・エリオットは女だということも知らなかった。わたしは〈モナ・リザ〉の絵を見たこともなければ、シャーロック・ホームズという名まえさえも聞いたことがなかったんです(ほんとにほんとの話)。

 もう一箇所。

小説を十七さつと、詩をあびるほど読みました――〈虚栄の市〉や〈リチャード・フィーヴァレル〉や〈不思議の国のアリス〉は読んどかなきゃいけない作品だし、ほかにもエマスンの〈エッセイ集〉、ロックハートの〈スコット伝〉、それにギボンの〈ローマ帝国史〉第一巻、ベンヴェヌート・チェリーニの〈自伝〉――チェリーニってけっさくな人ね。ぶらっと散歩にでて、ちょっと人殺しをするなんてのが朝飯前なんですって。

 桃尻語というのかなんというのか、語り手のジルーシャ(愛称ジュディ)の女子大学生とは思えないくらいきらっきらとした語りがまぶしすぎて、なかなか平静な気持ちでは読み進められません(しかもジュディは作家志望者で在学中に商業出版する)。で、フト思ったんですが……【以下『あしながおじさん』の趣向に触れます。】『あしながおじさん』には一種の叙述トリックが仕掛けられています。それは、ジュディの支援者は実際には「おじさん」ではないというところです。トリックは冒頭から示唆されています。「おじさん」が孤児院にやって来た時、ジュディは彼を眼にするのだが、ちょうど逆光になっていて顔は見えず、光を背に長く伸びた脚の影だけが印象に残る。ジュディはその後、手紙の中でさんざん「あなたは禿げてますか?」とかなんとかいってからかいます。多くの読者も彼は「おじさん」だと思う(タイトルにもそう書いてある!)。だから、「おじさん」の正体が実は身近にいた青年だったというラストは「どんでん返し」として機能する……(そういえば時期的にはちょうど映画『ユー・ガット・メール』が同じことをやっていた頃ですが)。

 私が何を思ったかというと、こういう読者にとって嬉しいどんでん返しというのは、作者のトクになるんじゃないでしょうか。ぜひ蘇部健一先生にパスティーシュしていただきたい。

 

 

 

 

 

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」/アンドレ・ジッド「テセウス」

今日は『美濃牛』です。

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」(『島尾敏雄全集・第二巻』所収、晶文社
島尾敏雄には私小説や戦争小説のほか、夢で体験したことを再構成したような幻想小説の一群がある(ずーっと書き綴っていたという夢日記ノートをネタ帳にしていたと思われ、その名も「夢の中での日常」「夢屑」といった短篇から、『夢日記』『記夢志』といった日記体のものもある)。本作はその一篇で、国書刊行会刊の『日本幻想文学集成』にも収められている(編者は種村季弘)。
 しかしここでは、「ラビリンス」という語よりも、島尾敏雄・ミホ伝説の方に重点が置かれているのではないかと思う。かいつまんで書けば。太平洋戦争末期、九大文科卒業生の敏雄は、第十八震洋特攻隊隊長として奄美加計呂麻島に赴任。島の実力者の娘で小学校の代用教員だったミホと出会う。一九四五年八月十三日、特攻隊に出撃命令が下るも翌日、翌々日に延期。即時待機状態のまま十五日正午の敗戦を迎える。やがて敏雄の神戸の実家に移住し二人は結婚、敏雄は作家活動を開始するが……そこからは後は『死の棘』の世界です。八月十五日前後の緊迫――絞首刑を前にしたドストエフスキーの意識をさらに引き伸ばしたような――の様子は島尾ミホ「その夜」などに詳しく書かれており、それを収めた『海辺の生と死』の中公文庫版解説「聖と俗――焼くや藻塩の」で吉本隆明はこの二人の道行きを「聖」(戦時中のドラマティックな恋愛)から「俗」(散文的な戦後の日常)へとしていますが、そういう見立てにはテーセウス・アリアドネ伝説が重ねられていたような気がします(そうした捉え方に異議を唱えたのが梯久美子『狂うひと』新潮社、二〇一六ですが)。

アンドレ・ジッド「テセウス」(若林真訳、『若林真個人訳アンドレ・ジッド代表作選4・レシ第2部』所収、慶應義塾大学出版会)
→一九九九年刊(全五巻。原作の発表は一九四六年)。ジッド最後の作。テーセウスが自分の人生を亡き息子ヒッポリュトスに向けて(女遍歴を混じえて)語る中篇。ジッドは昔からテーセウスについて書こうという意図があったらしい(一九三〇年には戯曲「オイディプス」も書いている)。
 テーセウス伝説については様々なバリエーションがあるが、本作ではけっこう思い切ったエピソードの取捨選択がされている(以下、必要と思われる箇所のみ紹介する)。まずアリアドネについては、本作では常に邪魔者として描かれている。テーセウスにはロリコンの気があって(?)、アリアドネの妹のパイドラ(まだほんの子供だ)の方を見初めてしまい、アッサリとミノタウロスを倒した後は、いかにミノス家を騙くらかしてパイドラを島外に連れ出すか、が中盤の中心。で、パイドラをアテナイに連れ帰って育てて(ほとんど光源氏みたいなノリですね)妻とするのだが、前妻との間にできた息子ヒッポリュトスにパイドラは恋してしまう(やっぱりテーセウスとは歳が離れすぎていたのだ)。このあたりの三角関係の描き方はラシーネの『フェードル』(フェードルとはパイドラの別読み)を踏まえているようだ。テーセウスは実際にはポセイドンの息子なので、ポセイドンに祈祷しヒッポリュトスを呪い殺す(それを受けてパイドラも自殺する)。その後、アテナイを治めて王としての評判が高くなると、そこに放浪のオイディプスが娘アンティゴネとともにやってくる。このオイディプスとの対話が最終部のメインで、テーセウスは、自分はオイディプスに比べると格負けしてるよな……と感じる。オイディプスとテーセウスの境涯(特に母子恋愛の三角関係)を比較すると興味深いですねえ。
 全体が死んだ息子ヒッポリュトスに向けた一人称の語りになっているというのがクセモノで、ジッドがどこまで意図していたのかは知らないが、絶えず自己弁護をし続けずにはいられないここでのテーセウスは、かなり尊大な嫌味なヤツだと思う。カズオ・イシグロの『浮世の画家』や『日の名残り』あたりに近い感じを受ける。

 

ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』『フィネガンズ・ウェイク』

ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』(安藤一郎訳、新潮文庫
→引用部は「わたし」がカーテンレールでの首吊りに失敗し、目が覚めると雪が降っていたというシーン。

「雪は首吊り自殺に失敗したハサミ男の横たわるベランダに降っている。聞き込みに歩きまわる哀れな刑事たちの上にも降っている。悲しみからまだ立ちなおれない家族の住むデゼール碑文谷の屋上にも降っている。私立葉桜学園高校のポプラ並木の赤煉瓦道にも降っている。学芸大学駅前の喫茶店〈おふらんど〉の窓にも降っている。誰もい ない鷹番西公園にも、今日も誰かの葬儀がしめやかにおこなわれているであろう春藤斎場にも、そして、どこにあるのか知らないが、樽宮由紀子の眠る墓の上にも降りつもっている」

 元文は連作短編集の最終編「死者たち」のラストより。短篇の主人公ゲイブリエルが眠りにつく(?)シーン(いま手元に新潮文庫改訳版の柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』しかないので、その「死せるものたち」からですが)。

自分も西へ向かう旅に出る時が来たのだ。そう、新聞の伝えるとおりだ。雪はアイルランド全土に降っている。暗い中央平原のすみずみまで、立木のない丘陵に舞い降り、アレンの沼地にそっと舞い降り、もっと西方、暗く逆立つシャノン川の波の上にそっと舞い降りている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の上に、実のない荊の上に、ひらひら舞い落ちては厚く積っている。雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていた。

ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ』(柳瀬尚紀訳、河出書房新社
→これは本文中での指標がまったくないので、たぶん最難関なんじゃないでしょうか。私も全然わからず、フト「フィネガンズ・ウェイク ハサミ男」でググったら、なんとヤフー知恵袋で特定されている方がいました。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

(Q)2017/10/808:00:06 「ハサミ男」(殊能将之)引用・参考文献でフィネガンズウェイクの名がありましたが、どこで使われているのでしょうか?

(A)2017/10/821:22:41 探してみました。『ハサミ男』の11章で主人公がテレビを見ている場面で、太字で書かれている部分が引用だと思います。わたしの持っている版では、以下が似ていました。ハサミ男:118ページ「おお、聞かせておくれよハサミ男のことを」「なにもかも話してハサミ男のことを」「ね、ハサミ男を知ってるでしょ?」「ええ、もちろん、あたしたちはみんなハサミ男を知ってるわ」「なにもかも話して」 フィネガンズ・ウェイクⅠ・Ⅱ:196ページ おお話しておくれよ アナ・リヴィアのことを!なにもかも聞かせて アナ・リヴィアのことを。ね、アナ・リヴィアを知ってるでしょ?ええ、もちろん、あたしたちはみんなアナ・リヴィアを知ってるわ。何もかも話して。〉

 マジか……。
 ウーン……でもここだけなのかなあ……(原文は「Ⅰ」の終盤〈O tell me all about Anna Livia! I want to hear all about Anna Livia. Well, you know Anna Livia? Yes, of course, we all know Anna Livia. Tell me all. Tell me now. )。
 まあ単にフレーズのイタダキではなくて、古典にテーマを沈めるという手法にも近しいところがあるので、踏まえているとは思いますが……。

 

ダブリン市民 (新潮文庫)

ダブリン市民 (新潮文庫)

 

 

 

フィネガンズ・ウェイク〈1・2〉

フィネガンズ・ウェイク〈1・2〉

 

 

『ハイネ散文作品集』(松籟社)

『立ち読み会会報誌』第二号は『ハサミ男』『美濃牛』『黒い仏』の「参考・引用文献特集」の予定ですが、文フリまで全然時間がないことが判明したので、とりあえず「こういう感じで書いてます」というサンプルと草稿代わりを兼ねて、取り急ぎまとめたものをこれからいくつかここに載せていくことにします。

『ハイネ散文作品集』(松籟社)→全六巻。引用部は煙草を煮詰めたニコチンを飲んだ後に目覚めるシーン(「13」)。

ハインリヒ・ハイネは、雲の上に天国があるのなら、どうして金貨とか宝石が降ってこないのか、降るのは雨だけじゃないか、天国は水っぽいのか、と書いてるね」と、医師が言った。ハイネの名前くらいは、わたしでも知っているが、ロマンティックな詩人という印象しかなかった。医師の言うような皮肉な台詞を吐くだろうか。これも噓かもしれない。真偽のわからない引用をひけらかすのは、医師の悪い癖だった。

 ハインリヒ・ハイネ(一七九七‐一八五六)はドイツ出身のユダヤ系の詩人。原文はおそらく、第五巻「シェイクスピア論と小品集」所収の「箴言と断章」と題された短文集より。

人は、私が宗教をもたない、と言って非難した。そうではない、私はそのすべてをもっている、私はブラーマが……等々と信じている。/私がけっして天国を重んじてこなかったことは、本当であり、それもきわめて重要な理由がある。草地に仰向けに寝転び、そうして天国の豪華絢爛を思うとき、たびたび私は考えるのだ、いったいどうしてほんの一カケラも素晴らしい物が落ちてこないのだろう、たとえば時計の金バンドとか、ケーキなどなど――代わりに落ちてくるのは水ばかり――水っぽい天国――〔一八二六年〕

 ハイネは森鷗外上田敏、片山敏彦などの訳で日本でも知られている。「わたし」がいう「ロマンティックな詩人」という印象は、たとえばポピュラーな新潮文庫版『ハイネ詩集』の惹句(「祖国を愛しながら亡命先のパリに客死した薄幸の詩人ハイネ。甘美な歌に放浪者の苦渋がこめられて独特の調ベを奏でる珠玉の詩集」)などを読むとそのように受け止められるかもしれないが、上記『散文作品集』に収められた批評やジャーナルを読むと、相当舌鋒鋭くシニカルで喧嘩っ早い人です(ヘーゲルの弟子で、マルクスエンゲルスとも親交があった)。

 ハイネの立ち位置はよくよく見るといかにもセンセー好みというか、けっこう複雑だ。まず、ユダヤ人というアイデンティティがあり、かつ、ドイツ的なもの/フランス的なもの/イギリス的なもの、の狭間で彼は書いている。

 時はフランス革命直後の時代。反動的なドイツ政府にハイネは批判的で、何度か検閲や発禁処分を受ける。身の危険を感じてフランスに亡命するが、そこではスタール夫人の『ドイツ論』が流行。そこでハイネはジャーナリズムの求めに応じて「あーた達は本当のドイツというものをわかってないッ!」と啖呵を切って「ロマン派」や「ドイツの宗教と哲学の歴史」などのドイツ論をフランス人向けに書く(ルートヴィヒ・ティークなんかは結構ケチョンケチョンです)。一八四八年からは脊椎の病で寝たきりになりながら旺盛な執筆活動をしたというから、そのあたり、医師は正岡子規と重ねて捉えていたのかもしれない。
 ちなみにハイネにも「ファウスト博士」(一八五一)という舞踏詩がある(邦訳は内垣啓一訳、『ドイツの文学』第二巻「ハイネ」所収、三修社、一九六六)。学生時代の友人には「ゲーテと張り合うつもりなんかじゃないんだ。誰もがファウストのような作品を書くべきなんだよ」と語っていたそうです(一條正雄「ファウスト最後のモノローグにおける「瞬間」について」、「岐阜大学教養部報告」23号)。

 このあたりに、『ハサミ男』におけるファウストの主題、というのを感じますねー。

 

シェイクスピア論と小品集 (ハイネ散文作品集)

シェイクスピア論と小品集 (ハイネ散文作品集)