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襤褸は着ててもロックンロール

「四十日と四十夜のメルヘン」をめぐる四つの感想(その2)

単行本
単行本版を読んでみると、文庫版にはなかった記述がいろいろ見られたため、「改稿のさい、かなり削ったのでは?」と思った。そこで、3バージョンの文字数を「1行あたりの字数×1頁あたりの行数(×段組数)×頁数÷400字(=原稿用紙換算)」で概算ながら計算してみた。
(1)雑誌版 約258枚
(2)単行本版 約200枚
(3)文庫版 約148枚
というように、この作品は改稿の際、主に「削る」ことによってシェイプアップされている。描写だとか説明的既述が絞られていって、日記の挿入箇所にも異同があるのだが、もっとも印象に残った「削られた」部分は、終盤近く、メルヘンの破綻の前に、クロードの隣人である東洋人女性「シモイグサ イオギ」とクロードとのやりとり(単p103‐)と、はいじま・みのるの文学講義が再び登場するところ(p単115-)である。
「シモイグサ イオギ」は、絵の具ではなくチラシを基にして作品をつくる画家。文庫版では、切れた絵の具を買いに出かけたクロードが住居にあふれたチラシにさらわれて「語り手の現在」へと場面が移るが、単行本では、その後「◇」を挟んでシモイグサとの会話になる(というか、文庫版ではシモイグサという存在自体が出てこない)。窓の外を人形の結婚行列のパレードがいく。いや、人形だと思ったら人間だった。クロードはシモイグサの部屋の窓からチラシをばらまく(ここはメルヘン本編のような「ですます調」ではない)。
そしてはいじま・みのるの話。はいじまの指南書『ニコライ先生の文章読本』に、「まずはあなたの生活空間をひとつの大きな座標軸としてとらえ……」というのがある。はいじまはロシア人の血を受け継いでいることから、作家志望時代、〈「レニングラード包囲戦で死を覚悟したバフチンへの心理的接近」なるものを試みていた〉(単p116)。そしてはいじまによるドストエフスキー罪と罰』の時空間分析が挿入される。ところがはいじまの記憶はかなりデタラメだった。ドストエフスキーの分析も間違っていた。中央から追われたバフチンレニングラードにいるはずもなかった。〈「当時はそう思っていた、という話でした」なんていうまとめ方をしていた〉(単p118)。ここで語り手は我が身を振り返る。〈しかし彼のような過ちは、わたし自身の経験に直接跳ね返ってくる。空間把握能力の欠如とでもいえばいいだろうか、でなければ失跡行為とか、事実誤認とかでもぜんぜんいいが、熟知しているはずの「地元駅の構造」について、わたしはまちがったことを書いていたのだ〉(p118)。語り手自身が、自分の信頼できなさを認める箇所である。
ところでバフチンは現代文学の必須ターム(人名)で、名前を見るだけで「ああ、バフチンね……」などと思う読者もいる。新人のデビュー作にバフチンの名前が出てくると、いかにも「ベンキョーしてますヨ」という気配が出てしまう。(だから文庫版で削除されたのだろうか)
時空間を描く
ところでこの「時空間」ということも、青木淳悟においては重要だと思う。「四十日」以降の作品では、時間と空間の使い方(文体、といってもいいかもしれない)が、他の小説と比べてかなり異様である。「クレーターのほとりで」「いい子は家で」「ふるさと以外のことは知らない」「このあいだ東京でね」、……。あまりにもヘンなので、最初は慣れない。読めない。しかし何度か付き合っているうち、まるでふだん使わない筋肉を使っているような刺激を受けてくる。
「四十日」の段階ではまだ、一人称で若者のリアルライフを描いた、「イマドキの小説」っぽい作風を想起させる。後から振り返るに、むしろ青木作品の中では「四十日」のほうが例外的で、第二作「クレーターのほとりで」で「おっ?」と思うジャンプがあり、『私のいない高校』ではもう誰も青木淳悟のことを「若者のリアルライフを描いた……」というような期待はしていない。
しかしデビュー作の段階では、まだ『私のいない高校』のような作品は想像できなかった。「リアルライフ小説」の尺度で計れば、「四十日」は「まるでダメ」ということになると思う。いかにも書き手自身を思わせる主人公が、「書けない」「冴えない」日常という「安易な」素材を用いて、しかもバフチン論を紹介したり、錯綜した構成を使って「ゲンダイブンガク」にも色目を使い、しかし肝心な「生活の切実さ」は描かれず……。文章も「名文」なんかじゃないし……。
だが、そうではなかった。「作家志望者のリアルライフを描いた小説」として「四十日」を読んでもツマラナイ。そうではなくて、もっと、日常的な時空間の認識方法だとか、テクストとの対話だとか、ふだん小説を読む際にあまり気にしないような視線だとかに着目していったほうが、面白い。
監視者の視線
たとえばコンビニでアルバイト店員として働く。ふだんコンビニを利用している際にはまったく気づかなかった、店内全体を見渡すある「視点」をその人は獲得する。これまでとは違う視線の系統を持つ。警察官になる。消防員になる。スパイになる。大企業社長になる。同じ「現実」を見るのでも、捉え方は異なる。そのように異なる視線が現実には無数にある。
語り手はチラシ配布員として働く。チラシ配布員としての視線で日常を眺める。そして常に雇い主の視線を感じている。内面化された管理者の視線が強すぎ、チラシを捨てられずに青森まで行ってしまう! 文庫版では、青森の公園の堀際で水面を見つめるところで次の場面に映るが、単行本ではしっかりと沈めている。「わたしはその場にしゃがみ、ダンボール箱に封をしたガムテープの一端をはがし、そこへ冷たい玉砂利を詰めていった」(p77)(その3に続く)