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襤褸は着ててもロックンロール

アーサー・シモンズ『完訳 象徴主義の文学運動』

T・S・エリオット『荒地』からの流れで、アーサー・シモンズ『完訳 象徴主義の文学運動』The Symbolist Movement in Literature(山形和美訳、平凡社ライブラリー、2006)を読んだ。エリオットは学生時代、この本でジュール・ラフォルグを知ったことから重要な文学的開眼をしたというのは有名なエピソード。実際に翻訳者の山形和美も、当初は『荒地』への関心からこの本を手にしたと書いている。「完訳」とあるのは版(初版は1899年、第二版は1919年)によって内容に増減があるからで、このバージョンは邦訳書としては初めてすべて網羅したもの。これまでにもいくつかの日本語訳があるが、最初の岩野泡鳴『表象派の文学運動』(新潮社、1913)以来、日本文学史でも少なくない影響を与えてきたという(漱石も原書を読んでいたようだ)。
この完訳版で紹介する作家は次のとおり。
 オノレ・ド・バルザック
 プロスペル・メリメ
 ジェラール・ド・ネルヴァル

 テオフィル・ゴーチエ
 ギュスタヴ・フロベール
 シャルル・ボードレール
 ゴンクール兄弟
 ヴィリエ・ド・リラダン
 レオン・クラデル
 エミール・ゾラ
 ステファヌ・マラルメ
 ポール・ヴェルレーヌ
 ジョリス=カルル・ユイスマンス
 アルチュール・ランボー
 ジュール・ラフォルグ
 モーリス・メーテルランク

以上のように、19世紀の主にフランスの作家たちを紹介したもの(シモンズ自身はイギリス人)。

作家を一章につき一人ずつとりあげていくスタイルで、執筆時の時間も場所もバラバラに発表されたのを集めたものだから、理論的著作というより、小伝ないし交流のあった作家に関するポルトレやエッセイという感じ。収録作家に私のなじみが薄いこともあって、個所によっては空疎に感じられるところもあれば、「自分なりの思考」による熱いエモーションを感じる個所もある。しかしそんなふうに厳密でない独断のユルさがあるからこそ、ある共通点を横断的に見いだしていけるという利点がある。それはシモンズ自身がある核心を強く持っているからだ。そうした横断的な簡潔なガイドとして読むと、なかなか面白い。
中でも目立つのはゾラで、始めからおしまいまで批難ばかりが連ねられ、じゃあなぜとりあげたんですかといいたくなるほどだが、フロベールが人物の簡潔な描写によって心情を間接的に効果的にサラリと醸し出すのと同じ時、ゾラはまさにその効果的な描写だけは絶対にせずに部屋の家具の材質なんかをえんえんと書き連ねているだろう、といった悪口は芸があって笑う。
シモンズにとって象徴主義の文学とは何か。それは〈可視的な世界がもはや実体ではなく、また不可視の世界がもはや夢の世界ではない〉ものだ。形而上的な世界(不可視)が記号(可視)によって表現されたもの、といってもいいかもしれない。ロマン主義との違いはたぶん、この「記号」性の重視にある。
結語の〈この世において完全に幸福になれる唯一の機会は、心の眼を閉じ、心の聴覚を殺し、未知なるものを理解する心の鋭敏さを鈍らせることに私たちがどれほど成功するかに存する〉でいう「幸福」とは、文学的幸福のことではなく、現世的利益のことだろう。つまり、これはシモンズの「火星人」宣言といっていい。実際、紹介される作家はみんなけっこうアル中になったり入院したりしている。シモンズ(1865-1945)自身も40代で精神不安定で入院しているし(1908年、旅行先で保護されたという)、エリオットも『荒地』を書いたのは療養生活中だった。心眼でモノが見えてしまう人物たちだからこそ現実生活の中ではどうも調子が悪くなってしまう、という感じでしょうか。

 

完訳 象徴主義の文学運動 (平凡社ライブラリー (569))

完訳 象徴主義の文学運動 (平凡社ライブラリー (569))