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襤褸は着ててもロックンロール

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」/アンドレ・ジッド「テセウス」

今日は『美濃牛』です。

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」(『島尾敏雄全集・第二巻』所収、晶文社
島尾敏雄には私小説や戦争小説のほか、夢で体験したことを再構成したような幻想小説の一群がある(ずーっと書き綴っていたという夢日記ノートをネタ帳にしていたと思われ、その名も「夢の中での日常」「夢屑」といった短篇から、『夢日記』『記夢志』といった日記体のものもある)。本作はその一篇で、国書刊行会刊の『日本幻想文学集成』にも収められている(編者は種村季弘)。
 しかしここでは、「ラビリンス」という語よりも、島尾敏雄・ミホ伝説の方に重点が置かれているのではないかと思う。かいつまんで書けば。太平洋戦争末期、九大文科卒業生の敏雄は、第十八震洋特攻隊隊長として奄美加計呂麻島に赴任。島の実力者の娘で小学校の代用教員だったミホと出会う。一九四五年八月十三日、特攻隊に出撃命令が下るも翌日、翌々日に延期。即時待機状態のまま十五日正午の敗戦を迎える。やがて敏雄の神戸の実家に移住し二人は結婚、敏雄は作家活動を開始するが……そこからは後は『死の棘』の世界です。八月十五日前後の緊迫――絞首刑を前にしたドストエフスキーの意識をさらに引き伸ばしたような――の様子は島尾ミホ「その夜」などに詳しく書かれており、それを収めた『海辺の生と死』の中公文庫版解説「聖と俗――焼くや藻塩の」で吉本隆明はこの二人の道行きを「聖」(戦時中のドラマティックな恋愛)から「俗」(散文的な戦後の日常)へとしていますが、そういう見立てにはテーセウス・アリアドネ伝説が重ねられていたような気がします(そうした捉え方に異議を唱えたのが梯久美子『狂うひと』新潮社、二〇一六ですが)。

アンドレ・ジッド「テセウス」(若林真訳、『若林真個人訳アンドレ・ジッド代表作選4・レシ第2部』所収、慶應義塾大学出版会)
→一九九九年刊(全五巻。原作の発表は一九四六年)。ジッド最後の作。テーセウスが自分の人生を亡き息子ヒッポリュトスに向けて(女遍歴を混じえて)語る中篇。ジッドは昔からテーセウスについて書こうという意図があったらしい(一九三〇年には戯曲「オイディプス」も書いている)。
 テーセウス伝説については様々なバリエーションがあるが、本作ではけっこう思い切ったエピソードの取捨選択がされている(以下、必要と思われる箇所のみ紹介する)。まずアリアドネについては、本作では常に邪魔者として描かれている。テーセウスにはロリコンの気があって(?)、アリアドネの妹のパイドラ(まだほんの子供だ)の方を見初めてしまい、アッサリとミノタウロスを倒した後は、いかにミノス家を騙くらかしてパイドラを島外に連れ出すか、が中盤の中心。で、パイドラをアテナイに連れ帰って育てて(ほとんど光源氏みたいなノリですね)妻とするのだが、前妻との間にできた息子ヒッポリュトスにパイドラは恋してしまう(やっぱりテーセウスとは歳が離れすぎていたのだ)。このあたりの三角関係の描き方はラシーネの『フェードル』(フェードルとはパイドラの別読み)を踏まえているようだ。テーセウスは実際にはポセイドンの息子なので、ポセイドンに祈祷しヒッポリュトスを呪い殺す(それを受けてパイドラも自殺する)。その後、アテナイを治めて王としての評判が高くなると、そこに放浪のオイディプスが娘アンティゴネとともにやってくる。このオイディプスとの対話が最終部のメインで、テーセウスは、自分はオイディプスに比べると格負けしてるよな……と感じる。オイディプスとテーセウスの境涯(特に母子恋愛の三角関係)を比較すると興味深いですねえ。
 全体が死んだ息子ヒッポリュトスに向けた一人称の語りになっているというのがクセモノで、ジッドがどこまで意図していたのかは知らないが、絶えず自己弁護をし続けずにはいられないここでのテーセウスは、かなり尊大な嫌味なヤツだと思う。カズオ・イシグロの『浮世の画家』や『日の名残り』あたりに近い感じを受ける。