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襤褸は着ててもロックンロール

続・米倉あきら『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI』を読んだ

前回に続き、作品についてネタバレしていますので、未読の方はご注意ください。
恋愛について
作中、「強姦魔」と比較して語られる存在がある。名探偵だ。「論理」を語る者としての「名探偵」の存在の限界や疑問はこれまで、ある時は告発的に、ある時は滑稽に描かれてきたが、「名探偵」の方でも様々に様態を変えて、作品の中に生き延びてきた。「名探偵」の「論理」が周囲に受け容れられるのは、彼とその周辺とがある「前提」を共有しているからだ。たとえば、超能力の存在を前提とする「名探偵」の「論理」は、いかに無矛盾だろうと、我々のいる「この現実」では受け容れられない。比良坂れいの推理が受け容れられないのも、「物事には全て理由がある」という「前提」が、その他の登場人物の視野の「前提」と異なるためだ。
生きている限り、誰しもが自分の視野を隣の他者とすり合わせながら微調整してゆく。誰も一人で「人間」になるわけではない。その視野と視野との間=関係に「空気」や「無意識」は起こる。が、比良坂れいはその調整を行わず、むしろ他人を勝手に位置づけてゆく。自分の視野に他人の視野を容れないのだ。
確かに、「前提」の異なる自分の推理を、「違う論理、違う思考、違うリズム」を持つ他者に受け容れさせるのは、「せんせい」の強姦と対をなしている。両者とも、他者を受け容れず、自分の視野をむりやり強要するという点では同じなのだ。
ここで話は変わるが、恋愛とはなんだろうか? この作品は、いっぷう変わった「ミステリ」であると同時に、「恋愛もの」であるとされている。確かに最後まで読むと、その要素もある。しかし、他の「恋愛もの」とはだいぶ趣きが異なる。
こんなふうに大上段に語るのもなんだかヘンだが(そしてそんな資格もないが)、社会的な慣習や世間的な打算などを抜きにして、原理的なことだけを述べると、それは「違う論理、違う思考、違うリズム」を持つAとBが、互いを他者として自己の前提に据える状態のことなのではないか。単に他人に追従するのではない。自分がいなくなるのでもない。ましてや、自分ひとりが頑張ってできることではない。他人を自分の前提に据えるというのは、簡単ではない。辛くもある。だから、全ての他人に対して深いところまで受け容れることはできない。しかしそれゆえにこそ、「恋愛」という「状態」はめったに起こらない「奇跡的」なことなのでもある。
「強姦魔」と「名探偵」を見てみる。彼ら二人は、自分の「論理」に相手を無理やり従わせようとしているだけだ。自分の視野と相手の視野が交錯しないのだ。そのために、どこまで互いの「論理」を進展させようと、納得することができない。他の誰かをターゲットにしている限りでは、協力関係を持つこともできた。しかしいざその「論理」が自分に突きつけられるとなると、今まで通りにはいかない。強姦魔と探偵にとって相手の「論理」の強要を受け容れることは、自分の「論理」の消滅を意味するからだ。矛と盾のようなもので、終盤において展開する推理合戦は、この互いの「論理」の落とし所を探っているのだ(ちなみに、推理は必ずしも真実を言い当てる必要はなく、うまい落とし所に「真相」を作り上げることこそが重要なのだ、というロジックのパフォーマンス性への転回は、何も目新しいことではなく、スパイ小説やハードボイルドに多くの例があると思う――具体的な例証の準備はないけれども)。
この推理の応酬を可能にしているのは、「事実」の軽視だ。この作品では、推理の素材となる「事実」が極端に少ないのだ。「事実」が少ないまま、推理によって「事実」の持つ意味をああだこうだと塗り替えようとする。通常のミステリでは、「事実」が多ければ多いほど、推理を次々と塗り替えていくことは難しい(いわゆる多重推理ものであっても、同一人物が自分の欲望に沿うよう「事実」の持つ意味を絶えまなく何度も塗り替えるように推理をくりだす、ということはない)。それは、推理が基本的に観察を通しての「事実」の収集に基づくからなのではないか。観察とは世界という他者を眺め、その論理を把握しようとすることであり、つまり推理の根本には他者を信頼し、肯定し、受け容れることがあるはずだ(もちろんそれを悪用した作品もありそれはそれで面白い)。
探偵役とは原理的に、この他者の受け容れによって失われた過去を恋い求め、混乱を鎮め、「この現実」の苦難を祓う者の謂だが、「事実」という他者の軽視は、たとえば「情景描写」や「人間ドラマ」を貶め、極端に記憶力の悪い語り手「せんせい」の持つ性格にも露頭している。
作品の終盤はほぼ会話によって占められるが、それは地の文=描写が追い払われているからだ。描写とは、単にかったるい文学的伝統なのではない。それは端的にいえば、作品の中に世界という他者を呼び込むことだ。だから、他者を視野から消し推理という自分の「論理」のみによって紙面を埋め尽くすこの応酬は、最もグロテスクな場面となっている。
しかし、作品が最も白熱するのもここにおいてなのも本当だ。私は前半を読んだ際、構成や文章のあまりの稚拙さに「本自体が出落ちかなあ」などと思っていた。けれど最後まで読み終えて、「これはこれで何かかもしれない」とも感じた。二人の推理の応酬は、対話となっている。対話は相手を受け容れることの最も基本的な作業だ。そこに「恋愛」は発生する。
二人の「論理」は自分以外を徹底的に蹂躙し、周囲を滅ぼし尽くさずにはいない。その肥大した自我が対話によって変容を迫られる。終盤でいわゆる「どんでん返し」の応酬が次々と退けられるのは、ただ思いつきを述べているのではない。自身が自身であることを譲らないまま(つまり「乙女」と「強姦魔」であることに居直ったまま)、互いに相手を受け容れるための精神分析を行ない、そしてそうしたことを初めて行なう自分自身に戸惑っているのだ。
今や、作品の成立は「恋愛」の発生にかかっている。この精神分析的対話の前では、全ては予測可能だと豪語したかつての「論理」はまったく用をなさない。なぜなら、「予測」とは「今」の尺度=視野で未来を計測することだが、時間はこの対話という交通によって尺度を超えた偶然を呼び込み、計測器自体の変容を促すからだ。二人にとって互いの「論理」を受け容れることは、すなわち自分の変容を意味する。この変容は比良坂れいの姉の死における「事実」が基礎をなす。
目次に従えば、比良坂れいは次のようにして形態を変えていった。

  • 第一形態:せんせい=強姦魔ということが判明すれば、姉の死は比良坂れいによる殺人ということに。島民はそれを防ぐため、せんせいの強姦を隠蔽する
  • 第二形態:姉の死=せんせいの殺人を「事実」と見做した比良坂れいは、自身を「名探偵」と認識し、せんせいによる周囲の文芸部員の強姦を隠蔽、補助する
  • 第三形態:いよいよせんせいの魔手が自分に向けられた比良坂れいは、画策によってせんせいを陥れ、自身の乙女的世界観を死守しようとする
  • 第四形態(ヒラサカゼロ):乙女的世界観の崩壊。せんせいの死

通読して全体像がどうもわかりにくいのは、この形態変化を比良坂れいが途中から「最初から演技だった」と言いだすからだろう。しかし、姉の死から全てが出発することと、相手を滅ぼす論理の変容、ということは通底している。終章の冒頭で、姉の死の真相がぼんやりと明らかになる。つまり、比良坂れいの姉比良坂世界は、輪姦された後、当時のせんせいに告白するものの、フラれてしまい自殺した。その現場を目撃した比良坂れいは、自殺をせんせいによる「殺人」ということに記憶を捏造した。
姉の死=自殺ということ、その背景にせんせいの拒絶があるということ。この事実=歴史の認知から「恋愛」は始まる。

「……比良坂さん。いや、れーちゃん」
「……どうしたんですせんせい」
「子供扱いして悪かった」
「別にいいですけどね」
「もう教え子でもなんでもない。僕はきみと隣同士でありたい」
「そうなんですか」

ほぼ終わり近くのこの場面には何か、過剰な装飾を脱ぎ捨て、剥き身で向き合うフラットな感触がある。そして〈今更になって、彼女をまっとうに愛せなかったことを惜しんでしまった。更生の余地がないのならばさっさとこの首を落とせ。彼女に与えられるものがないのならば呼吸をする価値もない。十三歳の恋心みたいに消えろ。/「ならばわたしを犯して死んでしまえ」〉という極点、相互の変容=「恋愛」の発生と共に小説は終わる。「え、これで終わり?」「投げっぱなしじゃないの」という読者の感想がチラホラあったが、作品の論理に従えば、ここで終わるしかない。それが一般的なミステリと異なるために、戸惑いを与えるのだろう。
その子供について
……と、以上のように長々と書いてきたのは、「かつてのメフィスト賞を彷彿させる」という評があったからに他ならない。確かに『六枚のとんかつ』がフィーチャーされるなど、作者も大いに意識していると思う。個人的には、 メフィスト賞が発表されるたびに気になっていたのは、2008年の汀こるもの『パラダイス・クローズド TANATHOS』あたりまでで、以降は関心が薄くなってしまった。過去の受賞作を強く意識した佐藤友哉フリッカー式』(2001)をピークとして、受賞作の数からしても1998年〜2002年頃を「最もメフィスト賞が熱かった時代」と認識している読者は、私と同じ20代半ばくらいには多いのではないか(米倉あきら氏もそれほど年齢は違わないのではないかと思う)。
にも関わらず、ネット上では現在も「なんとしてもメフィスト賞を受賞してミステリ作家になりたくて書き続けている」という記述を見かけることがたまにある。応募総数の変化は、「メフィスト」各号の巻末座談会を確認すればわかるのだろうが、一時期に比べればやはり減っているのではないだろうか。
自分の中でメフィスト賞NHK爆笑オンエアバトルとなんとなくかぶっている印象がある。できた当初はそれまで潜伏していた得体のしれない人たち(森博嗣清涼院流水蘇部健一、……)をオーバーグラウンドに次々噴出させる役割を果たしたものの、それ自体のキャラクターに権威や伝統ができてくると段々勢いを無くしていく、というような……。爆笑オンエアバトルは「オンバトを見て芸人になりたいと思った」というハマカーンがチャンピオン大会に出たくらいから熱心に見なくなっていったのだが、思うに、何かを創る際には最終的に、◯◯チルドレンを超えなければならないのではないか。先行するものに衝撃を受け、自分も同じ道を志す。しかしたとえば京極夏彦森博嗣清涼院流水蘇部健一が書き始めた頃には、今のような「メフィスト賞というキャラクター」などなかった。講談社ノベルスの持つ性格は意識していただろうが、きっとただ書きたいように書いただけだったろう。メフィスト賞でも本格ミステリでも、きっかけは何でもいいけれど、最後のところではそうした形式という依拠できるものをかなぐり捨て、剥き身で過去と向き合う必要があるのではないか。
おそらくは『インテリぶる〜』の作者も、『六枚のとんかつ』のような系統を意識しつつ、ぎりぎりのところで書きたいように書いたのだと思う。それが別の賞から出てきたことも新しい、歓迎すべきことだとも思う。しかしどうにも物足りなさを覚えるのは、「探偵」と「強姦魔」による「論理」の対決、という中心のモチーフや数々の仕掛けの可能性があまり汲み尽くされておらず中途半端に感じるためだ。
たとえば、極端に記憶力がないせんせいの設定は映画『メメント』を想起させるし、その一人称語りという意味ではジム・トンプソンの『おれの中の殺し屋』、殺人が隠蔽される「システム」ではピエール・シニャック『ウサギ料理は殺しの味』やトム・ロブ・スミスの『チャイルド44』、終盤の皆殺し展開では浦賀和宏『記号を喰う魔女』などを連想した。つまり『インテリぶる〜』のミステリとしての面はこれらの先行作に通じているのだが、もしその可能性を本格的に総合した作品が今後現れれば、とんでもないカルト作となることは間違いないと思う。
最終場面のその後、つまり恋愛の果てには、作品の論理にしたがえば比良坂れいとせんせいの子供が生まれるはずだ。それはどのような新しい人間となるのか。勝手な好みを書けば、それは上記の先行作の要素を踏まえたものとなるが、僕の好みなど全く無視されて構わない。僕は今回、『インテリぶる〜』を過剰に評価も貶めもすることなく、この本を受けた読み手と書き手のこれからの可能性を、一読者としてただ剥き身で見つめたかっただけだ。
上に述べてきたようなことは、大げさだ、と思われるかもしれない。たかが娯楽。たかがエンタメ。たかがラノベ。たかが現実逃避。たかが新人。しかしこうしたタカの括り方こそがもっとも互いを侮蔑し、可能性を抹殺し、差別の源泉ともなるだろう。僕ら自身がこの負荷に耐えられないほど脆弱なものだとは、僕は思わない。

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)