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襤褸は着ててもロックンロール

つらつらと10:「驚きの減衰」について

<次回はたぶん、「論理」と「時間」について、エラリー・クイーンの長篇を読みながら。>と書いてから四ヶ月、まだまだ全くクイーンについて書けそうにない。
というわけで、また別の話題にしよう。
今日たまたま、荻原魚雷氏のブログ文壇高円寺の最新エントリと、雑誌「メフィスト」最新号に掲載された殊能将之による『十角館の殺人』についてのエッセイを読んでいたら、どちらも「驚きの減衰」について書かれていたのに気がついた。といっても、文脈は全然違う。ブログは菅原克己の詩に、エッセイは新本格ミステリにまつわるものだ。
この「つらつらと」シリーズのどこかで、「ミステリで最も重要なのは、サプライズなのではないか」と書いた覚えがあるけれど、考えなおすと、それはやはり言い過ぎだったと思う。正確には、ミステリに対する私の最大の関心が「サプライズ」で、それはどこか「ミステリの詩学」と呼べるものなのじゃないか、ということになるか。
最近サークル関係の後輩に当たる人物と話をしていたら、「ミステリを読み始めた時の衝撃が忘れられず、それからずっと追いかけているんだけれども、なかなかそれを超えるような作品には出会えず……」というような言葉が出た。聞きながら、「自分も似たように思うところがあるかもなあ」と考えていた。しかし、当初のインパクトが次第に薄れ、どんどん平凡な印象になっていく、というのは、何もミステリに限った話じゃないのではないか。それは実生活でもそうだと思う。学校、恋愛、仕事、……なんのことはなくて、つまりはマンネリズムなのだ。
「新しい」ということは、時に、何かそれだけで価値があるように感じられる。可能性に満ち、これまでとは違った道が開け、そのことで五感が沸き立つ。期待と恐れが入り混じった感じ。自分が変容する感じ。つまり活性化する。エネルギーがある。
殊能将之のエッセイは、「講談社ノベルス」30周年を記念して、様々な作家が「私の講談社ノベルスこの一冊」を挙げたうちの一編。そこにはこのようにある。『十角館の殺人』が出た当時、綾辻行人26歳。殊能将之23歳。本格ミステリなんて古くさいものを、こんな若い人が書くのか、という驚きがあった。それからしばらくは「講談社ノベルス」といえばほとんど本格で、むさぼるように読んだ。しかし今、ムーブメントとしての「新本格」は衰えた。今では若者が本格を書いても、それだけでは誰も驚かない。
つまり「新しさ」という「驚き」による力は減衰した。本格は当たり前のものになった。それは、新本格前夜に本格愛好者たちの夢見た未来かもしれないが、現実化してしまえばなんだって、マンネリは避けられない。
文壇高円寺に書かれた、「驚き」と減衰の関係は、もう少し文脈が違う。

菅原克己の)『詩の鉛筆手帖』(土曜美術社、一九八一年刊)で「日常の中の未知」では、「ぼくらは〈馴れる〉ということがある」という一文が出てくる。
毎日、勤めに出かけ、満員電車に乗る。ある青年が、同じような毎日をくりかえしているうちに何も感動できないとこぼす。
生活が味気なくおもえることもあるだろう。〈馴れる〉ことで、いろいろなことを簡単に割り切るようになり、世の中に「ふしぎ」があることを感じなくなる。
《ぼくらは生まれたとき、あの狼の子と同じようにそれを経験しているのである。もちろん、赤ん坊には意識はない。やはりこんこんと眠り、ただ口を動かしてお乳を吸うだけなのだ。しかし、無意識の上にひろげられた新しい世界の経験は、成長したぼくらの深層心理の中にひそんでいるのある。この最初のおどろきを絶えずよみがえさせるようなものが、〈詩〉にはあるのだ》

くりかえしていくうちに、慣れてしまう。「最初の驚き」が忘れられず、以降も追い求めるが、二度と出会えない……というのも、このようなことだと思う。たとえばミステリについて考えると、私を含めミステリにハマった読者の多くは、はじめは若くて、読み方なんか全く知らなかったわけだ。そこに未知の、異世界からの衝撃がやってくる。それは物凄いインパクトだ。しかし読み方がわかってくると、展開のパターンがだんだん読めてくる。自分の想定した筋と実際とのギャップがそれほど大きくなくなってくる。驚きは減衰する。
若いうちにミステリを読んだ時の「最初の驚き」(「驚き」という言葉を連呼するのに次第に飽きてきたので、「最初の一撃」と言ってもいいが)は、単なる「驚き」ではない。それは、「このような驚きがあったのか」という驚き、つまり、「二重の驚き」だ。ミステリは「驚き」を扱うが、しかしそれでもマンネリの弊からは逃れられない。
あるいは、このような箇所も重要だと思う。

『詩の鉛筆手帖』の「〈無名詩集〉の話」では、ある人に「お前の詩は、最初の詩集の時が一番いい」といわれたときの話を書いている。
《年月を重ね、過去には知らなかったいろんな複雑な詩の機能を学びながら、なお行く先ざきで手に入れようとしているのは、最初の、詩を知ったときの新鮮な喜びのようなものではなかろうか》
菅原克己の『詩の鉛筆手帖』を読んでいると、「最初の、詩を知ったときの新鮮な喜び」の大切さをくりかえし綴っていることに気づく。ほとんどそればっかり……といってしまうと語弊があるかもしれないが、わたしがこのエッセイ集をしょっちゅう読み返すのは、この感覚を忘れないようにしたい、おもいだしたいという気持があるからだ。

「最初の詩集の時が一番いい」というのはまるで、どこかで聞いたような話ではないだろうか。いわく、「『奇面館の殺人』はなぜもっと前に出なかったのか」「学生アリスシリーズ、最初の三作は割と調子よく刊行されたのに……」あるいは、「谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』が一番良い」「ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がもっともインパクトがあった」、云々。
文学でも音楽でも映画でも、彗星のごとく新しく現れるタイプもいれば、当初はあまりピリッとしなかったものの、どんどん円熟と凄みを増していく、というタイプもいる。長い目で見た場合、ファンや外野からもっともなんやかや言われるのは「彗星」タイプかもしれない。しかし、初期と同じようなことをずっと続けてはいられない。読み手よりもまず書き手のほうで飽きるだろう。けれど、スタイルをどんどん変えていく、というのも難しい。単に「新しさ」を求めるなら、さっさと辞めてしまって、別の分野へ移ったほうが早いに決まっている。だから自分で飽きてしまわないように、粘り強いフォームをつくる必要がある。
それは読み手のほうでも同じだと思う。最初の一撃は過ぎ去った。次第に遠ざかるそれを引き戻すべく、新しく何かを読んだり書いたりする。大きなインパクトはなくとも、少しでもいいから、手応えさえあれば、まあなんとか、関心を持ち続けることはできるのではないか(たとえば私が今書いているこの行為もその一環だろう)。
   ※
最近読んでいたテリー・イーグルトンの『詩をどう読むか』に次のような一節があった。

詩的言語の特徴は、ある語の表示義(その語がじかに指示するもの)だけではなく、共示義、すなわちそこから連想される一群の意味全体をも伝えることだ。この点で、詩的言語は法律や科学の言語とは異なっており、後者のほうが厳密な表示義をめざして、余分な共示義を削ぎ落とそうとする。一般に、法律言語や科学の言語は意味を抑制しようとするのに対して、詩的言語は意味を増殖しようとする。といっても、両者の優劣を見比べているわけではない。時と場合によって、ある語の厳密な定義が何より必要なこともあれば(たとえば反逆罪の容疑で裁判にかかっているときなどは、そのほうが助かるだろう)、逆に、ただ一つの意味に繋がれている記号表現を解き放ち、他の雑多な意味と交配させるのが楽しいということもある。

「詩的言語」を「文学的言語」と言い換えてもいいと思う。文学的言語はよく、その曖昧さを批判されることがあるが、実はその曖昧さ、多様性こそがめざすものの一つでもある。こうでしかない、と思われたものに、別の角度から光を当てることで、活性化するものがある。ミステリと詩が重なるのはたとえばこういった点だ。たとえば菅原克己の青年の言うような「同じような毎日」に、実は謎と謎解きがあったとしたら。慣れ親しんだ日常が違う顔を見せてきたら。「日常の謎」の批評性、真骨頂はそういうところにあるだろう。
ミステリに限らず、何かものを読む楽しみは、自分の認識が変容していく点が大きい。しかし、同じ方向性のものを続けて読むと、次第に読み方が限定され、飽きてしまう。自分の変容可能性が少なくなってしまう(だからいわゆるネタバレが敬遠されるのは、その変容可能性が損なわれるからだと思う)。
そこで違う方面へ活路を求める。想定していなかったものとものとがつながり、交配して別の意味が生まれる。新しい風がさっと吹く。
その意味で、ミステリで問題となるのは、最終的に謎が解決され、「意味」が一つに確定される気配が強いことかもしれない。以前述べた、「作品の一語一語全部が伏線となっているミステリ」に対する私の反感は、そういうところにあるのかもしれない。一語一語がっしりと組まれた構築物は、それは美しいだろう。でも、だんだん飽きると思う。それよりは、様々に開かれているほうがいい。
最近誰かのツイートで、「○○を見て☓☓を思い出した(想起した)、という言い方がキモイ」という発言を見た気がするけれど、それが単なる自己顕示(いろんなこと知ってる俺スゴイ、とか)や拙い批判(People in the boxRADWIMPSのパクリ、みたいな)だとかならまだしも、何かから別の何かが触発されるというのは、それ自体長く読むことの楽しみの一つでもある。少なくとも私はそうだ。
  ※
と、また長くなってしまったけれど、最近考えていたことを書いてみた。
ここまで来て、「意味の確定」ということはたとえば、終わりのない新たな証拠の発見によって事件の意味がくつがえっていく例の「後期クイーン問題」ともつながっていくような気がするが(つまり、後期クイーン問題は実は文学的に本質を突いた問題なのではないかという気がしてくるが)、そのように解釈を拙速にあてはめていくと話が急激にツマラナクなっていくので、これも今はうっちゃっておこう。