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襤褸は着ててもロックンロール

『Poltergeist』についての雑感

大学の後輩達が作った、関西ミステリ連合有志『Poltergeist』という同人誌を先月の文学フリマで購入し、さきほど読み終わった。現役の学生七人が結集して製作したもので、最近はミステリ研究会員の間にも書きたい人が多いらしい。
ミステリ研究会というのはいわゆる文芸サークルの一種で、とすると皆が「書きたい人」なのではないかと思われるかもしれないが、そうでもない。大学の創作系学科ではないし、あくまでも推理小説の愛好団体なので、基本的に小説を読んでああだこうだと話すだけ、機関誌に何か少しでも寄せる必要に迫られた場合は、エッセイかレビュー的な文章を投稿、という人も多い。ネット上では「書きたい人」の動向がたくさんうかがえ、文学フリマも規模をどんどん拡大している最近の状況においてはけっこう意外なことに、「創作系の文章が集まらないために機関誌がなかなか発行できない(できてもとても薄くなる)」ということが各サークル共通の悩みとしてあったような記憶がある。それがここへ来て、いよいよ執筆する会員が増えてきたということなのだろうか。
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オリジナル創作系小説誌の位置というのはけっこう微妙なものがある。漫画やイラスト、音楽などに比べて鑑賞に時間がかかる。二次創作と比べると文脈がすぐには共有できないから方向性がバラバラ。評論や特集もの、全レビューなどのような資料的価値は低い。あるとすると純粋に読む快楽だけで、これはこれでハードルは高い。『蒼鴉城』みたいに機関誌自体が有名なら別かもしれないが、いきなりポッと出ていろんな人に読んでもらうのは、なかなか難しい(といっても私は別にテクスト系同人誌に詳しいわけでは全然ないので説得力はないかもしれないが)。『Poltergeist』がどのような趣旨でどのような関係で参加者が集まり、どのくらい頒布されたのかはうかがいしれないが、今のところネット上に感想が探せなかったので、少し書いてみたい。
(BGM)

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前述のように、七人の参加者が七編を書いている。全124ページ。500円。これから通販があるのかどうかは知らない。目次ページの下段に巻頭言がある。巻頭言といっても架空の人物二人による掛け合い漫才みたいなもので、推測するに「ヌルイ」サークル活動に飽き足らないので積極的になんとかやっていこう、という感じか。でも(次の『Poltergeist』に続かない)とあるから、次号が出るのかどうか。
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以下、各作品について。「――」以下は私の感想(若干ネタバレ気味かもしれませんので、それがイヤな方は読み飛ばしてください)。
水月司「双塔館殺人事件」/ユーモラスな館もの。14ページ。隣り合う「白塔館」「黒塔館」という二つの館の主である仲の悪い兄弟が、互いの館の所有権を賭けてプロの棋士をそれぞれ雇いチェス勝負をさせる。勝負といっても対面ではなく、行き来の面倒な二つの館に各々鎮座して遠隔モニターごしに対局。そこへ殺人事件が起きる。――比較的シンプルなトリックで、登場人物が少ないために犯人はわかりやすいのではないか。重要な場面で人物名にしばしば誤字があったりするので、その辺がネックか。
小春「鳥を追う小魚」/メルヘン・タッチな日常の謎ふうの小品連作三編。10ページ。ブリサマリナという港街に暮らす「お嬢ちゃん」と「お兄さん」の交流を軸に描く。挿絵三点つき。――紙芝居を思わせる語りで、「お嬢ちゃん」は「お兄さん」の屋敷に仕えたお調子者の「ばばさま」の孫娘だというから、推測するに「ばばさま」が語り手なのだろうか(それだと言葉使いがもう少し若すぎるか)。ところでこの作品のラスト2行には私は疑問がある。ある野に二人きりでいたところ、「お嬢ちゃん」が「お兄さん」の耳に口を寄せてある秘密を打ち明ける。映画ならすっとカメラが引いてロングショットになるところ。この最終2行というのがある「秘密」の中身なのだが、映画的にいえばカメラは遠ざかるのだから、ヒソヒソ声は聞こえなくなるはずだ。実はこの「秘密」の内容自体は、第二話ですでに伏線も張られている。つまり、ここは書かなくてもいいのではないかと思った。その方が謎めいた感じも出るのではないか。難癖みたいなものですが。
さいとうななめ「人形の街」/シリアスなファンタジーふう本格。22ページ。実用的な「自動人形(オートマタ)」が日常的に使用されている、十八世紀末のどこかヨーロッパらしい町が舞台。主役は人形修復師の弟とその姉で、五年前に父親が死んで以来二人で暮らしている。弟の通う人形学校にある日、町出身の著名な人形師がやってくる。折しも町には人形師を殺す「自動人形」の噂が。人形師が町にやってきた本当の目的は何なのか。一方で、主人公の姉にもある秘密があるらしい。――若い弟を語り手に、終始重苦しいタッチで進んでいく。といっても記述は明快で、本格ものに欠かせない空間説明もあまりもたつくことなく、軽快に読んでいくことができる。白眉はやはり第19節のある「秘密」が明らかになるシーンで、異様な熱気があり、引き込まれる(つまり作者の嗜好がわかるということだが)。謎と解決も無意味に思わせぶりにならず、ずっしりと内実があって作品の雰囲気とマッチしているのではないかと思う。力作。
道草「これは正しい死に方?」/一番短い作品。5ページ。部員不足で廃部の決まった「大山大学ロック研究会」の三人が、最後の学園祭ライブに向けてペンション合宿を行う。その最中、一人の先輩が射殺体に。のこる部員二人はお互いを犯人ではないかと疑うが。――いろいろ疑義が残る作品だ。だいたい、(ちょっとネタバレかもしれないが)題名がネタバレ気味だと思う。私も高校時代は楽器をやっていたけれど、少なくとも私ならこういう犯行はしない。ラストに「死がはたして正しい者(原文ママ)なのか、(……)知る由はないのであった」とあるけれど、端的にいって、他の登場人物三人は絶対に「間違っている」と感じたことだろう。全然ロック的ではないからだ。KISSのジーン・シモンズ的な生き方はダメなのか。クレイジー・ケン・バンドの横山剣はどうなのか。映画『アンヴィル』観てないのか。ああ、結局ロックロックと言いながら、全然本質的にはロックじゃねえんだな、格好だけかこの「犯人」は、と思ってしまう。
渋江照彦「百合と首」/ホラーふう。24ページ。飛頭家に伝わる彫刻品「飛頭の舞」。見る者に恐ろしい印象を与えるその骨董をめぐって次々に三人の人物が死亡。寄贈を持ちかけられた京都はシロノワール藝術美術館の学芸員を務める「僕」と、「僕」に取り憑く狐の「彩萌さん」、上司の中川主任は、鑑定の為に飛頭家へ向かう。題名通り百合カップルも出てくる。――こちらもいろいろと疑義が残ってしまう。まず形式上の問題がある。節ごとに視点が登場人物ひとりひとり交代していくのだが、そのために説明すべきことが増え、もたもたした記述に感じられる。事件の構図は本当はシンプルなはずなのに、カメラがコロコロと移っていくせいでモザイク状のバラバラな記述となり、わかりづらいものに。それに「犯人」の心情描写も不自然だ。犯人の一人称となる場合、犯罪を犯しているはずなのだからそれについても何か言及が必要なはずだが、それがないために、犯行告白の段になるとかなり唐突な印象を受ける。もちろん、「私が○○した」などと真相シーンの前に書かれてはネタバレになってしまう。でも小説的にはないと不自然。そのジレンマ。しかしそれは一人称が次々に変わるためであって、もし「僕」を中心とした記述で一貫して通していれば、犯人の心情など書かなくていいのだから、そんなジレンマは生じない。つまり多視点という形式が問題なのだ。他にも、きちんと書ききっていないと思われる部分はある。たとえば冒頭の骨董商の死の間際に現れる「女物の黒色のブーツ」は結局、妖怪なのか人間なのか。また、「事件」とは言っても飛頭家で結局何が起こっているのか「僕」と「中川主任」にはリアルタイムではわからないために、「ミステリ」としての盛り上がりに欠け、せっかく「彩萌」の独白で最後をキメるという構成もあまり怖くならない。文章を見直す時間が無かったのか、〈言ってみれば人外魔境の様な場所に位置しているものだから、基本的に客の入りは少ない。否、客が入っている方が珍しくて、基本的に客は来ないのだ。なので、基本的には暇なのだが、〉といった語重なりも多い。社会に出た女性が「明日私の家に来て鑑定をして頂きたい」と見ず知らずの学芸員にいきなり依頼し、しかも当日「すっかりその事を忘れていた」などということがありうるのか。20代後半の女性が〈歩佳(同性の恋人の名前)とはずっと暮らしたい。けれども歩佳と一緒に寝れなくなるのはごめんだ。/吐き気のする様な欲望だ〉といったような性欲の語り方を本当にするのか。現代が舞台の普通の現代人を語り手にして「何時も」「行き成り」といった漢字多目の文体はマッチしているのか、等々。……とエラソーなことを長々と述べたのは「あっ面白そうだな」という雰囲気が最初あったからで、残念に思ったからです。
蜂葉市「忍者を固く茹でる春」/題名通りの珍しい忍者ハードボイルド。12ページ。「忍者専門探偵業・漆戸探偵事務所」の漆戸胸喜とその助手・久里のもとに、あるヤクザから、経営していたカジノで支配人を殺し金を持ち逃げした従業員の捜索依頼が持ち込まれる。従業員の過去を追いかけるうちに、現代に生きる忍者たちの様々な事情と、複雑な陰謀が明らかになっていく。――あとがきで作者は〈カレーにカツをかければ悪魔的に美味いのは当たり前で、ならばハメットに忍者を掛けたらさぞかし〉と書いているけれど、実は私は山風の忍者ものを読んだことがないので、それがどう「悪魔的」なのか、ちょっとよくわからない。しかし「現代に生きる忍者」という人を食ったありえない設定が硬質な文体でつづられ、展開もハードボイルドの定石(事件の姿が不定形でプロットがどんどん脱線していき、そのために「真相」が非常に複雑になり全容がなかなか把握しがたい、というあのおなじみの)をきっちりと踏まえているので、出オチのような一発アイデアをちゃんと形にする、という不思議な情熱が伝わってくる。
桐生貴桜「箱庭キラル」/学園ミステリ。最長の34ページ。台風の日の放課後、美術部員・一宮彩音が殺されているのが発見される。死体の側には描きかけの自画像と切られた黒髪が。警察の呼べない状況のなか、人外的存在の「薫夜」と語り手「ユキ」は探偵行為を生徒会長より依頼される。――あとがきで作者は〈たいてい事件とは「弱い者」目線で語られますが、時には「強い者」から見た事件だってあってもいいと思うのです〉と書いてあるけれど、私はここが一番気になった。以下、この部分を中心に話を進めていきたい。語り手は女性なのだが、非常に饒舌で、様々な設定が読者に告げられる。服装自由の学校だが制服「白」派か「黒」派かで生徒は二大派閥に分かれており、アウト・オブ・スクールカーストな主役二人はどちらにも属していない。探偵役の「薫夜」は人の心が読める異端者である。云々。この作品も、語りがけっこう長々として感じられる。たとえば事件が起こる前、〈ちらりと時計を見上げる。午後三時十二分。私が薫夜と教室の前で遭遇してから二時間十二分が経った。この雨の中教室棟から茶道部に新品の高級座布団を、家庭科部に毛布を提供、運搬させ、下の階から連行してきた文芸部の一年生に今寝転んでいる環境を設営させてから二時間。大雨の中帰るのが億劫だったこと、瑶もいないことで雨宿りついでに寄っただけだったが、退屈している間にもどんどん時間は私を置いていく。と言っても、校内すべての建物の中で最も古くなったこの文化部自体が時間に追い抜かされ、置いていかれているようなものなのだが〉という文章がある。ここで語り手はずいぶん細かく状況を語っている。注目すべきなのは、これが事件が起こる前の「日常」のシーンだということだ。もちろん本格ものに特有の状況説明が必要だという小説上の要請はある。しかし私達はふだん、このように細かく自分自身に説明するようにして状況を把握してはいない。もっとボーっとしている。当然、殺人のような「非日常」に遭遇すれば、一気にアドレナリンが増え、注意力は増し、状況把握神経も活発になるだろう。しかしこの語り手にとっては、そうした「非日常」がすでに「日常」となっているのだ。なぜか。それは語り手にとってこの学園生活の「日常」自体が抜き差しならない「戦場」のような「非日常」的空間であり、だから〈殺人事件なんて非日常は、昨日も明日も今日と同じように続く日常の前ではどうでもいいのだから〉と、死体発見後もそのテンションはまったく変わらない。長々とした状況把握の言葉も変わらない。こうした心情は、裏切りの気配はないか、尾行はついていないかなどと常に気の抜けないスパイのそれに似ている。休む間がない。「常人」とは違うからだ。そんな語り手は、窓の外の雨粒に手を伸ばしては響く音に〈まるで私を閉じ込めるこの小さな部屋からの警告音のようだ、と思う。どこにも行ってはいけないと、あるいはどこに行けやしないのだと、そんなことを教えられているようで少し気が滅入る〉と、こうした日常に閉塞感を覚えている。そして「薫夜」との会話のあと、〈胸に詰まった空気ごといろんな気持ちを吐き出すと、読みかけの文庫本に視線を落とした〉。私はこうした部分に違和感を覚えてしまう。シンプルな事件に対して設定が多過ぎないか、「薫夜」は読心術を持っているのになぜ捜査を行うのかといった点もさることながら、まず「語り」のレベルで、もし「強者のミステリ」がありうるとして、「ユキ」は本当に強者なのか? 「ユキ」はいったい何のためにこんなに長々と語っているのか? 彼女の読む「文庫本」(たぶんミステリ)はつまり退屈な日常に対する「慰め」ということになるけれど、「強者」が「慰め」を必要とするだろうか? もし必要とするとして、たとえばこの「箱庭キラル」のようなミステリ小説を「ユキ」は「慰め」に読むだろうか? 読まないのではないか? そしてそれは語り手の語り手自身による裏切りではないか? 「強者のミステリ」とはそのようなものなのだろうか? というような疑問が挙げられると思う。それは私がミステリおよび物語における「弱者」「強者」の概念を重要なものだと思い、なおかつ「強者のミステリ」は不可能なのではないかと思っているからだ。つまりどういうことかというと、物語行為において、語り手はある必要に迫られて(ある不足を補うために)聞き手に対して語るわけだが、本当の「強者」がそんな不足・欠如を気にかけるだろうか。最高の強者といえば全知全能の「神」ということになるだろうが、「神」が謎の捜査だとかいったことを必要とするだろうか? 主役二人は本当は「強者」ではなく「弱者」なのではないか? ラスト、「ユキ」に「あんたは、何をどこまで知ってたの?」と聞かれ「すべてを」と答える「薫夜」は、なぜ(たとえば西尾維新の「戯言シリーズ」のヒロインのようにひきこもらずに)きちんと学校に通い、自分より弱い者ばかりを嬉々として相手にしているのか? そんな(題名通り)「箱庭」の中の裸の王様が「強者」と言えるだろうか? 語り手がラストで見る「広大な空白」とは何か? 彼女たちを絡めとり、作中では決して描かれないその「広大な空白」=欠如を強いるものこそが実は本当の「強者」なのではないか? 彼女たちが本当の「強者」となるためにはそこと戦わなければならないのではないか? そしてそれは一見「強者のミステリ」であるこの作品が抱え持つ脆弱性なのではないか? そしてそのことを登場人物である彼女たちは本当は知っているのではないか? といったことを考えてしまう。長々と述べてきたけれど、それは作中の「ユキ」や「薫夜」の長い言葉責めに拮抗するためでもある。題名の「キラル」というのはたぶんこのあたりから来ているのだろうが、私には「箱庭」の外に鎮座ましましているはずの、「箱庭」という閉塞環境を形作り登場人物を絡めとる本当の「強者」に決して向き合わない主役二人が痛々しく見えて仕方がなかった。
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最後にレイアウトについて。この本は「30字×39行×2段組」で1ページあたり2340字を詰め込んでいる。通常の四六判単行本はだいたい700字〜800字くらい(文芸誌なら1300〜1400くらい)なので、相当な量だ。行間があまりにも狭いので、ルビが読みづらかったり傍点の多い段は行がズレて37行くらいになったりしている(傍点もデカイが)。上下の余白は空いているので、たとえば「35字×34行×2段組=2380字」などと行を減らしても良かったのではないかと思う。
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思いがけず長々とエラソーに語ってしまった(それは自分の本意ではない)けれど、今後のご活躍に期待ということで、この辺りでどうかひとつ。まだ読んでない方も、機会があれば読んでみてください。
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