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襤褸は着ててもロックンロール

ストレンジ・フィクションズ臨時増刊『夜になってと遊びつづけろ よふかし百合アンソロジー』の感想

 承前


 申し訳ない話ですが参加したにもかかわらずリリース前までに通読できていなかった『夜になっても遊びつづけろ』全作をようやく通読できたので、以下若干の裏話的なハナシを交えながらまた多少の内容にも踏み込みながら紹介していきたいと思います。

 

織戸久貴「綺麗なものを閉じ込めて、あの湖に沈めたの」

 もともと夜が好きなわけじゃなかった、といつも思っている。孤独でいることがことさら楽しいというわけでもない。けれど夜には、あの場所には自分の求めているなにかがあるんじゃないか、という淡い期待をおさえきれず、何度も誘われるようにさまよっている。

 この企画は元々、織戸さんの発案で、〈これは妄言なんですが、ストフィク百合文芸やるっつったら来る人いますか〉という発言があったのは今見ると2月1日のことで、その時にはまだ全然テーマも決まっていなくて、プランにはいくつかの案とリリース予定は3月末脱稿の4月中発売、とだけ書かれてある。私は正直馴染のうすいテーマ、というか、ウカツには手を出し難いなあという外面向けの警戒心が働いて(娘がいて家族バレしているこのアカウントでこのテーマで書くことのできる技量と見識と覚悟と胆力が自分にある気がしなかった)、まあ、今回は見送ろうかな、と思っていたら、千葉さんが〈タイトル『夜になっても遊びつづけろ』でどうですか〉と言い出したので、金井美恵子読者としては退くに退けなくなってしまい(特に『小春日和』に入っている「花物語」は最愛の短篇の一つなので)、馴染みがうすいならうすいでこの未知の領域の只中であるいは傍らでしばらくゴロゴロと向き合ってみようかな、ということで、エイヤッと清水の舞台から薄氷を踏む思いで腹を括ったのでした。で、「やります」とは手を挙げたものの特に勝算もないまま、織戸さんが次第次第に(自身で出した募集要項の上限文字数を二倍以上超えて)完成させてゆくのを青い顔をしながら眺めていたこの春先、でした。
 織戸さんの文章を読んでもう十年近くになると思いますが、一時期傾きかけたやや気取って見えなくもない古井由吉的な読み手に負荷を多量にかける文体にはある危うさがあって(古井由吉の場合は作者も高齢でそれこそがテーマで連作短篇でその道のオーソリティだからいいかもしれないけどそういう語りかけで大体がアドレッセンスな年頃の語り手が300枚も400枚も500枚も語ろうとすると無理が出てしまう)、最近はそういう美的なコンクリートな隙のない文体に読み手をもてなそうという独自のバランスないし余裕が出て来たように思います。
 で、本作のワーキングタイトルは「猫を捨てる」で、私はそっちの方がいいような気がしたのですが(「~たの」というやや幼い語りかけが最終部では大学生となる語り手の意識にマッチしていないような気がして)、結局はこの長いタイトルが採用されたのですが、数々の試行錯誤を経て得られた結末は(「前にも再会エンド書いとったやんけ!」といわれればそうなのかもしれませんが)、ことに最後の、作中の時間が、黄金色の光が斜めに射して無数の瞬きのように照り返しやがて燃え上がりゆく川面を渡る風とともにゆっくりと経過しようとしながら一方で語り手の言葉を裏切って次第にスローモーションとなって別の時間として結晶化するつまり二重の時間として分裂・結合する一文に辿り着いた時、私のように不案内な人間にも、なるほど、これか。これが百合なのか。と思わしめたのでした。

 

鷲羽巧「夜になっても走りつづけろ」

要するに、言葉があれば、言葉以外は、前に進むんだよ。なあ、そうだろ。だから喋らなきゃいけない。そう云うもんだろ。そう云うもんなんだよ。そうじゃなきゃいけない。

 鷲羽さんは初めて読んだのですがそれまでtwiiterアカウントだけ拝見しているとフェイバリットが『論理の蜘蛛の巣の中で』と『小説のタクティクス』、そして本作のテーマはやっぱり、というべきか、アメリカ。となると私自身とも関心のありかが近いような気がして参ります(京大SF研OBの呉衣さんにはいつか『ミスティック・アメリカ』を完成させていただきたい)。原稿を提出したのがまず織戸さん、私、九鬼さん、と先に用意をしていた人達で、鷲羽さんは四番目でしたが、この時はまだ誰も全体を把握できていないわけで、どーもよふかし百合アンソロジーです、と宣言しておいて私みたいに中高生が学校でどーたらこーたらヒャッヒャウフフみたいな話がズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラズラと並ぶと平々凡々で世に山とあるライバル連中の中で埋もれちゃうだろうな、アイツらには勝ちたいよな(とここで「○○百合合同」「××百合アンソロジー」などと書かれてある仮想敵サークルの既刊の表紙画像をサーバーに貼って)、どうかな、という一抹の不安もないこともなかったのですが、さすがというべきかいや当然というべきか、かなり異なるものが出てきて、大体このあたりから、どうも振れ幅が大きいアンソロジーになるらしいぞ、ということがハッキリしてきたように思います。
 この小説はロードノベル、というか、語り手が車を運転しながら同乗している聞き手に語りかける、という問わず語り式ないし劇的独白型の体裁になっているのですが、大きな参照元としてシモン・ストーレンバーグ『エレクトリック・ステイト』があるらしく、たしかにこれはリリース時に私もすばらしいと思ったのですが、鷲羽作は横組ならば右へ右へとなるところ、翻訳小説のていを装って、日本語縦組で左へ左へ、つまり西へ西へと電子書籍のページを繰らせていく意匠が秀逸で、その行動はやがて来たる長い夜の終わりを求めて疾駆する傷だらけのテロリスト(たち)の道行への加担を容易に連想させ、何気ない日常会話においてさえ、「爆弾作りたいよな」「一揆起こしたいよな」「国会前で◯◯のass holeに××ぶち込んでやりたいよな」などという穏やかならぬやりとりさえ漏れ聞こえかねない昨今、なんともその空気にマッチした忘れ難い感情を一読、想起させてくれます。

 

笹帽子「終夜活動」

「君はいま、耳を澄まして、この世界を見ているんだ」

「ASMRって何だろう?」と思って検索したら「Autonomous Sensory Meridian Response(自律感覚絶頂反応)」の略で、なんらかの心地よい感覚を引き起こす音響作品のことらしい。で、「10年くらい前に流行ったバイノーラル録音みたいなものか?」と思ったら、バイノーラルは手段に過ぎない一方、ASMRは感覚の方に重点がある概念なので、ASMRの方が懐が広くて混沌としているそうな。じゃあそれが小説とどう関係してくるのかというと、形式的にはASMRシナリオ風の表記(レーゼドラマのような台詞とト書き)のパートがあって、それが地の文に侵入してくる、というのが一つの読みどころになっています(部分的なレーゼドラマ風表記は過去の近現代文学たとえば金井美恵子でいえば『文章教室』などにも多数ありましたがこういうふうにスパダリ鬼畜系叙述トリック?な内容とマッチした「侵入」のかたちでの表現は初めて見たようにおもいます)。この方は合同アンソロジーに何度も参加経験があるからか書き方が慣れている感じで、今回のテーマに一番マッチしているのはこの短篇ではないでしょうか。三題噺ふうにいえば「百合」にカップリングされた「夜」から太陽が引き出されて、そこに異質な「ASMR」がぶつかってくる、という、さながら俳諧的な飛躍に、謎をちょくちょく残しながら進めていく書き方も、最近周囲で「小説がうまい」という言い回しが若干話題になりましたが、その意味で、うまい。

(完全に偶然ですが笹帽子さんの直前の私の担当篇のラストで出したEARTHのドローン・ミュージックというのは重低音を聞いたらリラックスできた――神経性頭痛がなくなった――ということなので、ASMRと繋がってんじゃん! と思いましたが誰も気づいてくれないと思うのでこの機会に書いておきます)

 

鈴木りつ「夜はさらなり」

「でもあれらしいよ 曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえるって」

「そうなんだ それで再現できそうなの?」

 実は、千葉さんと鈴木さんは落ちたかな(ションボリ)……と思った時があった(あったのです)。で、ある朝起きたら8頁くらいのPDFがアップされていて、6時くらいに読んだ。一日で仕上げた、という御本人の言はもちろん、ゼロから作り上げたわけではなく、事前にあるていど準備をしておいて一気呵成に描いた、ということだと思いますが、正直、「これが本当のクリエイティビティーというものか!」と衝撃に打たれた。すぐさまPDFを拡大して隅から隅まで眺めたんですが、全部の描線(あとスミの表現と映像的なモンタージュ感覚)がピチピチ生きて跳ね回っている、という感じで、自分が載せてもらった挿絵とは(当然ながら)較べるべくもなく、いやむしろ自分が同じ号に載っているのが烏滸がましいほどで、私も人間として三生ぐらい善行を積んでこんな線がかけたらいいな、と切に思い、その時、ああそうか、オレは人間なのか、と思って、それまで「百合が俺を人間にしてくれた」という物言いに(ホンマかいな)と大いに疑いを差し挟む心の持ち主だったのですが、もしかするとそういうこともこの世には本当にないこともないのかもしれないな、という心性の一抹の傾きを感じたのでした。

 ところで最後に主人公がうっすらと望みをかける「曜変天目が再現できたら、国から賞とかもらえる」ですがこれは金井サンとも若干関係があるので、紹介しておきます。国の賞(章)はふつう憲法14条の「栄典の禁止」のために紫綬褒章でも文化勲章でも賞金はなく(受章式のための交通費も自腹)、その意味では受章者向けに裏ワザ的に編み出された毎年年金が支給される文化功労者芸術院会員や人間国宝(それぞれ年間350万、250万、200万支給)がターゲットになるかもしれませんが、これは作家活動のオマケみたいなものなのでたぶん早くとも50代後半からで、また定員があるので欠員(端的にいえば死亡)がない限り入れない。賞金が出るのは芸術院賞(100万円)か芸術選奨(70歳までは30万円、50歳までは20万円)ですが反体制的、とまではいわないまでもいちおう非体制的な作家にとってはこれを受けるか否かが微妙な問題となるらしく、芸術選奨まではギリOKかな?ということで『カストロの尻』で芸術選奨を受けた際のことが「50年、30年、70歳、30万円」(「新潮」2018年5月号)で書かれているのですが、そういえばかつて第三の新人たち、つまり安岡章太郎阿川弘之遠藤周作小島信夫小沼丹やが次々と芸術院会員になった際、島尾敏雄は会員になるべきかどうかでだいぶ苦しんだらしく(その後会長)、そういうのをだいたい断った瀧口修造武田泰淳大岡昇平なんかもエライとは思うのですが、あんまり人が苦しむのも私はなんだなと思って、それぞれの方の判断についてとやかく言うべきではないのかなと思い直したことがあった(絓秀実があるトークイベントで秋山駿の芸術院入会について語るのを聴いた時)。iPS細胞研究の山中教授でさえあれだけ研究資金獲得に奔走されているのを見れば(ノーベル賞の賞金は一億円弱)、曜変天目の再現(というとまるで錬金術師のようですが)で国が支援してくれるかとなると……と思うと、その茨の道が推し測られて、二人の会話のその続きがますます見守りたくなるものとなるのです。

 

九鬼ひとみ「新井さん、散歩をする」

「見えないの?」新井さんはつぶやいた。

「誰が? ここには誰もいないよ」私が答えた。

 新井さんの瞳は、私ではなく別の誰かをとらえていた。

「聞こえないの?」

「だから、何も聞こえないよ!」

 この人はすごい書き手なんだな、と思ったのは、三年前に長篇『カップラーメンの呪い』を読んだ時でした。それまでは(失礼ながら)あまり文章がうまくない方なのかな、と思っていたら、そんなセコセコした文体観をぶち壊すぐらいの世界像こそを問題にしているのだ、ということが、ようやく腹に落ちました(その前の長篇がメフィスト賞の座談会で取り上げられて、今度はもっといくんじゃないかな、と思っていたら、一行コメント欄でさえスルーされていたのは無念の極みでしたが、何らかのかたちで広く読まれるといいな、と思うのですが。たぶん、九鬼ファンが増えると思います――と二年ぐらい前に御本人にお伝えしたのですが、実現の気配がないので、ここに書いておきます。『カップラーメンの呪い』が読みたい方は、下のアカウントの九鬼ひとみさんにコンタクトしてみてください)。

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「新井さん」は「姉妹団」が出てくる話で、そういうと、わかる方には「ああ、アレね」と伝わると思いますが、初稿ではもっと違う結末で、さすがに「これはテーマからギリギリ外れてるんじゃないでしょうか」などという話が出て、今のバージョンになったのですが、それが好評だと聞くともう我が事のようにうれしくて、このまま「何を書いても九鬼節になる」という路線を確立していただきたい。あと、矢部嵩さんの挿画。そういえば「殺人野球小説」を読んだ時に、結末まで読んで、器用な方だな、と唸ったのを思い出した。

紙月真魚「君の手に花火が透ける」

けれど、永遠に続く時間を今だなんて呼べはしないのだ。

 集中では織戸さんに続く長さ(100枚弱)の一篇。末尾の参考文献一覧を見るとわかりますがこれはたださえ困難な合同テーマに輪をかけて困難なテーマに挑戦した一篇で、読むまで(どうなるかな……大丈夫かな……)と勝手ながらハラハラしました。執筆前の梗概を読んだ段階では、架空の病気にしようか、どうか、という悩みもあったような気がしますが、そうしなくて本当によかった。というのはその話を聞いた時に、私は「これは絶対に架空の病気にしない方が良い」とお話して、でもそれはそれでハードルが高くて、なぜならこれまでこれこれこういう文学史ができていて、こういう地雷原があるからで、どうですか、挑戦できると思いますか、などと深夜のボイス会議で長時間お伝えする、という客観的に見ればなかなかにパワハラ気味な行為に及んだりもしたのですが、でも紙月さんはそこに挑むだけの資格も意欲も持っていた。
 考えてみれば、伊吹亜門さんも阿津川辰海さんもデビュー前の短篇はけっこう出来にバラツキがあって、でもそれは全部チャレンジングだった。こじんまりとこぎれいにまとまることなど問題ではなかった。そういう柄の大きさを見せつけられたような気がして、また進行管理に多大な労をとっていた織戸プロデューサーのゲキヅメ(誇張表現です)を乗り越えて〈百合小説アンソロジーに参加するのはギャングに入団するのと同じぐらい硬い覚悟がなければいけないよ、と死んだお婆ちゃんは言っていました。覚悟、それはわからん。〉と韜晦的に語られた努力の跡は、さなきだに男性だらけ(多分)の執筆陣について抱かれるであろうテーマ自体の持つ社会的構造的搾取感を二重に引き受けた上でそれを内破するという試み、つまり世界変革への意志に賭けられ、それが主人公の軌跡とシンクロして、読みながら電車の中でボロボロ泣いてしまいました(実際には整合性がよくわからない部分はあり、とりわけ最後にウルフカットの人物が現れるくだりは個人的にはやりすぎに思うのですが)。手記の最終盤、作者が台詞をキーで叩いているというよりは、人物の喉から声が迸っているように感じて、その強度は私もやろうと思ってできなかったことで、この人は色々アンバランスだけど、もう物語作者なんだな、とおもった。

 

murashit「できるかな」

人みな、さまざまな通信手段を介して、情報や感情をやりとりしています。情報や感情は複雑にエンコードされ、特定の誰か、あるいは不特定の誰かのもとに届けられています。届けずにはいられないからです。ですから、ひとけのない草むらにおもむくよりも、あなたの手元にあるスマートフォン、情報をやりとりするために作られた小さな機械(これも電気で動いています)をいじって、あの日あったことを誰かにぶつけてやればよいのです。みんなそうしています。あなたもそうしたのでしょうか。それともやっぱり、誰にも言えなかったのでしょうか。

 これは二人称小説ですが「夜になっても走りつづけろ」と大きく異なるのは、語り手の立っているシチュエーションが見えにくい点で、迂回的な噛んで含めるような語り口で、どうやら深夜に酔っぱらって帰り道についているらしい聞き手の状況を実況中継式に説明して作品世界を建て上げながら、しだいしだいにストーカー的というのか催眠的というのかナラティブセラピー的というのか、「あなた」と「わたし」の関係が見えてきて、そうか、そう終わるのか。というところで、終わる。

 ところが――最後まで読んだ方は、ここのあらすじ(いわばテクスト外)をよーく読んで下さい。エッと思うはず。そういえば冒頭に戻ると「はじめに」と書いてあった。「はじめに」とは何か。これはほんとうにメークビリーブなのか。だったらこのテクストはいったいどうやって出力されたのか。大いなる「???」の渦に巻き込まれることでしょう。ボルヘス的なようでいてそうでないような、正直一番「やられたな」と思ったフィニッシュだからとやかく言わずに「とにかく読んで」としか言いようがないのですが、こうなるともう「あとがき」が偶然?存在しないのさえ飢餓感を煽り立てられますね。

 

谷林守「彼女の身体はとても冷たい」

夏が近づいてくると、雨上がりの空気感が変わってくる。パーカーがじめっとする感触は不快だけど、雨上がりのにおいがアスファルトから立ち上がるときは、からっとした空がもうすぐやってくるという夏の予感が胸を満たしてくれる。そのにおいをかぐと、心がわくわくした。

 谷林さんは文書捏造能力(良い意味で)がほとんど辻原登的方向に進まんとされていますがこれは純粋に非SFで、学校ミステリ系です。たぶん、アンソロジーのテーマに対しては一番ストレートな、というか、手にした読者は事前にはおおよそこういう話を想像していたんじゃないしょうか(他が変化球だらけなので)。これは書いたら谷林さんに怒られるかもしれませんが、しかし他に書く機会がなくて私は良い話だと思うので紹介してしまいますが(なので先に謝罪したいと思います、申し訳ありません)、7~8年ぐらい前に谷林さん(その頃はまだおそらく谷林さんではなかった)が「小説に無関係な事象は世界に一つもない」(大意)とドストエフスキー直系的な発言をtwitterでしたら、どなたかが「じゃあ谷林さん(繰り返しますがその頃はまだ谷林さんではなかった)もいつかファッションを語れるようになるんですか」と絡んでいたのを目撃したのですが、私はこれは谷林さんが絶対正しいと思った。
 で、そういう、今を生きている人間(この作品でいえば地方から東京に引っ越してきた人物)が全身をセンサーにして全世界を感覚するという文章の「肌ざわり」(by尾辻克彦)が端々に現れていて、そのディティールの密度は同じく学校を舞台にした私とは比較にならないリッチさで、絶えず変化する人間関係の距離感、東京の昼と夜、賭けに用いられる食い物の個数とスイーツ系飲み物の数ヶ月差タッチの流行り廃り、プールの後の体感温度、吐瀉物の滲み広がりぐあい、幼い頃の記憶の仕方、などなど、いちいち(この人はここまで観察しているのか)と思わせられる。あと一つ挙げるとすると、本作では収録作中、ディスコミュニケーションが最も明確なかたちで露わになる。これはどちらかといえば「友愛」のほうに傾きがちだったこのアンソロジーの中では珍しく、だから「あの人は救われないままその後どうなったんだろう」というのが最も気になるわけですが、この「断絶」の身振りはやはりあえて取られたものと考えるべきでしょう(またモチーフとしてもちょうど織戸作の裏ヴァージョンのようなかたちになっており、「母親との関係がうまくいっていない」という私含め被りがちな設定を各人がどのように料理しているか、も比べどころ)。のみならず、アンソロジーを最初から順番に読んだ読者は、murashit→谷林守→千葉集と、作中のモチーフが不思議に奇跡的にミラクルにマジカルに連鎖してゆくことに気づくでしょう。これは純然たる偶然なのかそれとも多少なりとも執筆者が意識したかどうかはわかりませんが(原稿提出は参加者全員が見られるサーバー上で行われたので)、もしかすると多人数参加アンソロジー独自の面白味なのかもしれません。

 

千葉集「芋よりほかにふかすものもなし」

 食を通じて無知な大衆に知恵をさずけ、よりよき生を提案する。啓蒙かくあるべきと言わざるをえない。
「〝へえ~……あっ、でもビタミンCは熱に弱いんでしょ。焼き芋にしたらダメなんじゃないんですか?〟」
 あっ、痛いところだぞ。山岡さんもこれまでか……?
「〝それが違うんだな!〟」
 さっすが~~~。

 企画が動き出した頃に伊吹亜門『雨と短銃』が出て、千葉さんが〈あれからもう五年か……みなさんはどうですか。成長しましたか。本格ミステリ大賞は獲れましたか。〉といったので、〈少なくとも同人誌出したり特別賞もらったり連載したりしてるから漸進してるのでは〉〈😭〉というやりとりがあった。この前の『日本探偵小説全集リミックス』で千葉さんの「風博士vs.フェラーリ」が自主ボツになった時に、千葉さんも書き手としてそれなりに自己内ハードルが高くなってきているのかな、と勘ぐったりしたものでした。
 さて最終篇。アンソロジーのトリで総括的というか象徴的というか、ジャンル全体を俯瞰するようなメタジャンル的な話でオチをつけて読者の印象に残ってオイシイところを持って行く、というのはズルい人が使いがちな手で、私は『異色作家短篇集リミックス』『日本探偵小説全集リミックス』で二回ともトリでそういう反則技を使ってしまったので、今回はなるべく姿勢低くピースの一片になろうと思って、ではトリ役は誰かな、と思っていたら、千葉さんがそういう話を書いてくれたので、これを最後にしましょう、と提案したらそれが通ったのでした(「どこがメタジャンルやねん」と思われるかもしれませんが)。つまり織戸~谷林で本編が一周して千葉作でエピローグ的に終る、という感じになっているのですが、最初はもっと全然違う話で、学園ものとかアイドルものとか、話の根本から二転三転したはずですが、結果としては的の真ん中をハズシしているようでいてそうでないような、「よふかし百合とはいったい何だったのか」と読み手の心中をざわざわと搔き乱して即断を許さずいつまでも余韻の尾を引かせてまた新たな次の夜へと向かわしめるような、一番いいかたちになったのではないでしょうか。

***

 何千言かを費やして書いてきましたがちょうど書き終りつつある頃に上の評をお見かけして、ああそうか結局そういうことだったのか 、とその一言でようやく自分(たち)が何をやっていたのかが腑に落ちた。

 金井美恵子の第一エッセイ集『夜になっても遊びつづけろ』のタイトルの元となった堀川正美「経験」が最初に引かれている冒頭の一篇「若者たちは無言のノンを言う」は1967年11月に発表されたフーテン族に関するもので、本の全体としてはいわゆる68年ムーヴメントというかカウンターカルチャーの色が強い。それから半世紀以上経って当時の人もだいぶ死んだり生き残ったり成功したり失敗したりしたはずですが、私は十何年か前に京都の古本屋で文庫本(1050円)を買って、あと東京に出て来た時に単行本(315円)も買って、エッセイ・コレクション(2376円)が出た時にも買って、何度かパラパラめくってきたように思う。

なぜこれであれほどまでに焦げ付くのかがわからないんだけど、こういうのはもしかすると自転車に乗れる人が「自転車に乗れない人の感覚がわからない」というみたいなものなのかもしれない。

 2020年の春頃から自分でもよくわからない(本当はわかっている)実存的不安なのか夜泣き対応の後遺症なのか何なのか、22時ぐらいに子供と寝落ちして夜中の1~2時ぐらいに眼が覚めることが多くて、こんな生活してたら身体に悪いんだろうなあそのうち頭の血管破裂したり心臓発作起こしたりでもしたらヤダなと思いながら、企画が決まってからは起きる度に最近ようやく入手したPCに向かって、ああこんなんじゃ駄目だみんなが俺を笑ってるいや失笑さえ洩れない絶対零度だシチュエーションを逆手に取って読者全体をズンドコに突き落とすような小賢しい真似なんてできないし元々ない人望をさらに失うだけいやそれより一年待たせる方がひどい完成度より完成だ二番手になって勢いをつけるのが大事なんだ誰だってクソくだらないものの十や二十は書いてる駄作を発表する勇気!やっぱ没!妖異金瓶梅のオマージュなんかできないよ!山村正夫の忍者物ひでえな!もう昔のネタで凌ぐしかないのか!ラストはマシに書けたかもな!などと去り来たる思いをこう圧縮して書いてみるとヤバい人のようですが、別にそういうことではなくて、大体一か月ほど一夜一夜を呻吟して過ごしていくうちに春の夜明けはだんだんと早まっていったのですが、グロテスクで汚辱に塗れた世界の只中で、「日々の暮らしを豊かにしていく」(by織戸久貴)こととはいったい何なのか、ということを多少は実感できたように思います。もしかすると、ここまで読んできてくださった方にとっても、それが同じようであったら良いのですが。

 結果的に、いつものストレンジ・フィクションズメンバーから不参加となったのは犬飼ねこそぎさんだけでしたが、その代り(?)、カッパ・ツーを受賞したデビュー長篇『密室は御手の中』がついに完成して、7月28日に出るそうです。

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 ところで、レヴィ・ストロースの言う、思春期のインディアンが手に入れようとする守護霊、そのために試練の旅に出るところの守護霊に見合うものは、わたしたちにとってどのような形をもつのだろうか。わたしは文学少女だからさしあたって、守護霊は言霊だというくらいの破廉恥さは持ちあわせているが、他人のことは知らない。

 さてさて、いよいよこの原稿も終わりに近づいて来て実際嬉しさを隠しきれないところだ。今夜も、ジョージやサディやジミーや、ダダちゃんやキダくんは新宿のサテンでボンヤリしていることだろう。あるいはお芝居ごっこをしているかもしれない。とにかく、夜になっても遊びつづけろ! わたしは彼らの将来を心配する老婆心は起さないし、今年の夏彼らが社会に与えた衝撃を買い被りもしない。