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襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『ハサミ男』(2)

【『ハサミ男』の真相に触れていますのでご注意ください】
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SNIP and SHOT
さて約束のハサミ。昨年、後藤明生の『挾み撃ち』(1973、現在は講談社文芸文庫)という作品を再読した際、「これは何か『ハサミ男』に通じるものがあるのではないか」と漠然と感じた。それは「はさみ」という音の共通だけではない。後藤の小説はこんなふう。作者自身を思わせる40代の語り手であるオジサンがある日とつぜん、20年前の九州からの上京時に着ていた「外套」の行方が気にかかり、当時住んでいた東京〜埼玉の土地を再訪する、という探索譚だが、いくつもの要素を『ハサミ男』と同じくする。
まず風俗描写。つい笑ってしまうユーモア。通念的な因果関係の否定。「偶然」と「突然」。そして何よりも「模倣」。先行作品を模倣して自分のテクストを綴ること、それを後藤は積極的に肯定していった。なぜ小説を書くのか――それは小説を読んだからだ、と後藤は答える。テクストとは、決して単独な、歴史から断絶されたオリジナルなものなのではない。むしろ、先行する様々なテクストの夥しい引用から成る織物だ。このテクスト=引用の織物という認識は、殊能作品の方法論とも非常に近い。『ハサミ男』の物語設定は、当時流行した「シリアル・キラーもの」(およびサイコキラーもの)というミステリの結構を踏まえつつ、しかし逆に今やそのほとんどの作品群は時間の洗礼を受け、『ハサミ男』の輝きに届かない。何が違うのか。
主人公が連続殺人犯である。これは既にありふれている。プロファイラーが警察側の探偵役。これもあるだろう。では連続殺人犯を探偵役に、警察側を犯人としたら? という逆転。しかし、この逆転自体は実はたやすい。重要なのは、樽宮由紀子の殺害が「模倣」犯ということにあるだろう。「わたし」以外の「ハサミ男」がいること。この事実は「わたし」のアイデンティティを揺るがし、捜査へと仕向ける。「真相」の解明は、「ハサミ男A」(=わたし)と「ハサミ男B」(=模倣犯)との区別につながる。
では、堀之内は模倣犯だから敗れたのかというと、おそらくそうではない。「ハサミ男」という存在、ひいては連続殺人犯が語り手という小説の設定自体が多かれ少なかれ、模倣的なのだ。先行する物語群を総括し、切断すること。それ自体は珍しくない。シェイクスピアセルバンテスもそうだった。『挾み撃ち』の語り手は、「私なりの(ゴーゴリの)『外套』を書きたい」と願い続けた。模倣なくして新たな生成はない。ミステリは特にそう。しかしそれを実践しきることは難しい。「わたし」は通常のシリアルキラーを超え、堀之内は最初から敗北を義務づけられていた。
後続の利点は、前走者の足跡をガイドとして追えることだ。時にその歩き抜いた距離に途方に暮れることもあるが……ひとまず追ってみる。歩幅や足の形なんかによって、跡が完全に重なることなどない。必ずズレる。そのズレを引きずりながらさらに追う。
都市の詩学
ハサミ男は東京をよく歩く。刑事も。まるで歩くことがそのまま思考に繋がってゆくようだ。ちなみにいえば『挾み撃ち』の語り手もそうだった。エドガー・アラン・ポーの創出したオーギュスト・デュパンも。膨大な記号の凝縮である都市の合間を遊歩者が縫ってゆく。他人と同じように、毎日決まりきった生活を送っているのではなく、時間が比較的自由になって、街をしょっちゅう出歩き、些細なことに驚くことができる。その眼がポエジーを生む。
他人にはあたりまえのことが、あたりまえでない。それは疎外の感覚に繋がる。つまり、都市のストレンジャーということになる。『ハサミ男』の中でもっともエモーショナルかつ感傷的な箇所は、思うに「20」節である。「わたし」が樽宮由紀子を夢に見、その母親を訪ねる場面。

「たぶん、きみは娘さんを少しこわがっていたんだろう。彼女はまるで空飛ぶ円盤に乗ってやってきた火星人みたいに見えたかもしれない。でも、それでいいじゃないか。火星人だって、ちゃんと生きていけるさ。特にこの街ではね」
「あなたも火星人のお仲間なのね。しゃべり方でわかるわ」
「そうかもしれない」

樽宮由紀子も、自分が「今、ここ」に生きていることがなかなか掴めない女子高生だった。だから、試すように男とつきあった。それが殺人の動機ともなる。そんな樽宮は「わたし」と似ている。「わたし」の殺人は自殺未遂と表裏一体の関係にある。自分か、自分と似た少女を滅ぼさずにはいられない。
しかし――どうであれ、我々は“ちゃんと生き”る必要がある。

誰もが本当のきみを知りたがっているようだった。/みんなはあなたのことも知りたがっているわ。彼女は答えた。/でも、きみのことを、本当に理解していた人はいたんだろうか。(……)/みんながそれぞれに理解していたのよ。そして、彼らは彼らなりに正しく理解していた。すべての人が話したあたしが、本当のあたし。誰も間違ってはいないわ。

行為に理由があったからといって、共感できるとは限らない。感傷的に読もうと思えばどこまでも読めるそうした湿っぽさを、〈医師〉はクールに断ち切る。『ハサミ男』のうち、最もトリッキーな視点変換の印象を与えるのは、次の箇所だろう。「火星人」の少し前。

わたしと彼女のあいだには、なんの思いの結びつきも、なんの心のつながりもなかった。わたしの肺のなかには、とし恵に伝える言葉は何ひとつ存在していなかった。
わたしは彼女に何も答えることができなかった。
そうかい。では、ぼくが代わりに返事をしてやろう。
正直いって、ぼくは自己憐憫や甘美な追憶に耽る人間は好きになれない。
どうして彼らは、自分勝手な空想をひろげて、樽宮由紀子と自分との関係を肯定したがるのだろうか。

「わたし」を押しのけて〈医師〉が出てくる。そして、

もしそんな自己愛べったりの空想にひたることが、死者を葬るということなら、ぼくは樽宮由紀子を葬ろうとは思わない。
/ぼくはとし恵に答えた。
「可能性は八つある。すなわち、
(1)あなたは彼女を愛していた。そして彼女はあなたに愛されていると感じていた。だから彼女はあなたを愛していた。
(……)
(8)あなたは彼女を愛していなかった。しかし彼女はあなたに愛されていると感じていた。それでも彼女はあなたを愛することができなかった。
この八つ以外に可能な組み合わせはないから、どれでも好きなものを選べばいい。きみの心の傷とやらを癒してくれるものをね。これでいいかな。ぼくは新聞の人生相談係じゃないから、うまく返答しかねるな」
「なんですって……」
とし恵は眉をひそめて、わたしの顔を見つめた。
「あなた、何を言ってるの」
「単純な順列組み合わせの問題だよ。2の3乗イコール8。ただ、それだけのことだ。簡単だろ?」

簡単ではない。ふつう、順列組み合わせというのはこうした場面で出てこない。むしろ、私は〈医師〉の明晰さに、なにか明晰すぎることの悲しさのようなものを感じる。
ちなみに、「火星人」という比喩は、「ユリイカ」(「特集 ミステリ・ルネッサンス」)のインタビュー(聞き手=小谷真理)にも登場する。

――そうすると、殊能さんは、論理的に成り立って、構造がしっかりしている世界観が好きなんでしょうか。
殊能 読者としてはそうですね。
――作者としては?
殊能 よくわからないんですけど。『ハサミ男』にしても、考えていたわけじゃないんです。(……)だから、全くわからないわけです。ハサミ男が何なのか。だから結局、作業としては翻訳に近い。つまり、『ハサミ男』という小説は何処かにあったわけです。例えば火星にある。
――火星!
殊能 で、火星にあった『ハサミ男』という小説が「来る」。それで「読む」。でも、わからないわけです、火星語出来ないから。
――(爆笑)。
殊能 しょうがないから、何度も読むわけです。殺人鬼探偵ものらしいということが読んでいくうちにわかって来る。で、「ああ、これは面白いから日本語に訳そう」と。だから私は「火星文学翻訳家」と名乗った方がいいかも知れない。翻訳はあまり上手くないかも知れないけれど、火星語ができる人が他にいないから。

つまり、樽宮も「わたし」も作者も、火星人としての眼でこの東京を眺めたわけだ。(続く)