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襤褸は着ててもロックンロール

「未読」の「恥ずかしさ」、および地図について

いま手元に原本がないからウロオボエで書くけれど、ギルバート・アデアの評論集『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』に、ゴンチャロフオブローモフ』およびその周辺にある言説(たとえばドブロリューボフいうところの「オブローモフ主義」)に触れて、現代人(?)は『オブローモフ』を読んだことがなくてもいい、しかし『オブローモフ』について誰かが何かを書いたことはすべて読まなければならない、というような意味のことが述べられていた(と思う)。
高校生だった私は率直にいって意味がわからなかった。読んだほうがいいに決まってるじゃん、と思った。
いま思うに、もちろんそれはある種のレトリックだったのだろう。それから幾歳か、ようやくアデアの言葉の意味していただろうことがわかってきたような気がしている(なにしろ手元にないからわからない……とここまで書いてきて思ったが、そうとうアヤフヤな記憶だな)。
というエピソードは話の枕で、本題はここからだ。
上記の『オブローモフ』は例だ。一冊の本はある文脈のなかにあり、他の本と関係づけられ、言説地図を形づくっている。『ドン・キホーテ』を別の例にしてみる。『オブローモフ』よりさらに引き合いに出されることの多い小説だと思う。いま、『ドン・キホーテ』について独自のことを何か語ろうと思ったら、そうとうな準備が必要となるだろう。あんまりにも話のなかでよく見るものだから、我々は、「ああ、『ドン・キホーテ』ね、ハイハイ」などと思ってしまう。つまり、『ドン・キホーテ』についてある程度の地図を持っている。
しかし、実は私は『ドン・キホーテ』(岩波文庫でいうと全六冊)をまともに読んだことはない。にも関わらず、「ああ、ハイハイ」などと思っている。他人の言説を読んだからだ。
このような状態と、「『ドン・キホーテ』って何ですか?」とその存在すら知らないような状態とでは、同じ未読でもやっぱり違うところがあるだろうと思う。
 ※
ガイドブックというのは地図のような役割を果たす。何が重要で、何が重要でないか。ある文脈のとりまく言説地図を案内してくれる。本来ならばそんなものは参照せず、何ごとにも丸腰でとびかかっていくほうが望ましいだろう。
しかしそれには個人では時間も労力も能力も足りない。他人に肩代わりしてもらう必要がある。
肩代わりによってなんとなく、自分の今いる地形および座標などがわかる。私は北極にも南極にもいったことがないどころか日本を出たことさえないが、地図上で北極と南極と日本の場所なら即座に抑えることができる。
もっと卑近な例にしてみよう。登らなくていい山、落ちなくていい穴、避けるべきボッタクリBAR、閉店間際のシブイ居酒屋、等々……。他人の紹介によって事前に見当をつけ、状況を把握していく。そして実地にあたってみる。思ってたのと全然違った、ということも当然ある。「なんであの店が“名店”に入らないんだ」、というようなこともある。「客観的な言説」とはあくまでも仮構されたものであり、個々人の持つ地図は微妙にずれる。全く重ならない、ということもある。
物心ついた時、世界地図に空白の場所はなかった。それが当然だった。しかし、言説の地図に完成はありえない。いまこの瞬間にも空白は無数に増殖し続けている。
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私は『オブローモフ』と『ドン・キホーテ』を読んだことがない。「まあ、いつかきっと……」とは思っている。作品名は知っているし、それをとりまく言説もうっすらと知っている。つまり貧弱ながら地図を持っている。だから、ちょっとくらいの会話なら「読んだフリ」をすることもできる。
地図は日々更新される。自分の内でも外でも。
何が言いたいかというと、「未読」ということに伴うある「恥ずかしさ」についてだ。ふだん生活していて、「『ドン・キホーテ』を読んでいないなんて、自分はなんと恥ずかしいんだ……」と思うことはない(とここまで書いてきて、こんなことをなぜ告白しているのかとちょっと恥ずかしくなってきたが)。
もちろん、こんなお気楽なことをいっていられるのは、話を趣味や嗜好に限っているからだ。その方面の文学研究者や専門家なら、誰かと会話していてメッキがはがれ、あるいは研究の必要上から現在の自身の限界を感じ、「お前はなんて不勉強な奴なんだ!」ということになり、「恥ずかしい……」となることはあるかもしれない。ロッジの『交換教授』に出てくる「屈辱」ゲームみたいに(と、ここで通俗的な話を持ち出す私は『交換教授』ももちろん未読)。
しかしそんな状況でもないかぎり、「恥ずかしさ」を痛感するということはない。ドーナツの穴みたいなもので、私はその作品の存在を知り、何年もかけて外堀を埋め、その上で「今はいいか」と放置し続けているのだから(このような状態に安住し続けることがもっとも危険なのだろう)。
「全く存在を知らない」、という場合も、「恥ずかしさ」を覚えることはないと思う。「なんですか、それ」ってな感じだ。
「恥ずかしさ」を覚えるのは、「地図」についてある程度わかりかけた状態でその「存在」を知る際ではないか。
「えっ、そんなことも知らなかったなんて……ワタシ……」
たとえば「新本格ミステリ」を例にとってみる。綾辻行人十角館の殺人』。「館シリーズ」一作目にして著者のデビュー作だ。「館シリーズ」なら『十角館の殺人』以外は全部読んだ人物がいたとする。この場合、未読であることに恥ずかしさを感じるか。「ああ、なんかなんとなく手に取らなかったんですよね……友人からネタバレも食らっちゃったし……」というようなことになるのではないか。
別パターン。「『十角館の殺人』で新本格にハマりました!!!」という場合。「いやー、なんでもっと早くに読まなかったんでしょうねー、ホント後悔ですよ」――この場合も「恥ずかしさ」はない(たぶん)。
あるいはこのようなパターン。「新本格はこれまでも読んできて、法月さんとか麻耶さんとかが好きで……」「じゃあ君的にはどう思うわけ、叙述とかさ、ホラ、『十角館』とか」「ジュッカクカン……ナニソレ……?」「えっ」「えっ」(三日後)「は、恥ずかしい……」
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と、あまりにも作りものめいた例だが、私のイメージする「未読ということに対して恥ずかしさを覚える場合」、ということを書いてみた。
現実は当然、もっと複雑だ。地図制作に終わりはなく、事態は絡まりあっている。
「その歳まで生きててさ、歌舞伎俳優の名前一人も知らないわけ」
「はい……」
「有名な落語家の顔と名前くらい、一致しないわけ」
「はい……」
「シェークスピア劇のあらすじくらい、題名聞いただけで説明できないわけ」
「はい……」
いきなりこのような「常識力」を試される状況もあるだろう。この場合は「知らない」=「恥ずかしい」だ。当の歌舞伎や落語や演劇を見たかどうかは関係ない。
このように、「未読」の「恥ずかしさ」には、「知っているかどうか」「実際に読んだことがあるかどうか」が複数の面で交錯している。
その上で、「ああ、あの人はなんでもよく知っているのに、自分は……」と自身に引きつけて「恥ずかしさ」を覚えることがあるのではないかと思う。
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ガイド(特にブックガイド)は地図のようなものだと思う。精確さの違いはあれ、絶対ということはない。「ガイドのガイドはないのか」という気の利いたつもりのシャレなら、誰もが一度は思いつくだろう。しかし、ガイドの作成あるいは読解はある種の情報操作にすぎず、それによって身体感覚が養われるということはない(と思う)。エベレストについて書かれた文章をさんざん読んで、実際にエベレストに行ってみる。読んだことで体験が既知のものに感じられ、瑞々しさが失われることがあるかもしれない。けれどそれは、他人の言説に毒されすぎたか、あまりにも時間が経ちすぎた、ということでもあるだろう。その意味では、感銘を受けるにはタイミングが重要、ということにもなるか。
もし「ガイドのガイド」が実現したとする。しかしそれは、「参考書マニアだが決して実際の成績はよくない受験生」みたいなものではないか。本自体が現実に対する何かのガイドなのだ。
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私の場合、ガイドを読んでも、ガイド通りに順々に試してみる、ということは滅多にない。ツマラナイからだ。学者でもないのだからそれよりも、自分で勝手に文脈をつなげていくほうが楽しい。
「俺の参考書マニア魂をなめんなよ!!!」と燃える方が作ったガイドだったら、ちょっと読んでみたい気もするけども。
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今回は仮定の話が多すぎて「何言ってんだ」と思われるかもしれないが、つらつらと思いついたことを書いてみた。