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襤褸は着ててもロックンロール

文学の門は

前回から3週間の開き。何事もなかったかのように更新。

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荒川洋治『文学の門』は新聞や週刊誌に書いた文章を集めたもので、54編を収める。前回より約1年ぶり、前からの読者なら「いつものような構成の」で通じるかもしれない。
一編が平均して2、3ページ(全体で220ページ強)と短いながら、知らない作家、聞いたことのない本、思いもかけない視点などがずらずらーっとあり、読み飛ばせない。
作家名どころか、出版社名で初めて見るものも多い。日本文学の現在を見ようとする、著者の細かな目配りを感じる。〈興味をひろげるための空気をどのようにつくりだすか〉を実践しているのだなあ、と深い気持ちになる。つい偏りがちな自分の読書傾向に、新風が吹く感じ。
それは時に厳しい。小熊秀雄がラジオで紹介されるのを偶然耳にし、思ったことを書いた「小熊秀雄」。「放送を聞いた人」がその後どう反応するか、どう行動するか。
小熊秀雄についてある程度知識がある人は、「こういうとらえ方があるのか」と刺激を受けたはず。知識を持たない人は、どうか。(……)紹介は十分なものだった。要を得ていた。だがぼくはこの「十分なものだった」ということに注意したい。十分ならば、それでいいではないかと思う向きもあろう。ただぼくの気持ちは少しかげった。十分であるということが暗い気分にさせるのだ。〉
紹介が十分であれば、理解した気になり、それ以上自分で追求しようとしない。そして最後は、〈十分であるということは、それで終わりだということなのだ。聞く人が終わりなのだ。〉という強い言葉。
そうだろうか、と一読して反発も感じる。実際には、放送を聞いて興味を持った人もいただろう。が、荒川自身はラジオの紹介で〈了解をすませ〉、〈終わ〉ってしまった、という。そして〈あちらこちらで十分な情報を求める時代になった。だが十分な情報の、その先に何があるのか。それを人は感じとっていない。感じとる機会を、「十分なもの」を投与されることによって、奪われている。だから、ゆたかにならない。深いところに行けない。そんな気配をぼくは感じる。〉と思いは伸びる。
これは難しい。「え、そんなとこまで考えなきゃいけないのか」と思う。「いや、確かにそれにも一理あるか……」とも思う。そういったすぐには解きほぐせないような言葉を荒川は、読み手に投げこむ。平野啓一郎が〈詩人ということに甘えて〉〈論理がない〉と言うように、難癖や思いつきのように受け取る人もいるだろうが、私は大事にしたい。
収められた文章のなかで、発表時に一番話題になったものは、巻頭の「散文がつくる世界」(毎日新聞2009年6月11日夕刊)だとか。〈散文は、異常なものである。少なくともそのような性格をもつものである。〉という断言は、衝撃的。個人の言葉は、そのままでは他人に通じない。そのため、〈社会に合わせるために(……)誰にもわかる表現や、ことばの配列を選ぶ。〉〈つまり散文は、伝達という目的のために「つくられた」ものなのである。最初からあるものではなく、獲得したもの。不自然であり、異常な面をもつ〉そのことを意識しなければ、という。
荒川の熱心な愛読者である高橋源一郎も、「うーん、今回はちょっと……」と首をひねったとか。「散文がつくる世界」自体は散文で書かれている。この内容を韻文で伝えるのはなかなか難しかろう……というのは余談として、ここでいう「散文」の反対にはもちろん、韻文のほかに詩の言葉、も入っているのだろう。つまり、個人の言葉。散漫なブログを書くのは楽だが、この前、機会があって俳句を作ろうとしたら、全く言葉が出てこなかった。詩も書けそうにない。読んでもどうもわかる気がしない。詩の門は狭そうだ。荒川も「他人の詩を読むのはけっこう辛い」とどこかで言っていた。
また、〈変な後日談をくっつける国木田独歩や、とりとめのない梶井基次郎の短編〉を挙げ、編集者が変に直すのではなく〈「書いたまま」、そっくりそのままを読みたい〉と書く一方、名歌に関心のない短歌の作家を〈おそらく自分が「濃い」のだ。自分を評価しすぎているのだ。(……)そこからはいいものは生まれない〉と批判。まさに、〈「文学の門」は、ひとつではない。〉
この他にも、〈テレビ番組では「アメトーーク!」がおもしろい。(……)「家電芸人」はテレビ史に残るかもしれないほどおもしろかった〉などとあると、ホッ。〈若い文筆家、千野帽子は「恋と革命・21世紀旗手――太宰治より伊藤聖と高見順が好きなんだけど。」(題の一部にラヴ・レヴォリューション トェンティーワンと、ルビがつく)を書いている。(……)いまどき、こんなことを書く人は他にはいないかもしれない。〉とも。

文学の門

文学の門