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襤褸は着ててもロックンロール

「宇宙人問題(ミステリの推理が常識外の可能性を無視する問題)」にかんする雑感

本を読まない弟に「殺人事件で全部宇宙人の仕業でした、みたいな可能性を無視できるのは何で?」と言われた - Togetter

 話題になっていたので、読んでみた。が、まとめられていない呟きも多くあり(直接言及しない人も多かった)、そちらの方に面白いコメントが色々あった。以下は、それを読んでの雑感。

 いわゆる「宇宙人問題」みたいなことは、ミステリを読み始めたぐらいの頃なら、結構な数の人が考えたことがあるのではないか(私も高校生くらいの頃によく考えた)。これは確かに難問。が、今ではそのギモンを展開してゆくうえで、いくつかの取っ掛かりがあるので、それを書いてみる。

 

1.常識(「可能性の無視」は「常識」が決める)

 まず、逆に「なぜ(ミステリに馴染み始めた頃の私のような読者は))『宇宙人問題』のような疑問を持つのか?」という問いの立て方をしてみたい。

 思うにそれは、フィクションが、いわゆる「現実」よりも自由度が高いように感じられることへの、慄きのような感覚から生じるのではないか? つまり、「なぜAであってBではありえなかったのか?」「なぜBでありうる(ありえた)にもかかわらず、Aは平然とBを無視してAでいられるのか?」という、作品内現実の在り方に対する、無根拠さへのおそれ、疑い。

 この疑問への応答としてよく持ち出されるのは、「オッカムの剃刀」のような考え方ではないか(あるいは、実際の司法でいうなら、「合理的な疑い」のような考え方がある)。しかしそれにしても、推論を進める上での経済的な判断の立場であって、確かに、「それ以外の可能性」を完全には否定していない。とはいえ仮に、もし自分が現実に事件(刑事事件)に巻き込まれたとしたら、極端な可能性を合理的に絞り込む「常識」の観点から、たとえば世界五分前仮説のような考えは否定されるし、司法では通用しないだろう。

 こうした「常識」は、問題解決というある目的のために「絶対的ではないが、その方が合理的である」というような判断が社会的に積み重ねられ、また個人の内にも生成してゆく感覚をさす。個人と集団との間で「ジャンルらしさ(そのジャンルに固有の感触)」を決めるものとして共有される感覚でもある。だから、「常識」が共有されていない段階では、「これ、なんで???」ということになる。まったく自由な観点からすれば、「常識」とは一面、不自由で不自然きわまりないものだから。しかし一方で、「常識」の側からすれば、「完全な自由」とは、「なんでもありうるがゆえに、(未だ)なんでもない」というフニャフニャ状態に見える。たぶん、ミステリの書き手(の話には、ここまで風呂敷を広げると、限らなくなってきますが)にとっては、「絶対的ではないが、その方が美しい」「その方が面白い」という「可能性の切り捨て」を積み重ねて具体化しゆく際の拠り所となる感覚が、「常識」なので、いきなり「なんでAはBじゃないの?」と訊かれると、(ウーム……)と、それを説明しようとする理路の、案外なヤヤッコシサに、驚きたじろぎ、一瞬考え込む、ということも、あるのじゃないかしらん? そして実際、「そういうもの」という実感がまったくない相手に、「そういうもの」として腑に落とさせる、ということは、これは相当な難題なのだ。

 

2.メタゲーム(「可能性の無視」を支える「常識」は変わりうる)

 1.の「常識」はいわばミステリに限らず「ジャンルのジャンルらしさ」の規定に関わるものだが、ここでは次いでミステリの「ゲーム」性について述べる。

 仮に、ミステリを、推理を核としたゲーム性を持つジャンルのことだとする。この「ゲーム性」には二つの次元がある。一つは、作品内現実として語られるそれ(いわば探偵対犯人)であり、もう一つは、作品自体をかたちづくる「語り」としてのそれ(いわば読者対作者)だ。この二つの次元の間には、微妙な空隙がある。

 推理ゲームにおいて「極端な可能性」が否定できない(だから疑問が生じる)のは、推理の前提が「ゲームのルール」として明文化されていないからではないか? だから作者がいちいち出てきて「ルール」を保証すれば、障害はクリアできる……かに見える。

 たとえばミステリを将棋のようなゲームだとすれば、ルールとは「そういうもの」なので、いちいち「なぜ香車はこのように動くのか?」などと疑問を持っていては遊戯できない。ルールがどうしても腑に落ちないならばゲームをやめるか、別のゲームをするか、別のゲームを発明すればよい(そしてミステリは将棋ではない)。

 ミステリは明文化されたルールによって完全に縛られたゲームではないが(「ナントカの十戒」などはしょせん「自粛要請」のようなものだ)、「暗黙の了解」のような擬似ルール的な感覚の拠り所となる「常識」は(「探偵対犯人」の次元においても、「読者対作者」の次元においても)、ある。

 そしてさらに、ミステリの各作品は創作物である以上、そのジャンルの「常識」を書き換えるメタゲームの側面をも含み込んでいる。

 上述の「常識」は時代や場所などの環境によって(作品の内でも外でも)、変わりうる。たとえば地球の現代社会が舞台なら、我々が普段見慣れたルールが「暗黙の了解」かもしれないが、ジャック・ヴァンス『宇宙探偵マグナ・リドルフ』のような宇宙社会なら、容疑者は最初から宇宙人。あるいは『星を継ぐもの』のようなバランスの場合もある。

 私は一読者として、「フェアプレイ」に重きを置いていると思うが、その拠り所となる感覚も、ある程度は環境に依存している。たとえば「特殊設定」ものなら、ルールを適度に明文化した上で読者の盲点を突きルールをハックするような成り行きであれば、宇宙人だろうと幽霊だろうと「フェア」に感じると思うし、あるいは先鋭的な作品を読んで(ウームこれは……)と首を傾げながら、何年か経った後に読み返してその意外に緻密な組み立てぶりに、納得させられた、「常識」を書き換えられた(あるいは何年か経つうちに自分も周囲も変わっていた)、ということもある。

 

3.応答(「可能性の無視」を支える「常識」を変えるメタゲームは、「可能性の無視」への批判に応答して行なわれる)

 2.で創作物としてのメタゲーム性ということを書いた。もし創作されたミステリがゲームであるとすれば、そこには「勝ち負けをつける」とか、「先行作の課題を乗り越える」というような、何らかの目的があるのではないか。

 あらゆる小説が何らかの意味で、方法で、語られたものだとするなら、やはりその「語り」には、何らかの目的があるのではないか? 何の目的もない「語り」が小説として差し出されることがあるのか? あっても良いが、自分が小説としてそこに何らかの価値を見出すとしたら、やはり何らかの判断基準が必要になるだろうとおもう。

 小説の「語り」に何らかの目的があるとするならば、そこには巧拙(のようなもの)があり、「語りの経済性」を重視しないならしないなりの、別種の具体的な感覚があってくれないと困るのではないか。少なくとも「現実そのもの」と創作された「作品」には、それぐらいの違いはあるのではないか?

 「極端な可能性を否定できない」という批判を「常識」が完全には克服できないとする。正直にいえば、こうした身も蓋もない現実暴露には、私は折に触れ立ち返る必要があると思う。というのは「このルールはなんかヤダ」という身も蓋もない違和感に叱られるということがなければ、おそらくは、ゲームをやめることも、別のゲームを発明することもできず、最悪の場合はダラダラとした惰性が続くということも考えられる。

 しかし逆に、身も蓋もない批判の方も、「そういうものだから」という「常識」の息の根を止めるまでには至っていないのではないか? 作家の方はそうした批判を克服できないなりに織り込んで、あの手この手で書いてきたのではないか?

 つまり「宇宙人問題」は、批判内容(WHAT)としては良いが、批判方法(HOW)としては、そのままでは凡庸すぎて弱いのではないか? 少なくとも、今『陸橋殺人事件』のような作品が書かれたとして、私は心動かされないと思う。せめて『虚無への供物』ぐらいには手が込んだ批評でないと困るような気がする。

 先に「AがAであるのはそういうものだから」という判断を支えるのは、「その方が美しいから……」「その方が面白いから……」として可能性を切り捨ててゆく「常識」の感覚、ということを書いたが、とうぜん個人の内には、「美しくない方が良い」「面白くない方が良い」という判断もありうる。しかしその判断も、表現された途端に「その方がリアルだから……」「その方が高度に戦略的だから……」「美しくない方が美しいから……」というような理路となって、ジャッジされうるのではないか。

 

 

 ……というようなことを、昨日つぶやいたので、まとめてみたのですが、しかし読み返してみると、これらは1.2.3.とも、どういうジャンルにおいてもあてはまるようなことであり、特にミステリに限ったことではないかもしれない。私の文章に抽象的で地に足のつかないフワフワしたところがあるとすれば、それはミステリに特有の、というか、話の本丸のはずの、「推理」にまったく踏み込んでおらず、その外面をグルグルめぐって終始していることからくるのかもしれない。つまり、ジャンル論と推理論を混同して書いてしまったのかもしれない(冒頭のtogetterでジャンル論の話が多かったので、それに引きずられたのだろうか)。

 話の本丸の「推理」の方は、もっと色々参照して学びたいと思っています。

 以上です。

加藤典洋『完本 太宰と井伏』

 

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1

 この著は文芸評論だが、太宰治の死の謎をめぐる一種の文学ミステリといってよく、興味ふかく読んだ。
 本の存在自体はずいぶん前から知っていたが、題材自体はありふれているように感じられ(タイトルも地味だ)、しかしそんな先入観は読み始めてすぐ、木っ端微塵に吹き飛んだ。「こんな本であると知っていたなら、もっと以前に読みたかった……」とも思うが、しかし今でよかったのかもしれない。これはいわばミステリの「解決編」であり、「問題編」である太宰治井伏鱒二の関係について色々知らなければ、腑に落ちる具合はもっと浅いものになっていただろう。加えて、その他の加藤本を読んでいなければ、ボリュームに比しての奥行きを感じることはたぶん、なかった。

 

2

 冒頭は『人間失格』再読。著者(加藤)はそれまで、太宰の死に関して、世間的な通念、つまり、「太宰は本当はそれほど死ぬつもりはなかったが、たまたま心中が成功し、死んでしまった」くらいにしか思わず、深く考えずにすませてきた。しかし『人間失格』を読むと、いかにも「最後の書」というにふさわしく、こんなものを書いた人間がそう長生きして作品を量産できるはずがない。また人物設定に関する違和感、猪瀬直樹ピカレスク』(および川崎和啓「師弟の訣れ」)に教えられたことなどからも合わせ考え、太宰の生涯の検討が始まる。
 太宰の作家としてのキャリアは、四度目の心中未遂(1937年)と五度目の心中(1948年)のあいだで、切れている。その間、作家として「復活」し、安定し、1947年半ばくらいまで充実期にあった。ところがそこから「暴走」が始まり、半年ほどで死に至る。作家としてのキャリアが短いぶん、太宰は常に奔放な生活を送っていたものだと(私も)思い込んでいたが、よくよく見ると「断絶」がある。「復活」の原因はなんであり、また再び「暴走」する原因はなんだったのか。……これが主な「謎」ということになる。
 太宰の生涯と作品を検討する鍵として、「後ろめたさ」が召喚される。太宰は金持ちの家に生まれたことが後ろめかった。これが若年期の「暴走」を読み解く鍵となる。そして生家が没落することでようやくその「後ろめたさ」は消える。しかし若年期の「暴走」はすでに、また別の「後ろめたさ」(一緒になった女性の死など)を引き起こしていた。この「後ろめたさ」につきまとわれることが、一方では創作の、一方では「暴走」の動因となる。
 このように、本書の主役は太宰であり、井伏はいわば脇役。しかも論点は「太宰の死」の一点に集約されるから、二人の作品をじっくり読み比べる、というようなものではない。しかし実はこの「謎」の設定にこそ、著者の他の文芸評論に、戦後論に、通じる核がある(だからこそ、類書が多いと思われるテーマについてあえて書いたはずだ)。

 

3

 私が加藤本を初めて読んだのはこの十年ほどのことなので、デビュー以来の評価については詳しく知らないし、他の読者がどう考えているのかよくわからないのだが(悪評のほうは多少知っているが)、「後ろめたさ」は太宰にかぎらず、文学にせよ、思想にせよ、「戦後」を論じるうえで、加藤が核とした概念だと、私はおもう。この「後ろめたさ」には幅があって、そこがおそらく加藤の論のわかりにくいところでもある。「後ろめたさ」を含むより広い意味のキーワードとして、「弱さ」がある。自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること。ものすごく大雑把にいえば、この倫理にすべてが賭けられている。しかし単に「自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること」とえいえば、実に他愛なく、ギマン的にも映るかもしれないが、そう簡単ではない。「自分の〈弱さ〉を認め、〈肯定〉すること」は、ふつうの人間には不可能、というか、日常生活をぶち壊すほど激烈な感情をもたらす行為であるから。
「後ろめたさ」とは、かいつまんでいえば、ある「悪い行ない」のおかげで自分は生きている、という「罪」の意識のことだとしてみよう。その「罪」の上に自分の生活がある。ふだんはそれを忘れて生きていられる。「忘れて生きていられる」というのは、「弱さ」である。だから他者からその「弱さ」を指摘されるとツラい。「暴走」してしまうほどにツラい。
 これは数年前、講演だったかで聞いた話だと思うが、そこで加藤はいわゆる「トロッコ問題」ブームを批判していた(うろ覚えなので話半分でお聞きください)。「トロッコ問題」は思考実験だから、「正解」はない。こうすればオールOK、なんの後腐れもない、という選択肢はない(もちろん、実際には「正解」がありうる、つまり問題が「ニセのトロッコ問題」である場合もあり、それについては解決の努力が極限までなされるべきであろう)。そして人間は時に「トロッコ問題」的な状況に巻き込まれることがある。その時、行動の主体となった人間は、事件から生き延びたあと、「後ろめたさ」に苛まれるだろう。それは他人からいかに倫理的に「その行為は許される」と判断されようと、本人にその「後ろめたさ」はどうしようもない。これを「許される」=「後ろめたさを抱えなくともよい」とする学があるとすれば、それはウソだ。どうしようもない「後ろめたさ」を抱え続けたまま、どうすれば生きてゆくことができるのか。それを考えるのは文学の仕事だろう、云々(つまり文学に「正解」=「後ろめたさを抱えなくともよい」という選択肢はない)。
 先に「罪」と書いたが、これは個人が主体として感じるもので、客観的には「悪い行ない」と判断されない場合もある。たとえば極限状況から生還した人(客観的に見れば被害者)が、死者に対し、「なぜあの人は死んだのに、自分は生き延びたのか……」という罪責感を覚えるということがある。これに対し「それは脳のエラーだ」とか「あなたは悪くない」などと単純に言っても、本人の「後ろめたさ」はどうしようもない。しかし「どうしようもない」とばかり言ってもいられない。この「後ろめたさ」をポジティヴに転換するには、もっと入り組んだ理路が必要になるだろう。
 私は十年ほど前、さしたる理由はないが「後ろめたさ」というものに捉えられ、これを解消する術がわからず、坂口安吾の「文学のふるさと」を読んで、あれこれと考え、ひとまず得心したことがあった。「モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります」という文言は、今でもよくわからないが、私はこれを次のように読み替えた。つまり、「救いがない」。だから苦しい。だから「救い」を求める。しかし結局「救い」はない。しかし「『救いがない』から『救い』を求めるものの『救いはない』から『救い』を求め続ける」ということ自体が「救い」になる、ということがある。「後ろめたさ」についていえば、「後ろめたくて苦しい」という考えから出発して、その苦しさを解消しようとする行為が何か多少なりともプラス(たとえば「文学」)になりうる、ということがある。もちろんそのプラスは「苦しさの解消」という理想の残骸でしかないのだが、しかし「理想の達成」は時に個別的なものである一方で、「理想の残骸」のほうがより普遍的に他人に届きうる、ということがある(そして時に、「理想の残骸」を求めて「悪い行ない」を為す、という転倒した考えを持つ人物もいる)。「解消しよう」と行為しているあいだは、おそらく「後ろめたさ」を本質的には忘れているかもしれない。それは「弱さ」である。しかしそういう「弱さ」があっても良い、というか、あったほうが良いのではないか。
 こういう考えは全然論理的ではないし、人を納得させもしないだろう。だから私はもっと丁寧に説明するべきだと思うが、今はとりあえず置いておく。

 

4

 この「後ろめたさ」というのは、同じ体験をして誰もが全員感じるというものではない。たとえば太宰(津島修治)と同じような環境に生まれたものの、太宰のようには感じなかった、という人物のほうがほとんどだろう。しかし加藤の考えによれば、太宰はこの「後ろめたさ」が呼びかける「声」に敏感だった(本書によれば三島由紀夫も)。「後ろめたさ」に敏感だからこそ、「暴走」し、さらに「悪い行ない」を重ねてしまう。そして「後ろめたさ」の底で、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」(「ヴィヨンの妻」)という一種の「開き直り」にぶつかると、復活する。この「後ろめたさ」と「開き直り」のバランスが取れると、作家として充実期に入る。単純に、「後ろめたさ」だけでも、「開き直り」だけでも、ダメ。両方を抱えていなければ、ダメなのだ(特に最初から「開き直り」一辺倒だと最悪だ)。「後ろめたさ」から出発し、「開き直り」にぶつかり、その両方を抱え続けるということ、おそらくそれが、加藤にとっての文学の条件なのではないかとおもう。
 これは、翻っていえば、加藤じしんも「後ろめたさ」に敏感、ないし、敏感であろうとした、ということではないかとおもう。
 たとえば、今年出た『村上春樹の世界』(講談社文芸文庫、2020)という文庫オリジナルの論集に、村上春樹の短篇「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の読解がある(『村上春樹は、むずかしい』岩波新書、2016という本でも同様の主旨の記述を読んだ)。一見つながりのない三つの断片でできたその短篇に、加藤は、同じく全共闘世代の村上の、若くして死んだ者たちへの哀悼の念を読み取る。村上も、加藤も、ストレートには、その「哀悼の念」を、いわない。しかし『太宰と井伏』や『村上春樹の世界』といった講談社文芸文庫の巻末に付されている年譜を見ると、何か学生時代に大きく考えを変更させられる体験があり、鬱屈した時代を経て、表現者として表舞台に出た、としか思えない。浅薄な推察を重ねれば、それは、「同じような体験をして、死んだ同級生もいたが、自分は生き残った」という「後ろめたさ」だったかもしれない。そしてその「後ろめたさ」が、「戦後論」につながったかもしれない。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の読解から、私はどうも、そういう感じを持つ。
 村上春樹についていえば、私は、ある事情もあって、その作品がよくわからない。「村上春樹の作品の背景には〈後ろめたさ〉がある」と整理しても(これはどちらかというと私の整理ですが)、グッと腑に落ちる感じがしない。「そうはいっても、なんかこう、肝心なところでいけすかないんだよな……」という感じがする。
 余談を重ねれば、2009年に「群像」で戦後文学回顧の対談(奥泉光高橋源一郎)があった。それは「戦後文学がいま、太宰から村上春樹ぐらいまでゴソッと忘れられている」という編集部からの指摘を出発点とするもので、その後同企画からは十年近くかかって佐藤友哉『1000年後に生き残るための青春小説講座』(2013)、奥泉光講談社文芸文庫編『戦後文学を読む』(2016)、高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(2018)という三冊が生まれた。私はこのことについて、2009年に座談会を読んで以来、これまで考え続けてきたのだが、いま乱暴に考えると、「戦後文学」の動因の一つに、「後ろめたさ」の共有(作者と読者の間の、意識的・無意識的な)があり、それが消えてしまったから、「戦後文学がいま、ゴソッと忘れられている」ということになったのではないかと思う。「後ろめたさ」とは、いわば「戦前から1970年代くらいまでの世代的な暴力の(振るった・受けた)記憶」であり、高橋源一郎奥泉光には(特に初期の作中にそれがあらわれているように)、共有されている感覚があるのだが、二人と佐藤友哉との間には、質的な違いというか、断絶を感じる。このように考えてくれば、加藤の「戦後(文学)論」とは、是非はどうあれ、「戦後日本」を「追悼の時空間」と捉え、「『後ろめたさ』が消えようとしている中で、それをどのように抱えた続けたままプラスに転じることができるのか」という問題意識だったのではないかとおもうが、そこからさらに四半世紀を経た現在、「後ろめたさ」は、ほぼ、消えた。今の純文学を「戦後文学」とは呼べないだろう。
 閑話休題。加藤は太宰と三島を「後ろめたさ」の声に敏感な作家だったと捉えている。この「後ろめたさ」(太宰の場合は棄てた・見殺した女性、特攻で死んだ若い友人など)に素裸で向き合うなら、とてもマトモな日常生活など送れない。だから、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という「開き直り」にぶつかり、バランスが取れているうちはいいのだが、「後ろめたさ」に傾くと暴走し、自死へと至ってしまう。その対象的な生き方として代表されるのが、タイトルにも表れている井伏鱒二で、有名な「井伏さんは悪人です」という太宰の遺言の読解を要約すれば、「井伏は『開き直り』に傾いている」ということになるとおもうが、加藤は太宰(後ろめたさ)と井伏(開き直り)、どちらの態度も否定しない。もちろん長生きしたぶん、最終的には井伏的な態度のほうをとるのだが、それは、井伏の中にも、太宰的なものがあったからだ(「後ろめたさ」抜きの「開き直り」だけで「文学」はできない)。「後ろめたさ」の声を聞くとは、「オレは死者を忘れないゾ」という追悼に代表される行為であるが、それは一面、デモーニッシュな行為に傾く危険性にも開かれていなければならない。つまり、それは単に安全な立場から「追悼してまーす」と口に出せば済むようなものではない。「仮にいま、死者が本当に蘇ったとしたら、オマエはその死者を本気で迎え入れることができるか」という、どちらかといえばドストエフスキー的な、かなりヤバイ「危険」のことであり、その「危険」を殺せば、「文学」もまた、死ぬ。『太宰と井伏』が考えようとしたのは、おそらくそのギリギリの地点であり、だから「ふたつの戦後」なのだろう。こういう話は、何も感じない人にとっては、本当に何も感じない、というか胡散臭い話だろうと思う(そして実は、私もその立場・感覚についてわからなくはない)。それがおそらく、著者の「わかりにくい」といわれる一方で、熱心な読者がいる部分ではないかとおもう。

 

5

 本書のいわば「文学的推理」は、太宰と井伏に直接証言がないぶん、年譜的事実と他のテクストから推測した「状況証拠」によるものであり、(ウーン、ホントかな)(ちょっとここは端折ってるな)と感じる部分もないではない。あくまでも加藤の関心に引き付けた読みではあるのだが、しかし私は動かされた。
 それはたぶん、本書が生前最後の著(文庫だが)となったことも関係しているだろう。『人間失格』は太宰の最後の作品の一つだが、『完本 太宰と井伏』はそのあとがきと年譜で、著者がかなり重い病の状態であると明らかにしたことでも目を引いた(実際、刊行から一週間もしないうちに亡くなった)。『人間失格』は主人公・大庭葉蔵の手記について、年上の小説家の「私」がコメントをつけるというかたちになっているが、『完本 太宰と井伏』は年下の評論家の與那覇潤の長い解説が付されている(つまり、「本文」と「解説」の書き手の関係が逆になっている。ついでにいえば、『人間失格』の脱稿日と本書の公式発行日が同じ5月12日で、ボリュームがともに同じく約200枚というのも、なんだか狙ったように暗示的だ)。その與那覇の「解説」に気になる記述がある。この文庫版には2013年の講演草稿「太宰治、底板にふれる――『太宰と井伏』再説」が増補されているのだが、それは本文とほぼ同じことを言っている、というのだ。実際、読んでみると、私も同じ感想をもった。
 その講演で加藤は、「太宰と井伏」の繰り返しになる部分があるが、として、太宰「姥捨」の読解に力点を置こうとしている。「底板にふれる」によれば、「太宰と井伏」初出時(「群像」2006年11月号)にはこの「姥捨」についての読解はなく、単行本で加えた。「太宰と井伏」を読むと、この「姥捨」についての読解は、ほとんど欠かせないものではないかと、感じる。ところが、単行本時点でも、加藤は「姥捨」読解をそれほど重視していなかったという。それが2013年、息子を亡くし、失意の中でも太宰についての講演を断れず、旧著を読み直すなかで、「姥捨」の読解がやはり重要だと思い、講演のなかでくりかえすことにした。「太宰と井伏」とは同じ素材を用いながら、違う調理の仕方をし、自分の太宰論について別の領域をひらくものかもしれない。とまでいう。しかし、にもかかわらず、やはり私には、この講演草稿は「太宰と井伏」と同じことをくりかえしている、としかおもえない。それくらい、「太宰と井伏」の論旨からいって、「姥捨」は重要な存在として登場する。だが、本人の見え方は、おそらく異なっていたのだろう。それがフシギだ。が、私はそのフシギさを大事にしたい。とおもった。

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

  • 作者:加藤 典洋
  • 発売日: 2019/05/12
  • メディア: 文庫
 

 

「ストレンジ・フィクションズ」のnoteアカウントが開設されました

note.com

「ストレンジ・フィクションズ」のnoteアカウントが開設されました。そこで次号の内容について予告されています。

 刊行は10月で、より詳しいことは決まり次第更新されると思います。正直なところ、自分の文章は読み返すのが苦痛であまりオススメする気になれないのですが(!)、他の方の作品およびインタビューはオススメです。

 一つ残念なのは、千葉集さんの短篇「風博士 vs フェラーリ」という作品が非常にすばらしいと思い本人にもそう伝えたのですが、作者の自己判断でボツにされてしまいました。刊行されたらぜひ人に薦めたいと思っていたのですが……(まあ上記のように私は自分が苦痛だと感じるものを販売するのに鈍感な一方で千葉さんは敏感だったということかもしれませんが)。読んでみたいという方は、〈#千葉集は「風博士 vs フェラーリ」を収録しろ〉Twitterデモなどでご意向をお伝えください。何か風向きが変わることがあるかもしれません。ないかもしれません。どうなるかは私にはわかりません。

 よろしくお願いします。

近況報告

 気づけば前回の更新から半年以上経ってました。

 この半年間、心身ガタガタだったり宿題が沢山あったりでブログどころではなかったのですが、世界的にも色々大変な状況になってしまいました。

 とはいえ流されゆくままというのもなんなので、いちおう諸々書きとどめておきます。

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 まず、去年参加した同人誌「ストレンジ・フィクションズ」の第二号が8月か9月に出ると思います。これは元々、今年2020年1月に文学フリマで頒布予定だったのが、参加者半分の原稿が完成せず落としてしまい、伸び伸びになっていたものです(その時のお詫びペーパーに寄稿した一文がこちらです)。私もこの半年間、世間を尻目にこの企画のことがずーと頭から離れず、脱稿したのは6月でした。関係各位にはご迷惑をおかけし申し訳ありません。そんな満身創痍状態のストレンジ・フィクションズですが、早くも第三号に向けて動き出しているそうです。最新情報はTwitterアカウントで更新されると思うので、よければ御覧ください。第二号では某さんや某さんの新作、さらに若手ミステリ作家の某さんのロングインタビューが掲載される予定です。こういう状況なのでたぶん最初から通販メインだと思います。

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 個人的にもっとも衝撃だったのは、浦賀和宏先生の逝去です。私が大学一回生の時に最初に批評めいた作文を書いたのは『頭蓋骨の中の楽園』についてでした。次号の『立ち読み会会報誌』は浦賀先生特集でいきます、と一部で宣言してしまったので、完成させたいと思っています(まだ何も着手できていませんが)。

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 あと、去年9月の名古屋SFシンポジウムに続き、今年の3月に、毎年行われている殊能将之先生の墓参会に参加しました。いろいろ貴重な話を伺ったり資料をいただいたりしたので、それも個人的に整理したいと思っています。第二号以降わかったこともここでご紹介できたらと思っています。

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 以上です。御身ご無事で。

「メフィスト 2019 VOL.3」に「蘇部健一は何を隠しているのか?」が掲載されます。

 なぜか今年は年明けからもうずーっとまったく余裕がなく、いろいろ放置してしまっているのですが……。

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 2019年12月4日配信開始の「メフィスト 2019 VOL.3」に、メフィスト評論賞に投稿して円堂都司昭賞を受けた「蘇部健一は何を隠しているのか?」が掲載されます。

 小特集の一環として、

 琳「ガウス平面の殺人――虚構本格ミステリと後期クイーン的問題――」(大賞)
 坂嶋竜「誰がめたにルビを振る」(法月綸太郎賞)

 と三篇同時掲載されます。

 私のは32000字くらいあって結構長いんですが、結局何が言いたいかというと、

 ・『木乃伊男2』が読みたい(ので、同意見の人を増やしたい)。

 ・蘇部健一はミステリ界のTOOL(バンド)である。

 の二点です(最後までお読みいただければどういう意味かきっとわかります)。

   *

 なぜ蘇部健一とくに『六枚のとんかつ』について書こうと思ったかというと、それが私の初めて買ったミステリ小説だったからです。今回、「受賞の言葉」という欄もあって、前々から、もし自分が新人としてそういう欄を与えられる機会があれば「(言うべきことは特に無い)」(浅田彰のイタダキ)と書いてみたかったんですが、さすがにそこまで思い切る勇気がなく、あれこれ述べています。

 で、それとは全然関係ないところでこの前、『六とん』の文庫版に関する個人的に衝撃的な事実をある方から教えてもらったんですが……その話は今はやめておきます。

 同号には西尾維新新本格魔法少女りすか」再始動や麻耶雄嵩「メルカトル・ナイト」など気になるものも沢山あるので、何卒よろしくお願いします。

メフィスト 2019 VOL.3

メフィスト 2019 VOL.3

 

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『立ち読み会会報誌』改訂第一号(電子版)・第二号(書籍版・電子版)はBOOTHで販売中です

柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群 ~So signs can’t be missed!~』

 柾木政宗『ネタバレ厳禁症候群』(講談社タイガ、2019)は「ユウ&アイ」シリーズの第二作。前作『NO推理、NO探偵?』と同じく、メタフィクションを志向している。
 この『ネタバレ厳禁症候群』には、日本のミステリ史上でも珍しいと思われるある特異な記述が見られる。それがどう「特異」であるのかを以下、趣向に少々ふみこんだ【1】と、核心部分に言及した【2】に切り分けた上で書く。(なので、未読の方はご注意ください)

 

【1】
 このシリーズはいわば、メタフィクション×◯◯(コンセプト)の掛け合わせに主眼がある。前作では
  メタフィクション×NO推理×サブジャンル
 という三つを盛り込んだ趣向で、それについて以前私は、このうち「メタフィクション」が他の二つを邪魔しているのではないか、「NO推理×サブジャンル」でもじゅうぶん一作を成し得る(というか、その方が面白い)のではないか、と書いた。本作では
  メタフィクション×叙述トリック×特殊設定トリック
 という趣向で(「叙述トリック」への言及は序盤の第二章から出ずっぱりになるので、ここで書いても大丈夫だろう。「特殊設定」については後述)、「メタフィクション」という技法それ自体がトリックの中心に組み込まれた書かれ方になっている。以下は初めて「叙述トリック」について自覚的に言及するシーンの会話。

 アイちゃんはきょろきょろ辺りを見やった。
「仕込まれてるぞ? おなじみのアレが。そう、これはミステリでおなじみの叙──」
「ダメだぁああああ!」
 咄嗟に私はアイちゃんに突撃し、その勢いでビンタをかました。「ぐへっ」ってだらしない声を漏らしながら、アイちゃんの首がグリンと横を向く。
「いってー! 何すんのよ!」
「それは言っちゃダメなやつ! 自ら明け透けにするとか愚かかテメー!」
「だってこんなのバレバレじゃん! 黙ってられないわよ!」
「まだ始まったばかりなのにネタバレとかバカすぎるよ! 説明しちゃった時点ですでにやらかしてるのに!」
「だったらもっとちゃんと隠せよ!」
「そんなのこっちに言わないでよ!」
「それはそうなんだけど! マジこれ、どこのどいつが悪いーんだ?」
 アイちゃんもわかってはいるようだな。私にしているのはやつあたりだって。
 そうなのだ。もちろん私も薄々は感付いていた。
 でも言及するなんてミステリの登場人物にあるまじき失態だ。しかも別に私が仕組んだわけじゃないし! ま、私にやつあたりしてアイちゃんの気が済むならいいけど。

 以下、こうした会話が作中に頻出するのだが、どうもフシギな感じがしないだろうか。
 実はこの小説にはもう一人、語り手がいる。それはアイの兄で刑事のレイジ。ユウとレイジのパートが交代交代で進むのだが、プロローグでレイジは刑事としての自身の矜持を次のように語る。

 救ってやるだなんて、たいそうなことは決してできない。
 だが掬ってやるくらいなら、こんな俺でも少しはできるだろう。
 救ってやる。掬ってやる。
 …………。
 おっ、同音異義語だ。俺の独白が文字で表現されているからこそ、できた芸当だ。
 ──うぉい、ちょっと待った! そんなことするなよ俺!
 調子に乗って、妹のアイとその友達のユウちゃんみたいなことをやってしまった。
 アイとユウちゃんは、すぐメタいことを言う。
 今第○章だからとか、残りページがどうとか、平気でそういうことを言いまくるのだ。
 ふたりとも楽しそうだし、それはそれでかまわない。だが俺は、少しスタンスがちがう。
 いつも思うのだ。あのふたりがよく言う『私たちは小説の登場人物だから』って言い方、ちょっとダイレクトすぎやしないか?
『小説の登場人物だから』
 それ、こう言い換えた方がかっこいいぞ。
 ――俺たちは誰もが、物語の中を生きている。

 この二つの箇所をめぐって以下、少々迂回をする。
 探偵小説における「語り」の歴史には、「伝記」という形式の強い影響が存在する(あるいは、してきた)。かいつまんでいえば、「作品」とは「名探偵」の活躍(事件解決)を後から記録したもの、ということで、「~事件簿」というような言い方にその痕跡が見られる。つまり、伝記作者(助手と語り手を兼務している場合も多い)が、「名探偵」という「英雄」を記録=伝記化するに値すると見なして、事後にその活躍をまとめたものこそが、いま読者の目の前に提供された「作品」である――という体裁を、少なくない探偵小説が初期からとってきた。ホームズとワトソンの関係でいえば、ホームズは自身の活躍をワトソンが記録にまとめていることを作中で知っている。
 もちろんほとんどの場合、読者のいる「現実」には彼らのような「名探偵」など存在しない。しかし、「彼らのような人間が本当にいる(いた)、それを同時代ないし後世に語り継ぎたいのだ」という意志=体裁こそが、「虚構」と「現実」の間をつなぐ蝶番の役割をずいぶん長く果たしてきた。
「伝記」という形式の特徴は、その事後性にある。つまり、書かれたことのすべては、「後から書かれたもの」ということになっている。
 次に「メタフィクション」に話を進める。
メタフィクション」には大きくいって、二つの方向性がある。それは、(1)作中に虚構作品(作中作)を出す方式と、(2)作中から作品の外へと視線を向ける方式、つまり、内か外か、という方向だとしてみよう。この小説は後者にあたるが、しかし、先の「伝記」形式と後者を接続しようとする場合、作者にはある「段差」、乗り越えるべきハードルがある。すなわち、「作中から作品の外へと視線を向ける方式」の場合、作品がいま創られつつある課程にある、という「実況中継」式の体裁をとりがちだ。「伝記」(=事後)と、(2)の方式の「メタフィクション」(=実況中継)は、物語生成の時間がそのままでは繋がらないのだ。
 むろん、「事後」にしろ「実況中継」にしろ、全部ウソだ。しかし「ウソ」にどうにかしてリアリティをもたせることこそが、「作者」の仕事にほかならない。
 この点、『ネタバレ厳禁症候群』は、「事後」か「実況中継」か、という次元で齟齬が見られる。ユウとレイジの意識は「実況中継」のはずだ。伝記から探偵小説へ、という現実と虚構の関係の歴史を完全に捨て去った上で、自分たちは100%「虚構」の登場人物である、という側に軸足を置くスタンス。しかし、「伝記」の伝統はそう簡単に彼らを手離してはくれない。私が気づいた箇所では、たとえば次の二つに「伝記=事後」の痕跡が見られる。
 一つは登場人物紹介の場面。

「お母さん! 大丈夫なのか?」
 陽介さんが心配そうに呼びかけた。後で聞いたけど、この人が前当主の清助さんの妻、晴美さんだそうだ。

 もう一つは捜査シーン。

 のちのち事件解決後に思い返すと、結局この倉庫に手がかりはなかった。

 二つとも助手兼語り手=ユウの語りだが、どちらをとっても、その語りが「実況中継」ではなく「事後」であることは明白だ。特に「事件解決後に思い返すと」という一節は、あの伝統的なジョン・H・ワトソン式の「伝記=事件簿」を彷彿させる。
 しかしそうすると矛盾が出てくる。
 この小説のメインコンセプトは「叙述トリック」だ。「叙述トリック」とはある重要な事実を言い落すことでなんらかの錯覚を読者に引き起こすという技法だが、この「言い落し」がなぜ起こるのか、その理由に自然なリアリティを与えることに作家たちは腐心してきた。
 ところがこの「言い落し」を理由で支えるという根拠付けも、「叙述トリックってこんなもんだよね」という感じで簡単にスルーされてしまう。すると、「自身の不自然な記述=語りに気づいていながら、なぜかそれを名言することは禁止されている語り手」という、奇妙な語り手が誕生する。私が冒頭で「特異な記述」と紹介したのはこの事態を指す。この時、語り手ユウにとって自身の「語り」はいったい、どのようなものなのだろうか。
「実況中継式メタフィクション」にせよ、「言い落しの理由なき叙述トリック」にせよ、それらが両方とも可能なのは、虚構に現実を接続させようという手続きを完全に(あえて)欠落させているからだ。つまり「ミステリってこんなもんだよね」というイメージだけを相手どっているからこそ、地(ジャンルの歴史性および読者のいる現実)に足をつけない作品空間が可能になる。したがって語り手たちにとって、そこで起こる「事件」とは「なぜかわからないが“そういうもの”として起こるもの」であり、それが終わるまでは「役割」を演じていなければならない。『私たちは小説の登場人物だから』とはいくらでも発言できるが、「言っちゃダメ」な禁止事項はなぜか存在する。そしてそこでの「語り」における「叙述トリック」とは、自然なリアリティ(なんらかの理由で「信頼できない語り手」になってしまっている、という根拠付け)を持たず、「語り」の自由を「作者」に制御されているがゆえに可能であるもの、なのだろう。「やりたい放題ミステリ」とはおそらく、語の意味に反して、「自由」ではなく禁止(厳禁)を課した上でのこうした演劇性のことをいうのだ。

 

【2】
 小説の冒頭、作者からの「挑戦状」がある。しかしその「真相」は誰も見抜けないはずだ(私も挑戦しようとしたが、無理だった)。
 この小説の基本アイディアは二つある。
1.「ユウ」と「レイジ」という二つの視点パートそれぞれに誤認の「叙述トリック」(らしきもの)を設ける。
2.「叙述トリック」(らしきもの)が仕掛けられた人物が近づいた時、「叙述トリック」の「相殺」が起こり、任意の人物の「属性」に影響する。それを作中の記述から犯人当ての前提条件として推理する。つまり、「叙述トリック」が「特殊設定」を引き起こす。
 2は通常の物理法則を超えているため、「こんなのわかるか!」と読者が「激怒」するとすればそこだろう。実際、こうした「特殊設定」トリックを犯人当ての前提条件とするなら、読者にもそのトレースが可能になるよう、捜査シーンのディスカッションにおいてもう二、三の段階的なプロセスを踏むべきではなかっただろうか(現状は「特殊設定」のルール説明=可視化に飛躍がありすぎる。このハードルをクリアしていれば、おそらく読者の「絶賛」は10倍くらい増えていたのではないか)。
 1にも瑕疵がある。私は当初、「特定の人物にバレバレの誤認トリックを仕掛けることで、別の人物の誤認を紛らわせているのではないか?」というリアリズムの線で考えていた。しかし実際は2だった。ここにおいてフシギなのは、語り手も読者も、誰もトリックに引っかかっていない――「誤認」などしていない、ということだ。しかし、それが作中現実における登場人物の「属性」に物理的な変化をもたらす……。

 

 えーと、「叙述トリック」ってそういうものじゃないですよね(笑)!

 

叙述トリック」とは、ふつう、読者の脳内イメージになんらかの錯誤を引き起こすものだ。しかしここではなんの錯誤も起きていない。にもかかわらず、それが作中現実の物理法則をゆるがしてしまう。これは読者理論の点からいっても、そうとうに無理があると思う。1の段階でなんらかの真の「叙述トリック」を仕掛けておけば、2への接続もよりスムーズで、読者に対しても説得的だったのではないか(叙述トリックは読者の先入観を利用することで読者を「共犯者」に引き摺り込みうるポテンシャルを持っているのに、「バレバレ」がそれを「無効化」してしまう)。つまり、現状は「叙述トリック」とはいえず、「叙述トリックらしきもの」が引き起こしたとされる「特殊設定トリック」というべきで、そこに「メタフィクション」のロジックの観点からして無理があると感じられるのではないのか。


 作中何度か、このシリーズは存続するのか、というようなことが書かれている。私はもしこのシリーズが存続&発展するとしたら、「作者」と「読者」と「登場人物」の関係をきちっと考えぬくところにこそ鍵があると思う。
 この三者を「経営者」と「労働者」と「顧客」にたとえてみよう。
 本格ミステリの顧客ニーズ(ないしメリット)は、
 1.自分も推理に参加できる
 2.なおかつ、その推理を超えた「驚き」がある
 だとおもう。
 また「労働者」に対しては、現状、「別に私が仕組んだわけじゃないし!」と、「責任(作者の都合)」を「経営者」が「そういうもの」として無理に押し付けている部分がある。思うに、「メタフィクション」が読者に許容されるには、「われわれは推理小説の中にいる人物であり、そうでないふりをして読者たちをバカにするわけにはいかない」という登場人物たちの「真摯さ」を賭け金としていた(たとえそれが方便であったとしても)。この「登場人物として読者をバカにするわけにはいかない」という「真摯さ」の賭け金を抜きにしては、「(登場人物と作者の)やりたい放題」とはいえず、「(作者の都合を)やりたい放題」でしかないのではないか。登場人物と作者が疑いもなく「真摯」であり、しかし、にもかかわらず騙されてしまうということ。それこそ、ワガママな読者が本当に望むことなのだから(最後に付け加えれば、こうした「特殊設定」……それこそ20年以上も前から西澤保彦もパイオニアの一人としてその領域を切り拓いてきた……自体には、私はまだ可能性を感じる)。

 こうしたハードルをスルーしてしまえば、「顧客保護や労基法など守れば会社は成り立たない」と言いのけるブラック企業の経営者のようになってしまう。そうではなく、「作者」が「登場人物」とともにそうしたハードルを一つずつ乗り越えてゆくことにこそ、彼らの活躍を追わんとする「読者」の期待はあるように思うのだけれども。

 

ネタバレ厳禁症候群 ~So signs can’t be missed!~ (講談社タイガ)
 

 

名古屋SFシンポジウム2019

 名古屋SFシンポジウム2019が9月28日(土)、椙山女学園大学で開催されます。

www.ne.jp

 その第3パネル「SFが生んだミステリ作家・殊能将之」に登壇者の一人としてお招きいただきました。登壇されるのは翻訳者の中村融さん、司会として渡辺英樹さんです。
 基本的には、『ハサミ男』から今年で20周年なので、いろいろ読み直そう、というのが主旨のようです。
今年はその前に幻想文学パネル、アメコミパネルもあり、非常に興味ふかい話が伺えそうです。

 ご都合の良い方はぜひお越しください。