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襤褸は着ててもロックンロール

アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』

知人が某誌に「都市SF」論を書いていたので、そこで紹介されていた、SFミステリの名作として名高い本書を読んでみた。
舞台は三千年ほど進んだ未来。地球は、先住民である地球人と、かつて地球から銀河の星々へ移民し、高度な文化を発展させて逆に地球人を啓蒙すべく帰ってきた宇宙人、さらに人間に従うべく造られたロボット、の三つの種族が住み、軋轢を抱えている。そこへ、宇宙人の居住区「宇宙市」で宇宙人の殺人事件が発生、地球人が犯人と目される。地球人側の刑事ベイリは旧友の警視総監に依頼され、宇宙人側のロボットで人間そっくりのダニールと組み、事件を捜査することに。
本書の地球都市は管理社会。八十億となった人類は自然から隔離された巨大屋内都市に住み、衣食住が厳格に管理されている。地球側のロボットはまだ人間とはほど遠い段階だが、人間の仕事を奪うため、ほぼ全ての地球人労働者から憎まれており、反ロボット派の地球人=「懐古主義者」たちによる暴動もしばしば起こっている。作中のテクノロジーは現在からすればナンセンスと思えるものもかなりあるが、人型ロボットを作り普及させる理由として挙げられている、身の回りの道具を改良するより、オールマイティな人間と似たロボットを開発した方が効率的、という考え方もその一つだろう。また、ロボットに職を奪われたら経済的に困窮してしまう労働状況だとか、いかにも管理社会的なひどい食糧事情などは、ロボットが悪いというより、むしろ経済政策のマズさにも思えるが、そうした政治や経済の事情、また地球人社会に比べ発達しているらしい宇宙人側の文明は、本書では描かれない(他のシリーズでは詳述されるのだろうか)。
異なる人種の二人が相棒となって障害を乗り越え友情を育むバディもののスタイルは、主人公のいかにも古いドラマに出てきそうな性格も相俟ってかなりオーソドックスに感じられる。解決シーンはロジカルな指摘に拘ったためか、背景のスケールの壮大さに比べこじんまりとしているように思う。またロボット三原則の盲点を突く真相、との評判で期待したけれど、今の目からすれば意外というほどではなくて、ただミステリとしての伏線回収はやはり非常にうまい。そして、一つの殺人事件が宇宙人対地球人という構図で政治化されるのと同じく、個人の尊厳という小さな正義よりも人類の発展という大きな正義が優先される政治的な結末は、さすがに管理社会SFというべきか。

読んだ後、岡崎乾二郎の次の言葉を想起した。
「食事の時間はそれを準備する時間に比べて悲しいほどに短い。食事が日常生活に占める最も重要な行事であるのは確かであっても、それは摂取した食物を消化する行為ですらもない。それを受け持つのは胃腸であり、彼らはその地道な消化作業に、料理にかかった時間と同じか、それ以上の時間を費やす礼儀をわきまえている。けれど食事はといえば、いかにもそれが仰々しい作法を伴うとしても、ただ食物が口腔を通り過し胃袋に落下するするまでの一瞬の出来事に過ぎなかった。(……)実際、誰もが知っているように、食事そのものよりはるかに豊かな経験を与えてくれるのは、料理の時間であった。この豊かな密度で展開される過程、複雑で多層化された時間が、労働として意識されてしまうとすれば、単純に料理の時間では、その経験を与えてくれる当の対象すなわち食物を摂取すること、つまりそれを直接所有することが禁じられているからだ。たとえ自分が食べるのだとしても料理のあいだはそれを我慢しなければならない。ひたすらその権利は食べる人間(自分自身も含めて)のために保存されておかれる。食べてはいけない――この禁止によって、料理は食べる人間に対する奉仕=下働きだと位置づけられる」(岡崎乾二郎「極薄の深さ」。偽日記さんより孫引き)
以下は、引用文とは無関係な私の連想。
『鋼鉄都市』において食物は重要なファクターだといえる。人類はその増えすぎた人口を維持するために窮屈な管理社会で貧しい食事とともに暮らさざるをえないのだし、そうした都市の食糧事情を支えそのことにプライドを持っている化学者は反ロボット派=懐古主義者のリーダーであり、また人間とロボットを物理的に区別する何よりの要素は食物を必要とするか否かなのだから。
食物の摂取にまつわる行為は、都市生活においては一般的に食事と調理とにおおよそ分かれるが、本書の管理社会においては料理が免除され、人は食堂でほぼ同じメニューを摂るだけ。料理という調理行為自体が非効率なものとされ、単に食事という効率が追求されているのだ。
確かに料理は食事という効率のみを考えれば面倒でもあるが、それに留まらない領域を持っている。そうした一面では非効率に見えてしかし他方では人間性の充実と深く関わっている行為は料理に限らず、芸術ひいては本書のような小説や娯楽の締める位置とも関わってくる。作中の食事や娯楽が厳しく管理された社会は当時の現実のある部分を反映しているのでもあるだろうが、そうした社会が窮屈なのは「効率」を判定するパラメーターがあまりにも貧しすぎるためだと今ならばすぐに分かる。そしてもし本書が面白く読み進められるのだとすれば、解決=食事シーンのみならず、雑誌連載ということもあってだろう、そこに至る捜査=調理シーンの要所で驚きをもたらす引きが充実しているだめではないか。ミステリの面でいう途中の捨てトリックの数々がなかなか面白く、本書がSFミステリの古典として評価されるには、そうした小説=娯楽としての通俗的なプロセスの充実が果たした役割が大きいのではないだろうか。結論という効率だけでは小説は成り立たないのだから。