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襤褸は着ててもロックンロール

自意識そしてユーモア――松尾詩朗『彼は残業だったので』を読む

【※倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』の真相に若干触れていますので、未読の方はご注意ください】

「ロジック」について書きます、と宣言したきりになってしまっているけれど、なかなか進まない(おお、また一か月が過ぎた)。その間に、松尾詩朗『彼は残業だったので』を読んでいろいろと思うところがあったので、書いてみたいと思う。
 ※
その前に。
前回、倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』について書いたあと、ネット上で様々な方の感想を読んであることに気がつき、この作品に対する姿勢を改めざるをえなかった。
それは、『三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人』はユーモアミステリである、ということだ。
何を言っているんだ、と思われたかもしれない。上の言い方には語弊がある。しかし『三崎』には確実にユーモアミステリ的要素が含まれているはずだ。たとえばそのエントリで言及した『フラクション』にも、クスクスとした笑いを誘う箇所はある。だが『三崎』の笑いは、作品のより根の深いところに絡んだものだと思われる。
いくつかを例にとる。『三崎』においては、館を訪れた客に対し、「ウェルカムドリンク」がふるまわれる。必ず。読者にとっては、何度も。しつこいくらいだ。実際、私は、「なんでこうしょっちゅう出てくるんだ……」と思った。読んだ後までも。
そうではないのだ。言わばこの「ウェルカムドリンク」は、お笑い用語でいうところの「テンドン」なのだ。「テンドン」だから、くりかえされる。大仰にふるまわれるこの飲料の正体を知ったとき、落差がうまれる。そこに計算された「しょうもなさ」がともなう。ギャグが面白いとか面白くないとかいう問題ではない。読んだ私が気づいたかどうか、だ。私は気づかなかった。
またたとえば、私はこの小説の作中作を読んで、「人物が薄っぺらいなあ……」と思った(特にあの女王様キャラの人物とか)。それは当たり前だ。どういうことか。これまで本格ミステリにおいては、様々な種類の「館」ものが書かれてきた。ゴシックふうのおどろおどろしい建物。人里離れたロケーション。過去の伝説。因縁だらけの人物たち。今にも何かが起こるだろう。起こった。惨劇だ。幻想的な謎。恐怖の数日間。時には自然災害。捜査のあいだも事件は続く。そして奇跡的な幕引き。カタルシス。――
そういった作品に対するアンチとして、徹底的にずらしていくパロディとして、この『三崎』(ほか、近年の一連の館もの)は書かれたのではないか。だからまずそのおどろおどろしさを擬態する。しかし、人物たちはコミカルに軽い。描写もうすい。そして「館」の真相は、必ず脱力的なものだ。というか、そもそも「館」ですらない。私は、ここに強い意志を感じる。いわば、詩に対する散文的な、日常的な通俗性。「幻想」なるものを膝カックンする不意打ちの批評性。「館」シリーズに対する「反(アンチ)館」シリーズ。この作品における「ユーモア」の役割は、その辺りにあるのではないか――。
というふうに、考えた。
倉阪作品に、ホラー性とユーモア性が同居しているのは当たり前じゃないか、他の作品にもあるだろう、と言われるかもしれない。確かに思い当たる。どころか、私は『三崎』も時折、笑いながら読んでいたのかもしれない。にも関わらず、この笑いが、作品の持つ「ユーモア」だとは、あるいは「ユーモア」に近いものだとは、気がつかなかった。
そこが不思議だ。何とも言いがたい、個人的な感覚だけれど、伝わるだろうか。
 ※
全ての「バカミス」が「ユーモアミステリ」というわけではない。また「ユーモアミステリ」が全て「バカミス」ということでもない。それは当然だ。しかし上に述べたように『三崎』の「バカミス」性には、「おどろおどろしさを装ったからこそのユーモア」が、深く影響していると思う。そこでは、「サプライズ」と同時に「ユーモア」が生じている。全編を通じて笑えるような作品ではない。しかし真相を知り、ふりかえった後で、その正体が、意味が、また笑いをともなってやってくる。『三崎』のユーモアは、そういった種類のものなのではないか。
くりかえすけれど私はそのことに、前回のエントリを書き、他人の感想をいくつか読むまで、気づかなかった。記事を書いているあいだ、「笑える」というコメントだって何度も見ていた。なのに。それはもうひとつのサプライズだ。なぜ気づかなかったのだろう。
たぶん、ある種の思いこみがあったのだと思う。
 ※
話は変わる。
tokky.comさんという方の2011/10/11の「自意識の存在」の項を読んでいて、「自意識」という語に出会い、ハタと思いあたった。以降は勝手な連想になるけれども、ここで「意識」という言葉をとっかかりにしてみたい(「自意識」については後述)。
作品の書き手は多かれ少なかれ、「こう読まれたい」というふうに、作品の見せ方を考えながら書いているはずだ。一方読者にも、「こう読もう」という意識が、構えなくても少なからずある。同じような環境にいる作者と読者なら、その意識のリズムも近いだろう。作品はわりあいスムーズに読まれるだろう。
古い時代の作品を読んでいて、なかなか入っていけないことがある。あるいは、海外のものを読んでいて。私には「フランス産ミステリはどこか突拍子がない」という偏見がある。人物の行動原理が「現在」の「私」と比べ奇抜だったり、どことなく牧歌的だったり……というのは、そのリズムの「ズレ」のせいではないか。このズレには慣れがある。何度か親しむうち、読者のリズムはやがて作品に同調していくだろう。内在するロジックをつかみ、新たな物の見方を得るだろう。
このことは、「ジャンル読み」と呼ばれるものにも関連しているかもしれない。
さて、「自意識」だけれど、先述の「自意識の存在」の項の、

〔ホフマン『黄金の壷』とホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』の〕まだどちらも頭の方をちらりと読んだだけだが、前回の「コリンズ対ヴァレリー」(いや、別に対決させているわけではないけれど)も踏まえた上で言えば、自らが「書き記したもの」に対して「事足れり」と思うのが「物語型」の作者であり、「これでいいのだろうか」と問いかけ続けている(そして、そのこと自体がさらに書き記すための動力とも素材ともなる)のが「自意識型」の作者だということになる。コルタサルには両方の要素が半々ずつあるような感じを持っている。

この記述を読んで、私は、以下の二つの文章を思い出した。

ちょうど「玉樟」を読んだとき、自分の中に「尾崎君〔一雄〕」というべき人物が住みついたような気がした。/この「尾崎君」は何かとうるさい。「尾崎君」はわたしが疲れてくるとすぐ休めという。そして適当な文章を書くとものすごく怒る。わたしは「尾崎君」に謝ってばかりいる。(荻原魚雷「冬眠先生」『本と怠け者』)

ひとりの作家がしばらくの間われわれの心をまったく独占し、ついで他の作家が占領し、そうしてしまいにはわれわれの心の中で作家たちがたがいに影響し始める。あの作家とこの作家を比較計量して見て、それぞれが他に欠けているよい性質、しかもほかのとは調和しないちがった性質を持っていることがわかる。とこの時じっさい批評的になりはじめたのだ。(T・S・エリオット「宗教と文学」『文芸批評論』矢本貞幹訳)

かなり恣意的な引用だけれど、許していただきたく思う。つまり私はこれらの文章を思い出して、こう連想した。ある作家に惚れこむ。するとその小さな人物が、私の内に棲みつく。年月を経るにしたがい、人数は増える一方だ。消えてしまった者もいる。彼らは互いに論じあう。読み、書く私を見張っている。ペン先はふるえる。「これでいいのだろうか」と問う書くことの「自意識」の一つの正体は、このことなのではないか。
 ※
いま、「意識」と「自意識」という言葉を出した。私がいま言わんとしている用法では「意識」はジャンルに、「自意識」は文章それ自体に、関わってくる。
大きく出たなあ。
といってもそれは、冒頭に挙げた松尾詩朗『彼は残業だったので』について感想を述べる枕なのだけれど。だから次回、バタバタと畳んでいきます。