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襤褸は着ててもロックンロール

殊能将之を再読する/『美濃牛』(5)

「夜に耐えられるか?」
 美濃牛との出会いの場面は、巧妙に作られている。天瀬は、毒を飲んだ美雄と一緒に洞窟の中へなだれ落ちた。そして美雄の死体がクッションとなって命拾いする。一歩間違えば、自分が死んでいただろう。助けを求めて歩き出すが、しだいに体が熱を帯びてくる。どうやら落ちた時にできた傷口に雑菌が入ったようだ。そんな状態で、隠れキリシタンの地下墓地に辿り着き、美濃牛に遭遇する。
 美濃牛は、たくさんの棺桶を天瀬に示して、自分を倒しに来たものの逆に屠られた「勇者」たちだという。しかしもし隠れキリシタン説が正しいとすれば、彼らは怪物に倒された「勇者」たちではありえない(そんな危険な場所に墓地など作らないだろう)。「夜」をやり過ごすと、窓音と石動がやってくるが、彼らは「美濃牛」など知らない、出会っていないという。ここにはズレがある。天瀬の体験はすべて雑菌がもたらした熱による幻想なのだろうか? そう捉えることもできるが、美濃牛の「声」はずっと消えない。天瀬は変わってしまった。
 どれほど明るくなろうとも、“暗さ”――それは究極的には死への恐れということだろうが――が完全に消えることはない。洞窟の奥で美濃牛に出会った天瀬は、自分の中にそれを発見する。

 オズの魔法使いだ、と天瀬は思った。この声は洞窟の奥に潜む牛頭の怪物などではなく。すべてはカーテンの陰に隠れた小男のつくり出す幻影にすぎない。
 だが、牛頭の怪物よりもっと恐ろしいのは、自分の頭のなかにそんな小男がいるということだった。
頭蓋骨の内側は暗い。そこには、この大伽藍ほどの光も差さない。頭蓋骨のなかの暗闇に光を導き入れるには、肉が腐り落ち、うつろな眼窩を太陽にさらさなければならない。
 天瀬には、自分の頭蓋骨のなかの暗闇が、どこかでこの亀恩洞の暗闇につながっているように思えた。(第四章7節)

何を恐れることがあるのか。死は万人に平等に訪れるではないか。最も身近で平凡な出来事に、なぜおまえたちはおびえるのか?」(第二章14節)と問う美濃牛が死の側にいるとすれば、窓音は生の側にいるといえるかもしれない。彼女が生を肯定するぶれなさは圧倒的で、周囲からは謎めいて、あるいは死と同様に恐ろしく見えるほどだった。
 この生と死の眼にとらえられた瞬間、天瀬はそれまでの自分と決定的にズレる。洞窟の一夜を明かしても、この声が消えることはもう生涯ないのだろう。プロローグとエピローグにて、真夏の強烈な日差しのなか、ふいに彼の中で夜と昼の視界がフラッシュバックする。

 窓の外、建ち並ぶ高層建築の上に夜空が広がり、三日月がかかっていた。まるで、街の上に覆いかぶさった巨大な黒牛の瞳のように見えた。
 あの声が聞こえる。
 わたしからは逃れられない。もっと血が必要なのだ。
「だめだ。おまえには渡さない。窓音はぼくのものだ」
(……)
 窓音がつぶやき声に気づいて、目を覚ました。両目をこすりながら、天瀬を見上げる。
「どうしたん?」(エピローグ)

 天瀬は昼も夜も見張られている。
 生と死とのあいだの宙吊りについては、彼が洞窟に紛れこむ前、警察官の都築はコミューンの人間を調べながら、こんなことを思う。

(……)生と死のあいだで宙ぶらりんになっている点では、都築も彼らと同じ運命を分かち合っている。死は避けられない。そして、人間がいかにあっけなく死ぬかということを、捜査一課に勤務する都築は、いやというほどよく知っていた。
 生と死のあいだの宙ぶらりん、それが生きるということではないだろうか。死は避けられない。だからと言って、死を超越する必要もない。死後の世界はいらない。悟りも癒しもごめんだ。
都築は死ぬのが恐ろしかった。仕事で無残な死体を見るごとに、その恐怖は強まった。たぶん臨終の際には、「死ぬのはいやや! おれは死にとうない!」とわめきちらしながら、死んでいくだろう。それでええんや、という気がした。(第三章10節)

 そしてそれは、『ハサミ男』から『キマイラの新しい城』のラストシーンまでをも貫く、一つのモチーフではなかっただろうか。いや、生と死だけではない。都市と農村、ホンモノとニセモノ、伝統と革新、……といったさまざまな極のはざまで登場人物たちは生きる。この宙吊りは時にたいへん苦しい。二つの視線から見られることで、天瀬は、外面的にも急激な変貌を遂げるのだろう。しかし、別にどちらか一方の極へ性急にとびつくことはない。檻に閉じこめられる必要はない。大局的には時代の流れには誰もあらがえないのだろうが、それに反発しても、賛成してもいい。郷土史家がいちはやくインターネットを利用していようと、ブクステフーデが現代のクラブ・ミュージックに似ていようと、俳句をパンクスで詠もうと、農家の息子がゲイだろうと、それらはありふれたことだ。もしそうした一方を抑圧して排斥しようとする瞬間――おそらく事件は起こるのだろう。探偵はそれを捕まえる。

引用/サンプリングについて
 まだいろいろとわからないところもあるものの、このあたりでいちおう『美濃牛』の再読を終わりにしたい。
第一回で私は二つの疑問点を書いた。
(1)内容に比して長すぎるのではないか
(2)引用文献が多すぎるのではないか
 この二つの疑問は実は、残った「memo」を読んでいるうちになんとなくわかってきた。
 都筑道夫が亡くなった時(2003年11月27日)、「memo」にはこのように書かれている。

 都筑道夫氏の訃報をいまごろ知り、自分でも意外に思うほど落ち込んだ。
 ふと思い出したのは、『名探偵もどき』(文春文庫)所収の「金田一もどき」という短編だった。
 わたしはシャーロック・ホームズ明智小五郎金田一耕助本人が登場するパスティーシュがあまり好きではない。いくら敬意や愛情の発露だとはいっても、 他人のふんどしで相撲を取っている感は否めないからだ。オマージュを捧げるなら、自分のキャラクターと小説世界でおこなうべきではないかと思う。
 だが、「金田一もどき」は例外のひとつで、ハワイで暮らす老金田一耕助の姿に、わたしはほのぼのとした気持ちになった。そうか、『病院坂の首縊りの家』のあと、金田一はハワイに渡って、のんびりすごしていたのか、よかったなあ、と本気で思ったものだ。
 都筑氏も、娘さんのいる大好きなハワイでお亡くなりになって、よかったかもしれない。それにしても享年74は早すぎる。小説なんかもう書かなくていいから、ハワイでのんびり長生きしていただきたかった。(2003年12月前半)

 追悼というわけではないけれど、都筑道夫『最長不倒距離』をぱらぱら拾い読みする。現在は光文社文庫版が最も入手しやすいだろうが、手持ちの山藤章二装画の角川文庫版で。
 物部太郎シリーズといえば、まずは『七十五羽の烏』を第一位にあげ、『北斎当年二百余歳』が書かれなかったことを残念がるのが、本格ミステリ都筑道夫ファンの正しい姿だと思う。
 しかし、わたしは『最長不倒距離』が大好きなのだ。温泉でだらだらすごす雰囲気がたまらない。ロビーに化猫映画のポスターが貼ってある鐙屋旅館は、まさに都筑道夫ワンダーランドである。
 そういえば、『樒/榁』を書いたときも、主として温泉用語の参考に『最長不倒距離』を読み返した。
「裏庭に出ると、野天風呂まで、石だたみに下衆板がおいてあって、スリッパのまま、脱衣所へいけるようになっていた」
 というくだりを参考に「下衆板」と書いたら、校閲の方の?マークがついたので、「簀の子」に直したことを、ふと思い出した。(「memo」2003年12月後半)

「オマージュを捧げるなら、自分のキャラクターと小説世界でおこなうべきではないか」「温泉でだらだらすごす雰囲気がたまらない」「都筑道夫ワンダーランド」これらの評言は、すべて『美濃牛』にもあてはまるのではないか。「自分のキャラクターと小説世界で」つくりあげた横溝正史のオマージュにして、「だらだらすごす雰囲気がたまらない」殊能将之版「ワンダーランド」。長くて引用が多いのは、そのためなのか。都筑道夫は、よくいわれるように、自分が読みたいと感じる小説を書いた。とすれば、第二作目にして横溝正史都筑道夫経由でそうした「ワンダーランド」小説が書かれたとしても不思議ではない気がする。
 ※
 ところで、しばらく前に「モナドの方へ」というblogの次の一節を読んで、私はハタと膝を打った。「余談だが、美濃牛はメルヴィルの「白鯨」と比較すると面白いと思う。むしろ比較しているサイトがないのが不思議なくらい」。
 自分で比較してみようと思ったのだが、できていない。しばらくできそうにもない。そこで、後藤明生の短篇「鰐か鯨か」をご紹介して、お茶を濁したい。
「鰐か鯨か」では、メルヴィル『白鯨』とドストエフスキー『鰐』が比較される。『白鯨』は引用でできた小説で、本編の前に鯨に関する古今東西の文章がだーっと脈絡なくノート風に集積されている。本文中にも鯨に関することがいっぱい出て来る(のちに、後藤は『蜂アカデミーへの報告』で「蜂」を題材に同様の趣向をとった)。
 というわけで、長くなるので回をわけて、「引用」に関することを私もノート風に並べてみる。