「叙述トリック」と語りの構造
物語言説(ナラトロジー)関係の本をいろいろ見ると、作者と読者の関係は、だいたいこういうふうになっている。
作者−内在する作者−語り手−物語−聴き手−内在する読者−読者
もちろん様々な異見がありもっと詳しい場合もあるけれども、基本的に上のような関係を持っているといえる(たぶん)。
「作者と読者の間の暗黙の了解のうちの一つあるいは複数を破ることによって読者を騙すトリック」という定義のうち、「暗黙の了解」をどうやって破るかといえば、こうした「語りの構造」の間隙や、前回の「言葉の多義性」を利用して破るのが「叙述トリック」である、といえそうだ。
たとえば一人称を三人称に見せかけるとか、三人称を一人称に見せかけるとか、そういうトリックもこの間隙から生まれてくる。ファンタジーに見せかけてミステリ、ミステリに見せかけてホラー、というような形式の錯誤も、こういう仕組みを胚にして生まれてくる。
我孫子武丸氏は、「叙述トリック試論」(『小説たけまる増刊号』集英社1997所収)においてこう述べている。
「叙述トリック」という妖怪が、日本ミステリ界を覆っている――などということはない。はっきりいって、全然ない。おそらくこの先もないであろう。
本稿をここまで読んできた読者は、筆者の考えをこう勘違いされているかもしれない。「これからは物理トリックにこだわっていては駄目だ。物理トリックに未来はない。叙述トリックを使おう!」
筆者はそんなことはまったく考えていない。筆者の考えはこうだ。
物理トリックに未来がないのと同様、叙述トリックにも未来なんかない。つまり”本格"ミステリなどというものにはもちろん未来なんかない。
こんなことは、少しものの分かった人には自明のことである。自明だと思わない人は、目をつぶっているか、もともと”本格"ミステリを好きではない人なのであろう。
ではなぜお前はミステリを書いているのだ、と問われるかもしれない。それにはこう答えよう。大きなお世話である、と。
筆が滑ったようである。もう少し言うと、こういうことだ。「未来のあることしかしちゃいけないんですか?」
新本格以降のミステリをある程度読んだことのある読者ならば、この論文が発表された92年以後、「叙述トリック」を用いた作品が隆盛を見せ、数々の実作が書かれ、ベストセラーともなったことを知っている。叙述トリックというテクニックと本格ミステリというジャンルの結びつきがあまりにも強く、また人気と衝撃力を持っていたことから、やがて「叙述トリックさえ使用していればそれは即ち本格ミステリなのか」という風潮が真面目に論じられるほど、混乱した状況も一時(特に2000年代半ば頃)は見られた(三軒茶屋さんの「フェアプレイと叙述トリック」についての落穂拾い」を参照)。最近は収まってきたようだけど、時に不必要と思われる箇所でまで「叙述トリック」が使用されている作品を見ると、「ここにまだ妖怪がいた!」と私などは思ってしまう。
「叙述トリック試論」からもう少し。
かすかな望みとして、「叙述トリック」をつきつめて考えた先には、なにものか分からないが、「本格ミステリ」を突き抜けたものが現われるような気もしているのである。
叙述トリックには、ただ読者をだますというだけでなく、ときおり世界が崩壊するかのような感覚をもたらす効果がある。読者はずっと登場人物や舞台の属性について誤認しているのであるから、それも当然のことである。そういった"騙り"と作品のテーマが一致したとき、深い感動を与える傑作が生まれることもあるだろう。(……)
もしどこかから出てくるとすれば、それは何か重いテーマを抱えた作家か、SF畑の作家からであるような気もする。(……)
アゴタ・クリストフのような作家の作品を読むと、戦後日本の温室のような環境で育ったことを恨まざるを得ない。ハンガリーに生まれ、ナチに追われていれば俺だって……などと下らないことを考えてしまう。
それはいまさらどうしようもないことなのであるが、テーマと叙述トリックとのかかわりがあったほうが、エンタテインメントとしてもより優れた作品になるだろうということを自戒を込めて述べ、本稿を終わりにしたい。
いま振り返ってみれば、「叙述トリック」とは結局のところ、語り手と聴き手の関係における、誤認のテクニックのことだった。これらは主に本格ミステリの実作を通じて開発されてきたが、テクニックであるからには、それ以外にも応用は可能である。
『ナラトロジー入門』(水声社2014)という本の最終部で橋本陽介氏は、こう述べている。
(一九)七〇年代の後半からは、ナラトロジーの理論的更新はあまり行なわれなくなってしまった。これは、フランス構造主義自体の衰退、および哲学的流行の変遷とも無縁ではないだろう。(……)
ナラトロジーによって私たちは、物語の構造を分析してみることができるようになった。ジュネット以降、あまり発展しなくなったのも、ひとつには議論が飽和点に達したからでもあるだろう。
20世紀にはナラトロジーの理論が発達したが、70年代後半から停滞した……。理論の発達はたとえば、上に掲載したような作者‐読者の関係における構造の整理と体系化をもたらした。国内ミステリにおける「叙述トリック」の発達も、こうした物語論の世界的な進展と無関係ではないと思う。「叙述トリック」は「語り」の構造そのものを利用するからだ。あの図式のような関係を、たいていの読者はふだん意識していない。しかし作品によってその構造が急に意識され、人気を得、あらたな実作が求められる。ところがその沃野にも限りがあったため、やがて新鮮さは薄れ、ナラトロジーの理論的更新と同様、テクニック自体の追究は頭打ちとなり、発展的解消――「テーマとテクニックとのかかわりがあったほうが、より優れた作品になる」のほうへと向かう。
我孫子氏は「戦後日本の温室のような環境で育ったことを恨まざるを得ない」と自嘲気味に述べているが、これはどういうことかというと、たとえば作者も読者も日本人で、同じような国産ミステリを読んで来、同じような作品を書いたり読んだりしている……つまり作者も読者も作品も金太郎飴のようでは、しだいに行き詰まるのも当然だ、ということではないか。新しい作品のためには、せっかく完成されたテクニックや整理された構造があるのだから、それらを手段としてうまく組み合わせて、既存の枠組を変質させるような、「突き抜けたもの」を目指すほうへ行くしかないわけだ。
アザラシ氏が「教程」の最後で述べているのも、同じことではないか。「叙述トリック4.0」という言い方は、要するに、「叙述トリック」というテクニック自体を主目的としてこだわっていては最早ダメだ、ということだろう。それを手段として、別の次元を目指すべし。すると、「教程」の最後、「異端篇」で挙げている例に自分がどうもピンとこなかった理由が、今なら説明できる。彼が「必要十分トリック」と名づけた技法は、他のものとはカテゴリーが異なるのだ。
場面1:昌樹と由美の会話。昌樹の父親は殺人を犯し服役後に失踪。父親は本当は無実だったと母親は語っているらしい。
場面2:真田が殺人犯らしき男を目撃。翌日、日出臣の死体が発見される。真田は「怪人物は如月だった」と証言。
場面3:二日後、真田と如月の死体が発見される。如月が真田を殺したあと、自殺したらしい。
場面4:探偵役アルーアが昌樹と由美を前に推理を披露。第一の殺人と第二の殺人は別物であり、日出臣を殺したのは昌樹と由美。如月は昌樹をかばい、第一の事件の目撃者である真田を殺害した。……如月は昌樹の父親だった?
ここで使用されているのは「叙述トリック」といえるだろうか。「語り」による聴き手への誤認がないことからすれば、いえないと判断できるのではないか。むしろ物理トリックが使われている。しかし他方、「場面1」が冒頭に挿入されていることによる、「語り」による何らかの効果もある。ではいったい、何が起こっているのか?
そう、これは「入れ替えトリック」という物理トリックと、構成(叙述)上の工夫という二つのテクニックが「テーマ」と結びつき、効果を上げているのだ。つまり、「テーマとトリックとのかかわりがあったほうが、エンタテインメントとしてもより優れた作品になる」のほうに踏み出しているわけですね。とはいえ上のようなトリックとテーマの結びつきによる効果自体は、「叙述トリック」以前にも見られるものであり、それをパターンに数えたのは、アザラシ氏のミスではないか?と私は思う。
そう考えれば、「異端篇」が他の例題に比べより長く、より「小説」的になっている理由がわかる。氏はここで、「叙述トリック」を目的ではなく手段とした、実作を示そうとしていたことになるわけだ。(つづく)