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襤褸は着ててもロックンロール

ウィトゲンシュタインの講義が即興だったというエピソードを読んで、あることを思いついた。推理小説の解決シーンで探偵が話す行為は、語り言葉による聞き手へのパフォーマンスといえないだろうか。もちろん、それは即興というわけにはいかないから、一見正反対に見える。しかし、もしこの即興性を対話性の一種と考えれば、つながってくる部分もあるように思う。
では推理小説に対話性があるとすれば、どこにあるのだろうか。このあたり未整理だけど、思いつきをざーっとノートしてみよう。
ほとんどの推理小説においては、終盤で探偵が事件に対する自説をレクチャーする。解釈であり、事件の再説ともいえる。その推理は(読者を含めた)聴衆を説得するものでなければならないため、作者や探偵役は即興ではなく周到にプランを用意する必要がある。しかしたとえば、探偵役が相棒を伴う場合、説得プランは捜査シーンにおいて作られる。おそらくここが重要ではないかと思う。二人の視野は異なるものであり、その交差する点において探偵役はいち早く何かを読み取り、自分の計画へ組み込んでいく(たとえばワトスン役が何か失敗をして、「そうだったのか!」と探偵役が一人合点をする等)。真相レクチャーシーンでは容疑者たちへの疑問や反論を経て像がかたちづくられる。あるいはハードボイルドなら「インタビュー小説」と呼ばれるほどに、関係者へ聞き込みを行う。このように真相という一つの像は基本的に探偵がいきなり喋るのではなく対話的なプロセスを経て徐々に理解されていく。
作者においては(あの作品とネタが被らないようにしよう、この作品のトリックのここを翻案しよう)などという試行錯誤のプロセスを経る。あるいは「推理」小説として、読者の推理を引き出そうとすること自体、読者を作者との対話的空間に巻き込んでいるといえるのではないか。対話的だから面白くなるというわけでは必ずしもないが、面白い推理小説は少なからず対話的ではないかと思う。

ところである種の一般向け人文書を読むと、そのロジックの感触が傍点の使い方を含め新本格の解決シーンそっくりに感じられることがある。それはそういう本が講義を元にしているとか編集者を前にした語り下ろしだとかいうせいもあるかもしれないが、(ナルホド、こういう語り口であればヒットするのも不思議ではないな)と、何かの本でページの半分以上の言葉に傍点が振られているのを見た時に思った。