TBCN

襤褸は着ててもロックンロール

言葉のデトックス

昨日ぐらいからインターネット上でニガテなタイプの文章に立て続けに出くわしてしまい、アタマの防衛本能なのか、ゾゾゾ―っという拒否感が抜けないので、私自身のデトックスのためにこちらに箇条書きに放置しておくことにします(それぞれの項目は互いに別個の事象で、その間に関係はありません)。というとなんだか不幸の手紙というか、毒物の連鎖みたいですが、まあいちおう先にその旨明記しておくことにして、……。

◯小学生か中学生のころだったか、ちゃれんじを読んでいたら、編集部からのメッセージで「すぐキレることでモテようとする男子がたまにいるけどすぐキレるのはホントは恰好よくない」と書いてあった(たぶん木村拓哉主演の何かのドラマが流行っていた頃)。大人になっても有益なアドバイスだなあとおもう(しかしインターネット上ではしばしば、沸点の低い人がけっこうモテたりする)。
◯ふとしたことから有料記事購入を促すnoteにたどりつき、その冒頭をパラパラ見ていたら、twitter上では日々即マウンティングとも見えるような人物(フォローはしてないけどよく流れてくる)が急にへりくだるトーンになったので、客商売の現実と、レイアウトのキレイなキラキラ感と、テクストの内容のドヤ感のアマルガムが一挙に押し寄せてきて、ウアアアーという感じになってしまった。
◯漫画やアニメやゲームを論じるのにアカデミックな書物をもちだしてくるという所作が一時期流行った(昔からあったのかもしれないが十代までそれが真似できるぐらい2000年代以降流行った。と思う)。論じる対象の面白さを引き出す傍証としてそういうホンをもちだすのは勿論アリだけれど、「偉い人が高い本の中でこれこれこういう頭の良さそうなことを言っている(そしてそれは正しい)」「制作者は気づいていないかもしれないがこの作品には偉い人がいった正しい要素がナントカカントカのかたちで見受けられる」「だからこの作品は○○←結論(そしてそれを指摘できる自分もまた偉い)」というドヤ感が無言の内に透けて見えると、(ダサいなー)と思う。むかし保母大二郎だったかが「ミュージック・マガジン」で使った表現でいうところの「田舎の軽音部がコピーでやるファンタスティック・プラスティック・マシーン」みたいというか。いや田舎の軽音部がファンタスティック・プラスティック・マシーンやっても勿論いいんだけど、その両者が組み合わさった時にはどうしてもあるアトモスフィアーが醸し出されてくるので、そのすかしたアトモスフィアーを逆手に取って独自の表現を編み出すぐらいのことはしてほしい。偉い人がこんなことをいってるんですよ!あなた、それに気づいてないでしょう!じゃあ、僕が仲介してあげましょう!(そんなことに気づいてあげられる自分は名誉偉い人だ!)みたいな構図はなんかこう、いやーな感じがする。しかもそれをアカデミック風(あくまで風)文体でやったりすると最悪である。筒井康隆が「ポスト構造主義による『一杯のかけそば』分析」(『文学部唯野教授のサブ・テキスト』文藝春秋、1990)を書いた頃ならまだギャグとして通用したのかもしれないが(リアルタイムじゃないので知りませんが……)、それ以降になると、内容もパロディ、形式もパロディ、で、戦略としては弱すぎる。本当にその作品を大事に思っているなら、偉い人なんか二番手、三番手だろう。もしその偉い人が同時に大事な人でもあるならば、唯一できることは(そしてそれはもしかしたら最高のことかもしれない)、仲人としての務めを果たすことだろう。
◯30代くらいまでの若い人が書いた小説を読んでいると、たまにどうしてもこう、翻訳文体がしみついているというか、(あらま、ずいぶん新潮クレスト・ブックスと白水社エクス・リブリスと早川SFと国書刊行会で日本語作文のお勉強をなされたのですね)という感じが気になって仕方がなくてツライ、という時がある。さっきのFPMの比喩を引き継いでいうと、なんだろう、大学の軽音サークルのポスト・ロックバンドが作るオリジナル曲(ボーカルレス)のいけすかない感じ、とでもいうか……。もちろん思春期の頃はたいてい、前世代の音楽はキライである。私も民謡やフォークよりはFPMやポスト・ロックの方が好きだった。しかしいざ自分がパフォーマンスする番となると、FPMやポスト・ロックでは別種のダサさが醸し出されてしまう。ある存在が周知された共同体の中でそのフォロワーをやると、どうしてもダサさが自然に生じる。それを避ける道は三つある。1.まったく新しい形式をとること(これは最も難しい)。2.その共同体の中ではマイナーな外部の形式をもちこむこと(しかしこれは外部から見れば田舎のFPMに見える可能性がある)。3.もう一つは、いけすかなさ・ダサさを逆手に取って、外部でも内部でもない独自の胡散臭さにまで昇華させる方法〔しかしどうやって、……)。

以上述べてきたことはすべて、文章の内容には立ち入らない、形式の問題にすぎない。形式の問題もまた、古くて新しい、扱うに現在的な繊細さを要求する問題だ(たとえば最悪の場合これは今トーン・ポリシングと呼ばれる)。
以上のように書き始めた最初は、知らず知らず摂取したそうした毒物をやや乱暴に忘れる――排出するためだったはずなのに、いつの間にか、自分のための覚え書きのようになってしまった。すなわち、そうした繊細さをできるかぎり忘れないために、これを書いてしまったようだ。

たまに「毒吐き注意」と自己紹介欄に書いてしまう人物がいて、そうした所作は世間ではひたすらそっと遠い視線を送られる対象として扱われてしまうわけですが、(しかしそうした方々もやはりあまりにもハードな日常の中で自然と溜まってしまったポイズンを排出せざるを得ないのかもしれない……)と考えると、初めて、寛容的な気持ちになることができ、自分でも驚いた。